詩の場合3


 赤ん坊の名前を一花いちかと名付けた。


 うたは幼少の頃から自分の行動や感情をコントロールするのが上手い、しっかり者だった。

 極力他人に迷惑を掛けぬよう、事前に物事を慎重に考え、率先して動く。

 それが評価されて、今の役職にも就いた。


 育児だって、たくさんの本も資料も情報も読み漁り勉強していた。

 実際に母親になった人間のブログなどを読むと、大抵が生まれた頃の赤ん坊の世話は大変だ、死にそうだ、と書かれていたが、詩自身それは本人達の事前準備や勉強不足なのだ、赤ん坊の要求を先回りして世話をすればいい、仕事と一緒だ、と軽くみていた。


 そう、詩は軽くみていた。だが今は子供を育てた親達全員に、土下座したい思いでいた。

 赤ん坊は喋れない。

 すべてが泣いて自然現象を知らせる。


 一花は生後二か月。

 今もおっぱいもあげて、オムツをかえて、揺ら揺らと抱っこしても30分は泣き止まない一花に、疲労困憊していた。


 なんで、泣いているの?

 なんで、泣き止まないの?

 どうしたら、泣き止んでくれるの??


 詩はもう一度おっぱいをあげてみる。しかし、泣いて怒る一花は飲む事もせずに拒否する。

 そしてソファーに座った詩を怒る様に、両手足をじたばたと動かし、声を荒げた。


 詩はチラリと時計を見る。

 夕方5時……。


 ――もう5時!?


 詩は驚く。今日一日、一花におっぱいを与え、おむつを替えて、あやして一日が終わってしまったのだから。


 詩が湊を送り出してから考えていた今日一日の計画。

 一花が眠っている間に湊のシャツのアイロンがけ、お風呂掃除と夕食作り、さらに時間があれば仕事を忘れない様に、来春の新商品の販売戦略企画でも作ろうと思っていたのに!


 何一つ出来ていない。お米すら炊いていない。

 悔しい。自分の計画がちっとも上手くいかない……!

 たった12畳のリビングで、一花と二人きり。

 起きても寝ても、一花だけ。

 泣いて意思疎通のできない一花と過ごす一日。


 その一花は泣いて泣いて泣き喚いて、詩を責め立てる。

 詩は思う。なぜ泣くのか。

 こんなに一花のために丸一日費やしているのに、まだ、何が足りたいのか。

 時々、この小さな生き物を放り出して、自由な外へと飛び出したい衝動に駆られる。

 夜泣きも酷い一花。眠れない事が詩を更に精神的に追い詰めていた。




 ――それから、一時間も経たない内に湊が帰ってきた。


「ただいま~! 一花ちゃ~ん!」


 一花が生まれてから、定時帰りを徹底している湊がウキウキと帰ってきた。

 湊にしてみたら、最愛の我が子に会いたくて、おのずとテンションが上がっているだけだ。

 しかし、詩にとっては一花の世話もせずに、定時に上がれるように計画的に仕事が出来て、更に能天気なテンションで帰ってくる湊に苛立ちを覚えた。

 帰って来て、すぐに抱っこしようとする湊に詩は睨みつけた。


「汚いっ! 手を洗って!」

「は、はい……」


 湊は慌てて手を洗い、ついでに背広を脱いでスウェット姿になった。

 洗面所で着替えながら、延長線上に見えるキッチンを見て湊は(あれ? 今日もご飯を作ってない……?)と思ったが、これ以上詩を怒らす発言は控えようと言葉を飲んだ。


 湊は詩から一花を譲り受けた。詩は大きなため息を吐くと、キッチンに向かい夕飯作りを始めた。 

 湊が抱っこしても、顔を真っ赤にして泣いている一花。

 湊はよしよし〜とあやせば、


「一花ちゃんは、どうしたのかな~? オムツかな? おっぱいかな~?」


 と、今の追いつめられた詩にとって一番の禁句を尋ねてしまった。

 湊の何気ない発言が、まるで詩が一花を一日中放置して、何もしていないダメな母親の様に聞こえたのだ。


「どっちもやったわよ!!」


 イライラする。湊が帰ってくると、自分のふがいなさを叩きつけられるようで、イライラする。


「そ、そうか。じゃあ、一花ちゃん。何だろうね~?」


 最近の湊は一花を溺愛する一方、詩に対して少し怯えているというか、萎縮している様に思える。

 詩も少し言い過ぎたかな、と思う事も多かったが、湊の機嫌までとっている余裕はなかった。

 第一、湊は大人で夫なんだから、詩の行き詰った状況を予見してフォローするのが、夫の役割ではないのか?


 と、思った瞬間。

 乱雑に切っていた玉ねぎで指を切った。

 鋭い痛みに、自分のドロドロとした思考の沼から急浮上した。


 いけない。

 思考が煮詰まっている。そんな訳ない。

 私はよく考えて決意して、湊と結婚したんだ。

 絶対に人間の夫と子供と幸せになるって。


 ――母親の様にならない、って。


 気が付けば、一花の泣き声は収まっていた。

 湊に抱かれた一花は眠っている。

 結局、一花が泣いた理由は分からない。ただ泣くのに疲れ果てたのだ。長い時間泣いたせいで、薄い頭髪が汗でびっしょりだ。

 詩は一花のロンパースを替えたい衝動に駆られたが、起きて再び泣かれるのも嫌だった。


「泣き疲れちゃったのかな」


 そう言って、湊は一花を抱っこしたままソファーに座った。

 あどけない表情、丸い頬が小さな口がもにゃもにゃと動いている。

 可愛い。こんなに可愛いのに、さっきまでは一緒に居られない、見捨てたい、と思っていた小さな生き物。


 どうしよう。


「う、詩ちゃん。手から血が垂れてるよっ?」


 どうしよう。


「詩ちゃん、絆創膏、絆創膏して!」


「……湊くん、辛いよ」

「え?」

「この狭い空間で、理由も分からないで泣き続ける一花と一日中過ごすのが、辛いよっ!」


 詩はぽろぽろと涙を零した。


 その日、湊と詩の夕ご飯が出来ることはなかった。

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