湊の場合⑨
孤独に思えた湊の育休も、三か月という長い様で短い期間が終えようとしていた。
生後六か月を迎えた一花は、これから希望の園の中にある保育園に通うことになる。
ただ希望の園の子供と違うのは、朝8時に送り届けて、夕方18時にお迎えに行くのだ。
「湊くん、一花のお迎え、出来る?」
「えっ……」
最近では家でも仕事をしている詩が、キーボードをカタカタと鳴らしながら湊に目もくれずに尋ねてきた。
「私も朝ならなんとか出来るけれど、お迎えはたぶん無理。復帰早々に私の企画案が通ってさ、プロジェクトリーダーになってしまったの」
「そんな……。僕だって育休前からずっと定時で退社していたから、いつも定時って訳にはいかないよ……」
「じゃあ、一花は保育延長させて貰おうか」
保育延長。
希望の園は24時間体制の保育園でもある。
夕食を食べさせて、お風呂に入れて……一花の一人くらい泊っても全く問題はない。
「じゃあ、湊くんがお迎えが出来ない日は、延長かお泊りにしよう」
詩の言い方が、まるで自分はお迎えを絶対にしない前提であること。そして一花を迎えにいけない湊が悪いかの様に捉えてしまった。
詩は職場復帰して変わった。
仕事の方が楽しい様だ。
もちろん、一花を可愛がっているのも伝わるし、とても大事に扱っている。
――でも、なんだろうか。
仕事も復帰以来、以前に増して精力的で盲目的で。
良いほうに捉えれば守るべき家族のために働いている様に思えるが、悪いほうに捉えれば、一花の世話をしないように、面倒な事から避ける様に仕事をしているようにも見える。
忙しくして、余裕をなくして、理由を作って、一花の面倒を見ないように。
アンドロイドはダメ。
でも一花の世話も嫌。
仕事も自分が中心。
湊はずっと感じていた。
日に日に詩に対する愛情が剥がれていく様に感じる。
産後太りした詩も、今は元通り。綺麗な姿に戻っている。以前の詩のまま。
――けれど、以前のようなときめきや憧れがまったく消えてしまった。
湊と視線が合わない、ただの女に見えた。
◆
湊の職場復帰の日。
朝は約束通り詩が一花を近所の希望の園へと連れて行き、湊は少し早めに出社する。初日ということで、仕事の引継ぎをエミリとしなければならない。
エミリはたださえ人間三人分の仕事量をこなせるのに、更に湊の分の仕事も行っていた。
出社すると、一人でパソコンに向かい黙々と仕事を捌くエミリがいた。
「おはよう、エミリさん」
「あ、おはようございます! 下村さん、今日から復帰ですね。またよろしくお願いします!」
エミリの屈託ない笑顔に、乾いた心が潤う。
小さな感動を味わう湊を他所に、真剣な眼差しで、真面目に進捗を話すエミリ。
こんなに可愛いのに、気だても良くて、その上、アンドロイドだから働き者で文句も愚痴一つも言わないなんて、なんて最高な存在なんだろうか。
エミリと接していると、なぜ以前の自分がアンドロイドに違和感を抱いていたのかすら、よく分からなくなってきた。
「……下村さん、聞いています?」
覗き込まれて、ハッとする。
「あ、う……ごめん。聞いてなかった」
「もう! もう一度説明しますから、聞いていてくださいねっ!」
ぷく、と頬を膨らますエミリ。可愛い。
しかしこれ以上、彼女に幻滅されたくないために、湊は気を引き締め、仕事モードに切りかえて、引継ぎを終わらせた。
◆
復帰初日もあと5分で就業時間。
仕事のキリが良さそうだ。
湊は帰る身支度を始めようと鞄に手を掛けた時、机の上にファイルがドサッと置かれた。青い安っぽい作りのファイルが三冊。それから見上げると、そこには鶴橋が湊を見下ろしていた。
「――これ。明日の正午までに顧客別にデータ化をしておいてくれる?」
「明日の正午ですか?」
「そうよ」
湊はそのファイルを広げて、幻滅する。日付も顧客も、内容もめちゃくちゃにファイルされているだけの書類。これはかなりまとめるのに時間が必要だ。
「あの……」
「まさか、育休が明けても残業がムリとか言わないよね? 君、半年間もずーーっと優遇されてたんだから。ここからは会社のために尽くしてくれるんだよね?」
「しかし、子供のお迎えが……」
「子供は希望の園にいるんでしょ? あそこに預けていれば、完全保育で心配ないでしょ」
その通りだ。預け先にタイムリミットがある訳じゃない。
物理的にはそうなんだけれども……。
湊は受けるしかなかった。
念のため、詩にお迎えが出来るか電話をしてみる。しかし、今からお客と会うから無理だとすぐに返事が来た。
希望の園に延長保育をお願いし、黙々と作業を続ける。
同じ部署の人間が一人減り、二人減り。
午後9時を過ぎるころには湊一人になっていた。
「……ここまで進めておけば、明日の午前中で大丈夫か」と一人ごちて席を立つ。
急いで電車に乗り、希望の園の保育園へと向かう。夜勤の保育士から希望の園の子供達と並んで眠っている一花を見て、その安らかな寝顔に安堵感と罪悪感を抱いた。
保育士の話だと、一花は希望の園の子供達と元気に過ごしていて、ミルクも飲んだし、ちゃんとお昼寝もしたそうだ。離乳食もゆっくりでいいから始めて欲しいと言われた。
ぐっすりと眠っている一花。むしろ、このまま保育園で朝まで眠っていても良いのではないか、と思えた。
しかし、疲れた心と体で一花を抱きしめた瞬間、ぶわっと多幸感が湊を襲う。
抱っこ紐で繋がる一花の温かい体温と、とくとくと少し早い心音を感じると、不思議と心が癒された。
「……一花は、すごいなあ。お父さんは小さな君に助けられていてばっかりだよ……」
まだ寒さの残る三月。
まだ毛髪の薄い一花の頭を撫で、二人の影は薄雲のかかる夜道に消えて行った。
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