第7話 死体発見

 それから何日が経っただろうか。

 桜子は、ひろ子やママさんとの約束の日までのキャストとしての仕事を無事にこなし、やっと解放される時がやってきた。解放されると言っても、それは桜子に選択の機会がやってきたことであって、

「明日から辞めてしまうか、それとも、このまま続けるか」

 という選択肢であった。

 ママとひろ子は強硬に勧めた。

「せっかく人気が出て、ファンになってくださるお客様も増えてきたのに、もったいないわね。私はあなたのような明るい性格の方が、こういうお仕事は似合いそうな気がするのよ」

 とママが言った。

「そうよね、もも子さんはあざとさのようなものが感じられないから、お客様に人気があるのよ。私たちにはないものだわ」

 と、ひろ子はお世辞なのか、そう言って寂しそうな素振りをした。

 そう言ってくださるのは本当に嬉しいんだけど、お話は今日までだったのと、そろそろおうちのこともしないと、旦那にバレでもしたらことなので……」

 と言って、丁重にお断りした。

 ただ、実際には後ろ髪を大いに引かれた。本心は続けたいという意識の方が強い。せっかく自分の居場所のようなものを見つけたという思いもあり、誰にも言っていないが、少し気になる客がいるのも事実だった。

 もちろん、相手はただの一人の客であり、恋愛などありえないことであったが、一緒にいるだけで癒されるというこんな気持ちは、今までに一度も味わったことなどなかった。確かに夫からはそんな気持ちを貰ったこともあったが、彼はあくまでも夫という地位を確立した。だから、癒しを貰う相手としては、違う立場に変わってしまった。

 それは、桜子の勝手な思い込みであることは分かっているのだが、その思い込みがあるから夫婦生活もうまく行っているのだろう。以前舅姑と住んでいた時に少し旦那に疑問を抱いたことがあったが、その時に感じたことから、それから旦那は別の立場に変わっていたのだった。

 桜子がキャバクラに行かなくなって数日が過ぎたある日、不思議な光景をマンションに住む一人の子供が見ていた。

 子供や近所の公園で外立と遊んできたのか、少し泥んこになっていた。今どき公園で泥んこになった遊ぶ子も珍しいのかも知れないが、小学生の低学年であれば、それも無理もないことではないか。

 その子が遊んだのは、このマンションから少し離れた別のマンションに住んでいる子供たちとであった。そこは桜子の住んでいるマンションよりも一回りも二回りも大きく、棟も一つではなく、三つほどあった。桜子のマンションも六階建てなので、エレベーターはついているが、友達のマンションのエレベーターは綺麗で大きい、少年は友達の家にいくだけで気持ちをワクワクさせていたものだ。

 当然それだけ大きなマンションなので、クラスメイトも想像以上にたくさん住んでいるようだった、だが、同じマンションに住んでいるからと言って、皆が皆仲がいいというわけではない。逆に人が多いとそれだけたくさんの家庭があり、様々な考え方を持った大人も子供もいるわけだ。

 普段は友達の部屋で遊ぶことも多かったが、少年の友達の中で、表で遊ぶのが部類に好きだという子がいて、その子に忖度し、時々表で遊んでいたのだ。

 さすがに大きなマンションで、遊戯具が設置してある小さな公園が数か所にあり、小さな子供がたくさん遊んでいて、まわりから、お母さんたちが眺めている。その様子は日常の平和な風景であり、目を瞑ると瞼の裏に普通に浮かんでくる光景だった、

 泥んこになってまで遊ぶ子供も少なくなく、お母さんも、

「まあまあ、そんなに汚して」

 と口では言いながらも、目の前で遊ばせているのだから、安心である。

 その安心感が奥さんたちの会話を豊かにするもので、少々大きな声で笑っていることもあるくらいだった。

 それでも気にならないのは、その声に負けないくらいの子供たちの奇声が聞こえるからで、子供が誰か一人死んだことで他の子が奇声を挙げても、誰もお母さんたちは気付かないのではないかと思うほどの奇声であった。

 そんな公園で楽しく遊んで、

「じゃあ、明日また学校でな」

 と言って、別れたのは、すでに西日が遠くの山に姿を隠そうとしていた時だった。

心地よい風に吹かれながら、汗ビッショリになっていたので、熱い身体を冷え切らせるくらいに冷えてくるのを感じた。実際には気持ち悪いのだが、今日が初めてだというわけでもなく、気が付けば次第に汗も乾いてくるというものだ。

