第9話 

「若汐。西洋式の噴水は知っていますカ?」

「はい。存じております。」

「実は陛下が噴水に興味を持っているようでして…ここに建設するかもしれないのデス。」

「曖昧な言い方をされますね。」

「もし現実になれば莫大な事業になりマス。慎重になりマスよ。」


 はぁ…と宮廷画家の身分は許されている郎世寧はため息を漏らした。

若汐は紫禁城の展覧会で書かれていた文章はどんなものだったか記憶を掘り起こす。

 乾隆帝は西洋の噴水の絵図を見て円明園に建設するよう郎世寧に命じたこと。

 円明園の噴水建設には様々なことが絡まる為に郎世寧は慎重になっていたこと。

 最終的には郎世寧は噴水建設を決断し、噴水を建設したこと。

そのような文章の記憶をどうにかして若汐は記憶から掘り出した。

 もう若汐にとっては体感にして数ヶ月以上前の記憶なのである。

正確な暦はもう分かっていない。

思い出せたこと自体が奇跡に近いものだった。

 若汐の中の人物が中国時代劇マニアだからであったからという理由も大きな1つだろう。

 彼女は自分が時代劇でも中国が好きで良かったと思う瞬間であった。


「陛下が命じた、ということはほとんど決定ですか?」

「そうなりますが…まだ決定は待ってもらっていマス。」

「左様ですか…。」


 笑顔は崩さないまま若汐はそう答える。

郎世寧はその若汐の表情を見ながら思い出していた。

 若汐が光の中から現れた時。

その表情には困惑しかなかった。

 もしかすると自分が生きてきた時代とは全く違う時代に来たという未知に近い怯えもあったかもしれない。

時代を超えてやってきた1人の不思議な少女。

 まるで西洋にある物語から出てきたような登場の仕方。

その事実は外見はまだあどけない少女であっても中身は成熟した女性であった。

 だからこそだろうか、と郎世寧は考えていた。

作り笑顔が決して崩れないのは。

 罰を受けても宮女は泣いてはならないのだ。

宮女を見ていて郎世寧はずっと思っていたことがあった。


──まるで人形のようだと。


 だが、若汐の作り笑顔は少々違うものであると感じていた。

どこか皇帝の妃のような、西洋の貴族とも言える気品を感じさせる作り笑顔だったのだ。

 明らかに奴婢ではなく他の宮女とはどこか違う雰囲気を漂わせていた。

そのことに本人が気がついているかどうか、それは若汐しか知らない。


「イタリアにある噴水は見たことがありマスカ?」

「はい。トレビの泉でしたら見たことがあります。とても美しかったです。」

「あの噴水を…。」


 祖国を離れて数年経つが、トレビの泉について郎世寧は知っていた。

トレビの泉とは現代では世界遺産の1つでありローマ歴史地区にある有名な噴水である。

 30年の年月をかけて1762年、ジュゼッペ・パンニーニによって完成されたものだ。

偶然にも郎世寧の名前と同じ人物である。

丁度この時代の時期に出来た噴水であった。


「若汐は博識ですネ。」

「いいえ。単に機会に恵まれただけです。」


キッパリと若汐はそう言った。

やはり未来人なのだな、と若汐の漆黒の瞳を見て郎世寧は改めて思う。

 東洋人がイタリアに当たり前のように行ける時代に本来は居る人間だと言うのだ。

 それが嘘ではないことは先程の発言と以前聴かせられたイタリア歌曲が証明していた。

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