芋虫くらい生で食え!

東山蓮

失明寸前

ぽこん


なにか頭に固いものが当てられて、僕は本から目を離した。身をかがめて拾い上げると、それはビーズが入ったピンク色の消しゴムのようだった。誰のだろう、消しゴムを手のひらで転がすと、ちょうどお尻の所に整った字で「山田あかり」と記名されている。

読みかけの本をひっくりかえして机に置いたまま席を立つと、コーキが僕の前にたちふさがってきた。そばにはランやユウタロウもいる。

「マドカくぅん、カワイ〜消しゴム持ってんね。もしかして、それお前の?」

違うけど、コーキくんが山田さんのを投げたんでしょ。

そう堂々と返せばいい。クラスのほぼ全員がこの一連の流れを見ている中で、僕がそう言って嘘つき扱いしてくる人はいないだろう。むしろ誰かに告げ口してもらえれば、この惨めでつらい小学校生活に幕を下ろせるかもしれない。

でも、やっぱり、それ以上に恐ろしい。

足が動かない。喉が張り付く。

僕は、こいつらに反抗できない。

別に逆らったところで家族を殺されるとか持ち物を投げ捨てられるとか、そういうことはないはずだ。それでも足は動かない。きっと、意気地無しだから。

だからせめて震える声で「ごめんなさい」と返す。コーキは水を得た魚のように「返事になってねえよオカマ〜!」と張り上げた声で肩を突き飛ばしてきたが、やはりそれにも反抗できない。精一杯顔を逸らし、棒きれのように役立たずな足をパンと叩くと小走りで消しゴムの持ち主の元へ向かう。

数人の女子と集まる山田あかりめがけて一直線に走り込むと、周囲にいるあかりの友人らにぶつかるように目の前に立った。

あかりは僕より少しだけ大きい。利発そうな眉とこぼれるほど大きな瞳でこちらを見つめている。その綺麗な顔に見惚れていると、目が合ってしまって慌てて俯く。僕に邪魔された女子たちは鬱憤を晴らすようにこちらを見てくすくすと笑っていた。泣きたい気持ちを押し殺して、なんとか話し出す。

「あ、キェ、消し、消しゴム!!が、落ちてて、あのっ、あんま触ってないから、汚くないです!」

「え、あぁ、うん。ありがと円くん」

あかりは無事に消しゴムを受け取ってくれたが、目に見えて困惑していた。当然だ。もし道を歩いている時に知らない人から「落し物です」と言葉になっていない声で伝えられたら、僕はきっと逃げてしまう。

でもあかりは、みんなに優しい山田あかりは逃げなかった。それどころか「ありがとう」と礼を言ってくれた。

ずっとそうだった。

以前あかりの体操服入れが僕の机に押し込まれていて、自分で入れたと疑われないように説明しようとしたつもりが余計に怪しくなった時も「わかってるから大丈夫だよ」と水に流してくれた。

僕と背格好が似ているせいで後ろから蹴り飛ばされたニイナが給食をひっくりかえしたこともあった。「お前と間違えたんだからおまえが責任取れよ」とコーキに雑巾を投げられた時も「私も手伝う」と一緒に熱い味噌汁を拭いてくれた。


来世があったら山田あかりに告白したい。


それだけが夢だ。自殺をすると転生できなくなるという都市伝説があるから、念には念を入れて自殺では死なないつもりだ。来世はもっと強そうな人間に生まれ変わるために徳を積むことも忘れない。今日もお母さんの仏壇にごはんと炒めた野菜を置いてきた。



そして放課後、コーキたちは僕で遊んでいた。いつもの体育館裏でユウタロウやランを含めた3人が僕を取り囲んでいる。今日は虫の気分らしい。コーキはスコップに青々とした大きな緑色の虫を乗せて、遊ぶようにこちらに近づけてくる。

「食えよ」

これはいつもの冗談だ。コーキは僕に雑巾の絞り汁をかけないし、靴も本当に舐めさせられる直前に「飽きた」と足を引っこめる。今回もどうせ、食え食えと言って満足したら帰るだろう。僕は恐怖に青くなる体の隅で少しだけ呑気な気持ちでいた。

「茹でたら食えるか?」

「いや、何その謎優しさ。そのままいけよ」

ランが笑うと、つられてユウタロウも笑い出す。茹でたところで芋虫が芋虫であることに変わりは無い。潤む視界が情けない。その一心でぐっと唇を噛み締めていると、2人の後ろからコーキが顔を出した。

「謝ったら許してやってもいいけど」

それ見た事か、ひとりじゃ何も出来ないくせに、いじめる度胸もないくせに。悪態をつきながら、しかし情けなさすぎる体はぷるぷると勝手に震え出した。いつものように頭を地面に擦り付けて謝罪する。不服そうにコーキを見ていたランとユウタロウがほぼ同時に吹き出し、数秒後にコーキも「はん」と鼻で笑う。