 そのうちに、風も感じなくなる。子供たちは知らないことだが、夕凪という時間帯である。

 言葉は知らなくても、

「風が止む時間があって、見えているものの色が分からなくなるというそんな不思議な時間帯がある」

 という意識は、意外と子供は結構感じているようだ。

 逆に言葉は知っているが、その言葉を知った時から今までに、そんな夕凪の時間に遭遇した意識はない。夕方の都会には夕凪はあっても、それを感じさせる余裕がなくなってしまったのだろう。

 夕凪という時間を自覚しながら歩いていると、身体のだるさからか、足元を気にするようになった。足元から伸びる果てしない自分の影が、壁に沿うようにして歪に揺れ曲がっている。

 そんな様子を見ながらマンションに帰ってくると、急にマンションの入り口から倒れ掛かるように出てきた男の人を見た。その人は大人で、何か後ろから追いかけてくるかのようにしきりに後ろを気にしている。腰は砕けていて。腰が抜けたのではないかと思うほどだった。

「どうしたんだろう?」

 と思い、近づいてみると、そこにいたのは見覚えのある大人の男性。

 少し小太りで、まるで作業服のようなものを着ているが、この人は後ろばかり気にしていて、

「何かに怯えているのかも知れない」

 と子供が見ても、そう思えるような一目瞭然と言った感じだった。

 さすがに少年もその様子が尋常ではないことに気付いて、思わず隠れてしまった。まさか声など掛けられる雰囲気でもない。自分が大人であっても、きっと同じだったに違いない。

 そう思うと、少年も次第に膝がガクガクしてくるのを感じた。

 少年がその男性を見ていると、どうやら、その男性が見たことがある人であると気付いた。しかし、だからと言ってホッとしたわけではない。却って不気味な感じがした。何しろ他の人はおろか、その人のそんな表情を初めて見たのだからである。

 腰が抜けた様子のその男性は、顔を見ると、まだまだ怯えが収まっていない。それどころか、何をどうしていいのか分からず、オタオタしている。こんな時、少年はどうすればいいのか、戸惑うしかなかった。

 すると、ちょうどよく知っているおばさんがいたのを見かけた。そのおばさんはいつもニコニコしているが、いつもグループのまとめ役になっているのは、少年くらいの子供であっても分かった。

「どうしたんだい?」

 と少年の様子が尋常でないことに気が付いたのだろう。

 穏やかに話かけたつもりだったおばさんも、どこか緊張しているようだった。

「あ、あれなんだけど」

 と言って、少年は慌てて腰を抜かしている男を指差した。

「あら、あれは管理人さん」

 と言って、おばさんは管理人を見て、今度は落ち着いたようだ。

 だが、様子が変なのは分かり、また緊張したが、そこは大人同士、子供相手の質問とは明らかに違っていた。

 おばさんは、管理人に近づいていき、少年も恐る恐る後ろからおばさんについてくる。

「どうしました、管理人さん」

 とおばさんが声を掛けると、最初ビクッとした管理人だったが、そこにいたのが頼りになるおばさんだと気が付いたので、少し顔色もよくなってきた。

「いや、実は」

 と言おうとすると、後ろに少年がいるのを見ると、管理人は口を閉じてしまった。

 それを見て、おばさんが気を利かせて、

「坊や、ごめんだけど、おうちに帰っていてくれるかい?」

 と言って、少年を家に帰らせた。

 どうせ、家でこのことを家の人にこのことは話すだろうから、そのうちに誰か大人が出てくることになるだろう。それはそれで仕方のないことだと思った。

 少年の姿が見えなくなったのを見ると、おばさんは再度聞いた。

「本当にどうしちゃったんだい?」

 と聞くと、

「ひ、人が死んでるんです」

 と絞り出すように言った。

「えっ」

 さすがに少々のことは驚かないつもりだった奥さんだったが、人が死んでいるとなれば話は別だ。

「どこですか?」

 と言って、管理人をせっつくように彼に案内させた。

 その部屋は、三〇五号室で、表札には

「牛島」

 と書かれていた。

 ああ、管理人が人が死んでいると言って、奥さんを連れ込んだその部屋は何と、幸助と桜子の部屋ではないか、

――ということは、死んでいるのは二人のうちのどちらかということになるではないか――

 奥さんは、牛島家のことも知っていたので、さすがに知り合いの部屋で人が死んでいると聞くとビックリする。

 この管理人の様子を見ると、ここまで驚いているということは、きっと見た瞬間、死んでいるのが分かったということか、それであれば、外傷があるということになるが、それとも揺り起こそうとしても返事がないので、死んでいると思ったのか、どちらなのだろうか?

