詩の場合


 ――何故、結婚をするのか。

 詩の場合。


 家族は母親しかいなかった。

 いや、違う。

 母親と、『蓮人れんと』が居た。


 蓮人は詩の家族じゃない。母親の恋人であった。

 金色に近い長い髪に青い目、涙ホクロのある、線の細い美青年だった。


 その反面、詩の母親の容姿は、誰の目から見ても醜かった。

 背が低く、太っている。一週間お風呂に入らないこともザラで、髪の毛もくしゃくしゃ、全身垢だらけ。

 官能小説家だったこともあり、一日中自宅で毛玉だらけのスウェット姿。

 ヨレた下着姿の時もあった。

 性格も自己中心的で我儘でヒステリック。

 メンヘラ。


 いつも執筆に煮詰まると「私はクズだ! 能無しだ! 書けない私は生きている価値なんて無い! こんなブスな私がのうのうと生きていていいはずがない。死ぬ! 死んでやる!」発言をし、蓮人や詩を困らせていた。


 幼い詩は母親の発言を真に受けて怯えていたが、心身が成長するに従って、それが狂言であること、単純に蓮人の気を引きたいだけだと気がついた。


 実際に母親がヒステリックを起こした後、心優しい蓮人はいつでも、何時間でも、夜通しでも母親に寄り添って、彼女の愚痴や文句、不安を聞いて慰める。

 そして二人で仲良く寝室へ入っていき、出てくる頃にはご機嫌な母親が現れるのだった。


 ――常識的に考えれば、このような母親の自分勝手な行動をすべて受け入れて、それでも辛抱強く耐えて彼女を愛するなんて、娘の詩ですら不可能だった。


 けれど蓮人は母親を愛した。

 何も知らない無垢な蓮人にとって、此の世のすべては母親だったのだから。

 それを知っている母親は、真っ白な蓮人の心を弄んでいる様に思えた。


 可哀想な蓮人。

 しかし、蓮人は母親の傍にいると幸せそうにいつも微笑んでいた。

 幸せなのだ。蓮人にとってどんな形であろうが、母親の傍にいることが。


 母親の精神的不安定は年々悪化し、蓮人を殴ったり、切りつけたり、罵ったり、酷い仕打ち……これみよがしに浮気をするようになった。

 しかし、蓮人はどれも辛そうな苦しそうな表情をするものの、母親を愛することは止めない。

 詩はそんないびつな愛し方をする二人を理解出来ず、母親も蓮人からも次第に心が離れていった。



 ――やがて詩は成長し、大学進学を機に一人暮らしをすることにした。

 当時の蓮人はボロボロだった。

 心も体も傷つけられて。

 綺麗だった髪も今やまばらに抜け落ちて、体中が傷だらけ、首には無数の指の痣がある。

 それでも。

 蓮人は母親の籠る部屋をずっと見つめ、その扉が開くのを待っていた。従順な犬の様に。母親が、蓮人へ再び笑いかけてくれる日が来ると信じて……。


 馬鹿だ。

 蓮人は本当に馬鹿だ。

 馬鹿で愚かで綺麗な蓮人。


 きっと扉が開いて、蓮人が喜びを得るのは刹那。

 後は見るに絶えられない地獄が待っているのに。


 詩は、永遠にあの扉が開かれなければいい、といつも願っていた。



 ◆



 詩は家を出ていく朝、母親の寝息を頭の片隅で聞きながら、扉の前に佇む蓮人に言った。


 ――きっと、もう、この家には戻らないと思ったから。


「……蓮人、もう自由になっていいんだよ? もし、蓮人が願うならば、私が貴方を逃してあげる……」


 蓮人は透き通る瑠璃色の瞳を詩を向けて、無垢な表情で首を傾げた。


「……自由? 僕はずっと自由だよ?」


 その曇りないあどけない表情。詩が、母親の蓮人を見た最期だった。









 二週間後。

 母親から、蓮人が居なくなったことを知った。


 ――本当に?

 どんな事をしても母親の元を離れられない蓮人が?

 詩は察する。

 母が、蓮人をこの世から消してしまったのだろうと。母親はすぐさま、新しい若い恋人と暮らすようになった。

 蓮人の事をきれいさっぱりと忘れて。


 可哀想な蓮人。

 詩は報われない蓮人を思って泣いた。







 ――だから詩は、下村湊と結婚するのだ。

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