これで今日も開放される。

力の入らない足で何とか立ち上がる。急いで帰って、昨日録ったおいたアニメが見たい。読書をやめて消しゴムを渡してから本も読んでいない。

去年の夏からずっと、自分が帰ったらしたいことを考えながら、3人が帰るのを震える足で待っている。


「情けねーんだよお前はァ〜!」


裏返った声が響き渡った。聞いた事があるようなないような、おそらく女子の声。その場にいた4人は一斉に声の出どころへ顔を向ける。

おどろきのあまり、全員の息が止まったことがわかった。ざくざくと落ち葉の絨毯を乱暴に踏み締めながら声を張り続ける。時折キョだとかオだとかよく分からないことを言っていた。


声の主は、田中あかりだった。


「だん、男、男子ならさァ〜〜〜!!こんなんでメソメソ泣いてんじゃねえよ!」


右手に持った木の枝をコーキの前で振り回しながらあかりは囃し立てる。がに股で歩くあかりも、乱暴な口調で声を張るあかりも初めてだった。怒っててもかわいい。全員が想定外の出来事に目を白黒させていると、我関せずといった顔のままスコップに乗った芋虫をつまみあげた。

ヒィ、と悲鳴が漏れる。いじめっ子といじめられっ子、相反する4人の心情は完全に一致していた。嫌なら触らなければいいのに、と全員が同じ呆れを孕んでいる。

あかりは僕を一瞥すると、意を決したようにつばを飲み込んだ。それから大きく口を開け、緑のつるつるとした太い身体をはんぶんに噛み砕く。プチッと音がした。ほぼ同時にあかりの大きな両目からはぱたぱた涙がこぼれ、水っぽい鼻水を垂らし始めた。喉がなる音がした。くちゃくちゃと3回咀嚼する。


ごくん


芋虫を飲み込んだ少女はマラソンを走り終えたあとくらい息を切らしていた。涙も鼻水も止まらずだらだら流れ続けている。今この場に、クラスの全員があこがれる美少女の山田あかりはどこにもいない。

「芋虫くらい、生で食え!」

ぐしゃしゃの顔のままこちらに向かって叫ぶ。大きく開いた口からは、芋虫の残骸であろう緑色やよく分からない茶色や白が見えて思わす嘔吐いてしまった。

あかりは間髪入れず、半分になった芋虫を完食しようと再び勢いよく口を開ける。

「オ゛エエエエエエエエエ!!」

が、あかりの努力は水泡に、いや、ゲロに帰す。盛大に吐き戻してしまったあかりを見て、金縛りにあったようにじっとしていたコーキたち3人は我に返った。困惑したままあかりを保健室に連れていこうだとか先生に言おうだとか話し合っている。

しかしあかりはそんな3人の作戦会議も華麗にスルーし、勇敢にも袖が透けた小綺麗な服でゲロを拭うと僕を指さす。

「情けない!やさしいのに意気地無し!!やられたらこうやってやりかえすの!いい?!」

「あは、は、はいっ!」

「わかってない!!沈黙も無抵抗も優しさじゃない!それに、返事も小さぁい!!」

「ひ、」

「返事は?!」

「へァはいっ!!!!」

そう言って、突然乱入してきた時と同じがに股でどこかに行ってしまった。唖然と取り残された4人のうち、3人は困惑したまま顔を見合わせると、ランドセルを引っ掴んで逃げるように去っていった。僕は1人で取り残されてしまう。

声変わり途中のざらついた音とキンキンとした音が混じりあっていた体育館裏はいつの間にか静寂を取り戻している。静かすぎて、今の出来事が全て僕の幻だったのではないかと思った。

早く帰らなくちゃ。

夢うつつのままランドセルを取りに行こうとした瞬間、ぽつんと落ちている不自然なかたちをした芋虫の死体が視界に入った。感じたことのない激しい渇きを覚える。あかりの吐いた白っぽいゲロの脇にあるそれに吸い寄せられる。

しゃがんで緑色をつまみあげる。もう動かないそれは、意気地無しの円翔也にはちょうど良かった。

口を開ける。

ぽたりと何かが垂れてきた。耳元でキンとうなる音がした。18時のサイレンだ。しかしそれも翔也の耳には入らない。自分がどうしていじめられているのか、常に頭の真ん中に鎮座する疑問すらどうだっていい。

舌に液体が垂れてくる。邪魔が入る前に早く済まさなければならない。

ぼんやりとした、それでいて確固たる意志を持ったまま、生まれて初めての間接キスをした。

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