 もし外傷で感じたのだとすれば、刺殺である。まわりには夥しい血液が飛び散っていて、見るからに惨状を描き出している光景。きっと血液の鉄分の臭いもして、息もできないくらいの悪臭が漂っているかも知れない。

 また毒殺などでは、血を吐いている光景を思い浮かべる。これは吐血なので、さらにどす黒く、臭いもひどい者だろう。どちらにしても、死に顔は、断末魔の様相を呈していて、まともに見ることはできないものかも知れない。

 そういう意味ではそんな惨状に再度管理人を案内させるというのは酷なことなのかも知れないが、このまま放っていくことはできない。奥さんも根性を据えて、その現場に踏み込む覚悟をしていた。

 部屋は開いていた。管理人が発見したのだからそうであろう。靴は女性用の靴しかなく、乱雑になっていた。

 中に入るが、想像したような血みどろの光景は見当たらない。臭いも鉄分を含んだような、あの嫌な臭いがしてくるわけではなかった。

「こ、こちらです」

 玄関から入り口を入り、右側にリビングがあるが、それは自分も同じマンションに住んでいるので、間取りが同じなので、分かり切っていることだった。ただ、部屋はまったく別の部屋で、普段から丁寧に片づけられているのが分かっていた。

 ベランダは半分開いていて、ベランダの奥に二つのプランターが置いてあり、家庭菜園であることは分かった。数日前から桜子がやっている例の家庭菜園である。

 リビングに入るとソファーが置いてあり、その向こうにテレビが設置してある。

――私の家のよりも二回りくらいでかいかしら?

 と思い、部屋の大きさから比べれば大きすぎるように思うテレビが、部屋を狭く感じさせるイメージがあったのだ。

 二人掛けのソファーの向こうを見ると、一人の女が仰向けになって倒れている。ただ、体半分はテレビの方を向いていて、顎を少し上げる形で、目を開けているが、瞬きはしていなかった。

 口は半分開いていて、明らかに断末魔の表情だった。

 だが、一見どこにも外傷は見られない。

――心臓麻痺か何かの事故かしら?

 と思ったが、とにかく変死であることには違いない。

――そもそも死んでいるのか?

 と思い、奥さんは手首を握って、脈を調べていた。

 すると、苦み走ったような表情をすると、

「ダメ、亡くなっているわ」

 と言って、手を合わせて、合掌した。

「管理人さん、とにかく警察を呼ばないとダメよ。すべては警察が来てからね。そして私たちはなるべく警察が来るまで何もしないようにしないといけないわ」

 と、テキパキとした指示を与えた。

「はい」

 と言って、管理人はその場を離れて、管理人室に向かった。

 管理人はもたもたしていて、管理人室に奥さんが入った時、まだ電話をしているところだった。電話が終わって、

「何をしていたのよ。管理人さんが出て行ってからだいぶ時間が経っているわよ」

 と管理人を責めた。

「すみません。ちょっと気を落ち着かせてから連絡していました」

 と言ったが、実際には、それだけではなかった。

 この時の管理人の行動は事件に重要な意味があるので、少し気に留めておいていただきたい。

 管理人が警察に連絡してから、ほどなくして警察が到着した。警官と初動捜査の人たちであろうか、まわりに立ち入り禁止のロープを張ったりして、刑事が到着するのを待ちながら、初動としての取り調べが行われた。

 取り調べを受けたのは言うまでもなく管理人と、奥さんであった。二人は口裏を合わせないように、お互いに別々に話を聞かれた。奥さんに対しての質問と返答は、ここに記した以外には何も新たな話はなく、少年が見かけたという管理人の様子がおかしかったということだけは伝えた。奥さんとしては、自分の中では、管理人の様子がおかしかったという意識はあったが、勝手なことを言って、警察の捜査を混乱させてはいけないと思い、何かを聞かれるまで、余計なことは言わないようにしようと思った。

