第9話 塩

 顎の切り傷は傷が塞がってかさぶたも取れた。足も湿布しなくてもいいくらいに回復した。


「だから、もう今日から包帯はしません」

 アレクシアは宣言した。


「医者が許可していないのに、自己判断で治療を中断するのはよくありません」

 包帯を片手にクラウスは告げる。


 本来なら、クラウスの言うことは真っ当なことだ。


 だが、アレクシアは知っている。

 クラウスが、医者に完璧に治るまで包帯をしておくように指示を出してくれと嘆願しているということを。


 彼がなぜそうまでするのかよくわからないが、もう以前と同じように歩くことができるし、顔中に包帯を巻かれていては食事も不便だ。


 それに嫁入り前(予定もないのだが)なのにいくら治療のためとはいっても、毎日のように素足や顔に触れられるのは恥ずかしいのだ。


 おまけに、気のせいかもしれないが、クラウスはいつにも増して接触が多いような気がするし。


 今日こそは断固包帯を拒否すると心に決めていたのだが、相手も引き下がる様子はない。


「さ、足を出して下さい」

「もう大丈夫だから結構ですっ」


 少し強めに言って、長椅子から立ち上がって部屋を出て行こうとしたが、クラウスはアレクシアの背後から腰に腕を回し、軽々と持ち上げて長椅子に戻した。


 失礼しますと、クラウスがスカートに手を入れてガーターベルトの留め具を外そうとした時だった。


 馬車が近づいてくる音が聞こえてきたので、舌打ちをして様子を見に窓へ向かった。


 アレクシアはほっと息をついて、その間に急いでストッキングを留め直す。


「シャットヴァルト伯爵です、アレクシア様」


 叔父が来た。

 来る時はいつもろくでもない話を持ってくるので、できるなら会いたくない。


 テーブルの上にある包帯を自ら取り、ストッキングを下ろして足に巻く。頭はクラウスにお願いした。



 傷病の療養中ということで、来客対応はクラウスにお願いしていたが、叔父は今回どうしても面会がしたいというので、応接室まで下りていった。

 わざとらしく「まだ治っておりません」感を出すために、大袈裟に足を引き摺って。


「おお、アレクシア。何て姿だ」


 クラウスの補助を受けながら入ってきた姪の変わり果てた姿に、さすがの叔父も驚いたようだった。


「お久しぶりです、叔父様。こんなみっともない姿でお目にかかることしかできなくて申し訳ありません」

 怪我に障るので長く時間を取ることができないと暗に仄めかして、よろよろと席に着いた。


「そういうことなら、早速話を始めた方がいいな」

 気味が悪いのか、叔父もさっさと暇を告げたい様子がありありと伝わる。


 秘書が鞄から出してきたのは、この屋敷や一帯の土地の権利書だった。


「これでここはお前の物だ。好きにするがいい」


 恩着せがましく言うが、元々はここも信託財産のうちの一つだった。

 両親が亡くなった時に、どさくさに紛れて自分のものにしていたのは叔父の方なのだ。


 今回、どういう訳か、急に国の監査が入り、それが露見して早急に対処しなければ、法律に則り処罰すると言われて慌てて書類を揃えたらしい。


「じゃあ、長居しても体に障っては何だから、私はこれで帰るよ」

 アレクシアの心の内を見透かしたのか、居心地が悪くなったようで腰を上げる。


「大したお構いもできなくてすみません。叔父様もお体気をつけてくださいませ」

 怪我にかこつけて座ったままで挨拶をした。



「伯爵はお帰りになりました」

「お見送りご苦労様でした、クラウス」

「塩、撒いておきましたので」

「塩?」


 何でも、嫌な客が帰ったら塩を撒いて清めるという風習が、大陸のずっと東の島国にあるらしい。


 物知りだとは思っていたが、遠い国の風習まで知っているとは。


 これもアレクシアを慮ってのことだろう。

 苦手な叔父がこれ以上寄り付かないように代わっておまじないをしてくれたのだ。


 澄ました顔をしているが、これでも意外と人の機微に敏いのだろう。


 アレクシアの口元は自然に緩んだ。


「ありがとう、クラウス」


 眼鏡の縁の下で頬が赤らむのが見えた。


「……せっかく、自制心を最大限動員して我慢しているのに……そんな誘うような顔して」

 ぶつぶつと何か言っていると思ったら、腰を屈めて唇を重ねてきた。


 後頭部に手を添えて逃げられないようにして、長く、深く。


「……では、お茶を片付けて参ります」

 そう言って、ティーセットをトレイに載せて部屋を出て行った。


 熟したりんごのように真っ赤になって固まっているアレクシアを残して。 

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