湊の場合⑧


「じゃあ、一花ちゃん。ママ、行ってくるね!!」



 詩の復帰から二週間。

 湊の育休も二週間が経った。


 新調した紺スーツをピシッと羽織り、長いストレートの髪をひとくくりにした詩。ご機嫌の一花をぎゅっと抱きしめた後、光差す外の世界へと消えていった。


 一気に静まり返る我が家。

 一花と自分の二人きり。

 今はおっぱいも飲んで、おむつも変えて、ご機嫌の一花。


 湊の胸の中でもぐずることなく、自分の指を初めて見たような眼で、物珍しそうに眺めたりしゃぶったりしている。最初はぎこちなかった抱っこも、だいぶ板についてきた。

 安心しているようだ。


 さて。

 今日も育児の始まり。

 先ずは朝ご飯の食器を洗い、それから洗濯物を干す。一花にミルクを飲ませて、ご機嫌だったら家の周りをお散歩。

 お散歩ついでにお昼ご飯や夕食の食材も買えたらいいなと、考えている。


 しかし、現実として湊もまた一花の、一分一秒も待てないリズムに乱されて、午前中がもうすぐ終わるというのに、シワシワになった洗濯物をやっと干せたところだった。


 (詩ちゃんの苦労が身にしみる……)


 泣き喚く一花のオムツを代えながら、湊はしみじみと思う。

 午後も同じように一花の世話に負われて夕方になる。

 どうやら、詩が世話をしていた時から感じていたが一花は「黄昏泣き」をするようだ。

 黄昏泣きとは、はっきりとした原因もないのに、何時間も泣き続ける状態のことだ。


 お隣の騒音苦情も受けてから、湊は黄昏泣きする一花を抱っこして、外に出ることに決めていた。

 12月の寒い季節。午後4時過ぎはもう本当の黄昏時。

 湊は泣き続ける一花と共に、近くを流れる多摩川の河川敷を歩いた。


 周囲はランニングする学生達、仕事帰りの女性や散歩をする老人などが必ず湊を一瞥し、通り過ぎていく。

 きっと大泣きする赤ん坊の一花を見過ごす事が出来ないからだろう。

 どうせ目立っているのだ。やけくそになって代え歌の童謡を一花の腰をトントンしながら歌った。


「い~ち~か、なぜ泣くの♪ 一花はお家に♪ 素敵なお父さんとお母さんが……」


 自分で歌っておいて、歌詞の疑問に、はた、と足を止めた。


 ――素敵なお父さんとお母さん。



 ――なれているのだろうか。



 ――いや、なれていない。



 二週間の育児で。

 一花の世話に明け暮れて分かった事がある。


 なんて孤独な作業なんだろう。

 一花といるのに、この世に独りの様な、この胸に募る孤独。

 そして社会に出れない事への焦燥。会社を休む事への罪悪感。

 テレビをつけても、ネットで繋がっても、社会から取り残された様な疎外感。

 話したい。誰かと。

 誰か、この育児の辛さを話したいのに。


 詩は復帰してから仕事で頭がいっぱいになった。

 元々営業職で、湊と違って定時上がりなど出来る部署ではなかった。

 早くて21時。遅いと午前様な事もある。

 その分、湊は一花と二人きりだった。


 湊が物思いに浸っていると、目の前から青年と一緒に腕を組んで歩く女性に目が止まった。

 女性の動きがぎこちない。きっと海外製の安価なアンドロイドだ。

 どこからどう見ても人間にしか見えないエミリの様なアンドロイドとは違った、ややロボットに近い存在。

 でも、青年の方はきっと、安価でも大事なアンドロイドなんだろう。

 大切そうに、機械の彼女と手を繋いで幸せそうに歩いている。

 きっと初めてのアンドロイドなんだろう。


 ――気が付けば、一花は泣き止んでいて、すうすうと眠っていた。


 沈みゆく朱色の夕日に照らされて乱反射する多摩川。その煌めきの先には影を落とした黒い鉄橋が見える。その上を電車がガタンゴトンと音をたてながら右へ左へと、走り去っていく。


 今日も一日学んで、働いて疲れ切った人々を家路へと運んでいるんだ。


 あの遠いまっすぐのレールが、あのみんなが乗っている電車が、人生の正しい道ならば……。

 それに乗り損ねて電車を眺めている湊は、一体何なんだろう。

 電車の玩具を買って貰えなかった少年の様に、何度も行き来する電車を羨む様に眺め続けた。


 崩れ落ちそうな気持ちを唯一支えるもの。

 すやすやと眠る一花の寝顔を見て、湊は微笑む。

 一花がいるから、踏ん張れる。


 自分たちのエゴを一心に受けて生まれ落ちた一花。

 無責任に手放すなんてしない。こんなに可愛い生き物を手放すなんて出来ない。

 だから、湊は歩き出す。

 一花の背を支え、一人孤独を抱きしめながら、電車に背を向けて歩き出したのだった。

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