湊の場合⑥
結局、湊の育休延長は叶うことなく、詩とのギスギスとした生活がしばらく続いたのだが、詩の方に少し希望の光が見えてきた。
あと一週間で詩の育休が明けるからだ。
一花にミルクを飲ませる練習を始め、いつでも湊と交代する準備を進めていた。
上機嫌な詩。
鼻歌を歌いながら、来週から自分が着るシャツにアイロンを掛ける詩の背中は仕事に戻れることが待ち遠しいと書いてある様だった。
そんな風に少しずつ明るくなってきた詩に対して、湊の方が少し不安定になっていた。
――あれからも社内では上司や同僚からのマタニティハラスメントが続き、湊は自分達の選択がおかしいのでは? と、人と違う道を歩む辛さに打ちのめされていた。
ご機嫌に、バウンサーの頭上を回るメリーをじっと見つめている一花。最近は目が見えてきた様で、こちらが笑えば笑い返してくれる。
可愛い。本当に天使だ。
でも、こんなに小さくて脆い命。
ジワジワと迫る育休開始の日。自分の手にすべてがかかってくるのかと思うと、湊は不安でしょうがなかった。
生まれた時は出来ると思っていた。
けれど、三か月間の詩の辛そうな姿と、周囲の酷い暴言に、本当にこんな自分が小さな命を育てられるのか、自信を無くしつつあった。
そんな精神的にボロボロの時、いつも辛い立場の湊を懸命に励ましてフォローしてくれたアンドロイドの存在が脳裏に浮かぶ。
――言うなら、今だ。
湊は上機嫌な詩に、今抱いている気持ちを吐露した。
「ねえ、詩ちゃん」
「なーに?」
「お願いがあるんだけど」
「なに?」
「あのさ、僕が育児中の間……あ、アンドロイドのお手伝いを短期間だけ入れちゃダメかな?」
「……え?」
詩のアイロンを掛けている手が止まった。
「……一花を、一人で面倒をみる自信が急になくなってきて……」
つまりはエミリの様な存在が欲しいと思う湊。
詩の表情があからさまに曇った。
「私たち、結婚するときに決めたじゃない。アンドロイドに頼らずに二人で頑張ろうって……」
「夫婦で頑張る事もいいけれどさ。想像以上に育児が大変だって分かったじゃない。自分達が育児を主体でやれば、アンドロイドに少し手助けを借りてもいいんじゃないかな、と思ってさ。今の時代、ベビーシッターを頼もうにも、赤ん坊の面倒をみれるプロは希望の園の保育士くらいしかいないんだしさ」
「……一花もゆくゆくは保育園に入って、子守りロボットに保育されるだろうし、私たちも社会に出ればアンドロイドに助けられて生きている。……でも、家庭は、家庭の中では、アンドロイド無しで頑張ろうって決めたじゃない」
詩が不機嫌になってくる。
こうなると、湊は何も言えない。いや、言えるけれど、言ったら最後。
ずっと出産後の詩の態度に溜まっていた不満が、今にも決壊しそうなダムの様に溜まっていた怒りの気持ちが、溢れ出そうになる。
「ごめん、そう決めたよね。でも、お願いだよ。一週間だけでも良い。僕の心にゆとりがないと、一花をみる自信がないんだよ」
「……私はやったよ? 湊くんが出来ないはずがない。私よりも要領いいし、家庭的だし」
「でも無理だ。一花に何かあってからじゃ遅いだろ?」
「……なんで一花に何かが起きる前提なの?! そうならないために、湊くんが育児休暇をとって面倒をみるんでしょ?!」
「だから、その自信がないって言っているだろっ!」
少し言い過ぎたか。湊はぐっと口を噤んだ。
するとしばらく続いた沈黙のあと、詩がハアッと怒りも含んだ溜息をついた。
「……予約していた希望の園の保育園も、あと三か月後からしか入れないし。……分かったわよ! つまり湊くんは一花の世話したくないだけなんでしょ?! 私が延長して面倒見ればいいんでしょ!?」
「そういう話じゃないだろ?! 君に一花を押し付けたいんじゃない、僕がアンドロイドと一緒に面倒をみるって言ってるじゃないか!」
「だから、それが嫌だって言っているの!」
「なんでそんなに頑ななんだよ!? 確かに僕だってアンドロイド無しで子育てしたかった。けれど、実際に困っているなら、あるものは利用して、お互いが気持ちよく生活したら良いじゃないか!」
「へえー、それで、湊くんは大変な部分はアンドロイドに全部任せて、可愛い、可愛いって一花を可愛がる所しかしないで三ヵ月を過ごそうと思っているんでしょ!?……私には分かるのよ。ずっと蓮人と一緒に暮らしていたから! アンドロイドの麻薬性が! アンドロイドは便利で万能でとても優しい。だからこそ、最初は三ヵ月と思っていても、その快適を手放せなくなって、気がついたらアンドロイド無しじゃ生きていけなくなるの。依存したら最後。きっと私達家族は破綻するわ!」
「そんな事言ったって、このままじゃあアンドロイドが来る前に、家庭が破綻するよ!!」
湊の叫びに反応して、一花が弱々しく泣き出した。
詩は即座に一花を抱き上げて、ユラユラとあやしながら言った。
「……それなら、それで結構! 私が一花を一人で育てますから!」
ぷつり、と湊の心の中のダムが決壊する。
怒りに震えた湊の手が、詩の頭上に振り上がった。
迫りくる手の影に、ぐっと身を丸め一花を強く抱きしめて、ぎゅっと目を瞑った。
衝撃がこない。
ゆっくりと目を開いた先に見えたのは詩を叩こうとした己の手を掴み、震える湊。
興奮状態からか、息が荒い。
怒りを堪えている様だ。
しかし湊のギラギラとした怒りの眼差しは消えていない。詩はその強い眼差しを見つめ、自然と震え上がり、体が動けない。
怯える詩に気が付いた湊。前髪をぐしゃぐしゃと掻くと、
「……頭、冷やしてくるっ!」
湊はドンドンと足を鳴らし、勢いよく扉を開けると壊れるんじゃないかという勢いで扉を閉めた。
湊の気配がなくなると、詩の緊張は解け、その場にへたり込んだ。
一花はこの緊迫した状況を察してか、大泣きし始める。
「……だいじょうぶ、大丈夫、大丈夫よ……」
詩は泣く一花をあやしながら、自分にも言い聞かせる。
怖かった。とても。
あんなに怒った湊を見たのは初めてだった。
怖かった。
怖かった……!
詩は一花の丸い頬に自分の涙をぽたぽたと零した。
アンドロイドは怒らない。
叱れと言えば叱ってくれるが、湊の様に突然感情をぶつけて怒る事なんてしない。持ち主の意見が最もだから。
――これが、人間と暮らすという事なんだ。
これが、みんながアンドロイドと暮らす理由の一つなんだ。
詩はこの日初めて、湊という男と、人間と暮らす事へ恐怖を感じたのだった。
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