湊の場合⑦


「はい……はい、分かりました。……いえ、はい。ありがとうございます」


 電話を切ると、隣の光葉が「私用電話? 就業中よ」と目も合わせずに言った。

「すみません」と謝りながら席を立ち、上司の鶴橋の席へと向かう。


「あの、鶴橋さん」

「なに?」

「妻が倒れたそうなんです。早退してもいいでしょうか?」


「えっ?……それってさ。ダメって行ったら君は行かない訳?」

「あ、いえ。それは……行きます」

「じゃあ、さっさと早退しなさいよ。ここで引き止めたら、私が極悪人じゃない! まったく」


「……ありがとうございます」


「あーあ。私もアンドロイドの調子が悪いから早退したいわ~」


 光葉が呟く大きな独り言に、周囲がクスクスと笑った。

 エミリだけが「奥様、心配ですね。こちらの事は気になさらないでくださいね」と相変わらず優しい。涙が出そうになった。


 居た堪れない気持ちで身を丸くして部署を出る湊。

 気が重い。詩が倒れたんだ。真っ先に心配しなければいけないのに、なぜ、こんな……もうすぐ育児休暇を貰うために、会社でも立場が無い時に体調が悪くなるんだ、と苛立ちを感じてしまう。


 こんな時にアンドロイドが居れば。

 詩を手厚く介抱してくれて、一花の面倒も見てくれるのに……。


 湊の会社での立場も、ここまで拗れずに済んだのに。


 午後三時過ぎの、まだ閑散とした電車の中で湊はぐるぐるとそんな事を考えていた。気が付けば自宅の扉の前までたどり着いていた。


「あの」


 入ろうとした瞬間、隣の部屋に住む二十代前半らしき若い女性が扉から顔を出した。髪を赤く染めた、目つきの鋭いそばかす顔の女性だ。


「おたくの赤ん坊うるさいですけど。私、夜に仕事していて、寝るのがこの時間なんですけれど、お宅の赤ん坊が昼間ギャンギャン泣き続けて耳障りです。どうにかなりませんか?」


 あからさまにイラついた口調でまくしたてる女性。

 詩の不調、会社での立場、さらにここに来て近隣住民からの苦情で、湊は頭が真っ白になり、口は開くものの、言葉が出なくなる。


 更にタイミングが悪いとは、このことだろう。

 一花がギャアアアッと泣き出したのだ。

 女性は舌打ちをして「あー、うるさっ。ほんとっ、希望の園で育てろよ」と呟くと、扉をバンッ!と閉めた。


 湊は慌てて自宅の扉を開け、中に入るとソファーに腰掛ける詩と、今村さんに抱っこされて泣いている一花がいた。


「ほらほら、一花ちゃん、パパが来ましたよ~。よかったわね~」


 今村さんは、顔を赤くしてのぞけって大泣きする一花に優しく語りかけた。

 詩をチラリと見る。確かに顔は青ざめているが意識はあるようで、湊が帰ってきて少し嬉しそうな表情を浮かべた。

 優しい言葉の一つでも詩にかけなければ、と思うが、言えない。


(なんだ、倒れたと言っても起きているじゃないか)

(プロの今村さんが居て、どうして俺が必要なんだよ)

(あと二時間あれば、定時で帰れるんだから、なんとかしてよ)


 自分の胸に渦巻く、どす黒い感情が詩を労う事が出来ない。

 自分でも分からない。いつからこんな酷い事を考える人間になったのだろうか。


 今村さんは湊に一花を託すと、仕事があるからと帰り支度を始めた。

 そして、今村さんは詩に一枚の紙切れを渡した。


「二人が仲良く暮らせる様になるお守り。……必要だと思ったら、連絡してね」


 それは名刺だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る