第10話 

「若汐の時代は簡単に他の国に行けるのですカ?」

「時間とお金があれば簡単に行くことが出来ます。」

「お金はかかるのデスネ。」

「それはどの時代も同じでしょう。」


 郎世寧は若汐の答えに苦笑する。

確かにそうである。

 自分がイタリアから清国まで行く過程、船でどれほどの日数がかかったことか。

 どれほどのお金がかかったことか。

 きっとあの日々を忘れることはないだろう。

 もう何年も前の日のことを郎世寧は思い出していた。


「いかがなされましたか?」

「…ちょっとイタリアのことを思い出していまシタ。」

「……お帰りになりたいとお思いで?」

「イイエ。私にはここでやるべきことがありマス。ですから、2度と帰れなくとも私はそれを果たすまで帰りません。」

「それはご立派なお考えです。」

「…ありがとうございマス。」


 郎世寧はお礼の言葉が思わずカタコトになってしまう。

凛とした若汐の言葉に幾分か報われたような気がしたのである。

 康熙帝の時代に清国に来たが、雍正帝の時代でキリスト教は禁止された為にイエズス会との繋がりが薄くなってしまった。

 現代で言う北京に位置する所へ残る何名かの宣教師と繋がりがあった程度だ。

それは苦労の連続であった。

 何処か、孤独も感じていた。

 祖国を捨てるような真似をしてまですべきことなのか、迷っている自分が何処かにいた。

それを誤魔化すように絵画を描くことに没頭した。


 だが、孤独は絵画で埋めることは出来ない。


そんな郎世寧であったが、自分の果たすべきことという決意を言葉にしてみた。

迷っている自分がいるくせにしてみたのだ。

孤独を感じているくせにしてみたのだ。


 その言葉を肯定してくれる少女がいた。


 中身は成熟していても外見が少女である一介の女官が凛とした言葉を郎世寧に告げたのだ。

たった一言、『それはご立派なお考え』と。

簡単な言葉だ。

 だが、郎世寧にとっては今まで感じていた孤独と苦労が幾分か報われた一言だった。

 時に人は、何気ない一言で誰かを救うことができる。


「…本当に、ありがとうございます。」

「私のような者にお礼は不要でございます、郎世寧様。」


どこまでも優雅なお辞儀で少女は唄うように言う。

──きっとこの少女は奴婢の身分で終わらない。

郎世寧はそう確信した。


「そういえば、昨日は大丈夫でしたか?」

哲親王永琮てつしんのうえいそうの百日忌でしたね。問題ありません。円明園の女官長様にしきたりを教えて頂いていたので筒が無く終わりました。」

「それは安心しました。」


哲親王永琮。

孝賢純皇后の息子であり、第7皇子であった。

 大層、皇后と乾隆帝は嫡子の誕生に喜んだそうだ。

しかし数え歳で3歳で疱瘡ほうそう、現代でいう天然痘により死亡。

 中国時代劇ドラマでも悲劇の皇子として描かれることが多い。

昨日はその皇子が亡くなってちょうど百日目であった。

 あらかじめそのことを知っていた若汐は円明園の女官長を味方につけており、しきたりを学んでいた。

その為に罰を受けることもなく普通に宮女として働くことができた。


  昨日は皇子の死を悲しむかのような、酷い大雨だった。


ここ円明園もその大雨に見舞われ色とりどりの花や木々の葉がいくつも散った。


まるでそれは皇子の命の儚さを示しているかのようで。


 それを皇后や乾隆帝に思わせない為に雨が止んだ途端、円明園に勤めている宮女たちは急ぎで散った花弁や葉をかき集めた

 もちろん、若汐もその1人である。

昨日は服が汚れて大変だったと思い出していた。


「もしかすると、ここに皇后娘娘わんほうにゃんにゃんが訪れるかもしれません。陛下は皇后娘娘にご寛大です。昨日は大層お悲しみでしたカラ。」

「皇后娘娘がですか?」

「はい。一応、心構えだけはしておいて下さい。花を見て心を安らげに来るかもしれませんカラ。」

「かしこまりました。」


娘娘とはこの当時では主に自分より身分の高い女性に向けてつける言葉だ。

郎世寧付きの女官だとしても皇帝の正妻が何かを告げればそれは絶対である。

 皇后・富察氏。

 性格はとても良く、乾隆帝に最も愛された皇后とされている人物。

 それをドラマで見る分には良いが一介の女官でしかない若汐はなるべく会いたくはないと思っていた。

 皇后に関わるということはすなわち後宮に関わるということ。

清において皇后とは後宮の主だからである。

 あのような女しか居ないしかもただの女ではない、皇帝の奥様達に関わるなどごめん被ると考えていた。

 女とはいつの時代でも恐ろしいものを秘めているものだ。

それは若汐のドラマの見過ぎというわけではなく、人生経験も含まれていた。


(男性経験は残念ながらないけど。)


 若汐は元の時代では、リサイタルと音楽教室の仕事に追われていた日々に男のことについて考えている暇などなかったのだ。

 故に恋愛経験ほぼない人生を送っていたと言っても過言ではない。

そんな考えに若汐が耽っていると、円明園の女官長がやってきた。


「郎世寧様にご挨拶致します。」

「楽にしてくだサイ。」

「感謝致します。若汐。ここに居ましたか。」

「はい、女官長様。」


 若汐は片膝を深く下げて俯き加減で女官長に挨拶をする。

清朝時代の宮女や妃達がする独特の挨拶。

 片膝を床まで下げ、その下げた膝に両手を置き顔は俯き加減で。

他の挨拶の仕方もあるが、普段の目上の人への挨拶はそのようなものだった。

 立場が少々上だとしても同じ女官に対して本来ならそこまで礼を尽くす必要はない。

 そこまで深く膝を折る必要はないのだ。

軽く膝を折る程度で構わないくらいだった。

しかし若汐はあえて女官長にも礼を尽くしていた。

──味方は多い方が越したことはない。

その利便性を理解していた為に若汐はあえて下手に出ていた。


「皇后娘娘がこちらへ来られると連絡がありました。郎世寧様、お迎えのご準備を。」

「分かりました。若汐もですカ?」

「はい。陛下が特別に許された郎世寧様付きの女官でございますので。」

「かしこまりました。女官長様」


若汐は文句を言いたくなるのをグッと堪え、笑顔のままでそう返答した。

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