 管理人は、第一発見者でもある。当然、慎重に取り調べを受けた。

「あなたはどうして発見したんですか?」

 と聞かれて、

「最初扉が開いていたんです。私は別の部屋に用事があったので、それを済ませてから戻ってきた時にもまだ空いていたので、おかしいなと思いました。しかも、最初と同じだけの隙間だったんで、誰も動かしていないと思いました」

「どれくらいの時間だったんだ?」

「十分くらいだったと思います。私が最初にこの扉を触らないように避けるようにしてその扉を通り超えたんですが、帰ってきた時もまったく同じように扉を避けるようにしたのでよく分かります」

 と言って。管理人はお腹を抑えた。

――なるほど、これくらいの体型なら、それも仕方がない――

 と、取り調べをしている初動捜査員二人は、そう思った。

 さらに管理人は続ける。

「十分も部屋の扉を開けっぱなしにしているというのは変です。それで私は気になって中に入ってみたんです。すると、そこに一人の女性が倒れていて、それで腰を抜かしてしまったんです」

 という話をした。

「ところでこの方は誰だか分かりますか?」

 と聞かれて、

「ええ、この部屋の奥さんである、牛島桜子さんです」

「管理人さんとは、何度かお話されたことはあるんですか?」

「いえ、あまり馴染みはありませんでした」

 この管理人は、どうやらあまりマンションの住人とは話をするタイプではないようだということは、その後行われたマンションの住人からも証言を得ていた。

 同じ話はその後に来た刑事にも行われた。

「また、同じ話をするんですか?」

 と言いながらであったが、それはしょうがないことだとして、管理人も従うしかなかった。

 ただ、管理人も気が動転しているからなのか、話していることにどこか辻褄が合っていないように思われたが、それも実際に人によってはあることなので、少し管理人も注意しながら、捜査が続けられるようになった。

 鑑識の捜査にて、死因は絞殺。首にタオルのようなもので絞めた跡があった。ただ、後頭部も殴られていて、殴られてから昏倒したところを、後ろから首を絞められたようだ。だからであろうか、悲鳴を聞いたという人もいなかった。死亡推定時刻は、その日の午後三時前後、つまり、発見されるまで、それほど時間は掛からなかったということである。

 考えてみればそれも当然のことで、扉があきっぱなしになっていれば、誰も気づくはずである。犯人とって、死体発見が遅くなくてもよかったということであろうか。

 すぐに旦那さんにこのことは連絡された。この日、旦那は休みで、昼過ぎに出かけていた。出かける姿は近所の奥さんが見ていて、挨拶をしたという。

「そうですね。一時過ぎくらいじゃなかったですか? こちらからは笑顔で挨拶したんですが、笑顔もなく、会ったことがまるで悪いことのように、コソコソしているように見えたのが少し気になったですかね。でも、それは奥さんが殺されているという話を聞いたうえで思い出していることなので、私も若干思い込みが入っているかもしれないけどですね」

 と、私見を交えて話していた。

 もちろん、私見が入るのは当然だと思ったが、この奥さんの話には信憑性が感じられた。話としては辻褄が合っていそうだし。、疑うところはないにもないと思えたのだ。

 ほどなくして旦那が帰ってきた。電話で奥さんが殺され、そして自宅に捜査員が入っていることも伝えられたので、血相を変えて帰ってきたという雰囲気である。

 まだ、野次馬が表に数人いて、警備の人が立っていたが、幸助が紐を乗り越えて中に入ろうとすると、警備の人に呼び止められた。

「私はここの人間です」

 というと、刑事がそれに気づいて、

「旦那さんですか?」

 と聞くと、

「ええ、そうです」

「どうぞ、こちらへ」

 と言って、中に入れられ、犯行現場に連れていかれた、

 すでに被害者は運ばれた後だったので、そこには白い紐のようなものが、太い人間の形を作っていた。明らかにそこで人が死んでいたという証拠のようにである。

 それを見た旦那も、やっと事の重大さに気付いたのか、顔面が蒼白になった。最初捜査員と話をしている時は、まだ顔が真っ赤に紅潮していて、興奮気味だったが、ここに至って憔悴していると言ってもいい状態になっていた。

「さっそくですが、あなたは今日お仕事は?」

 と刑事の事情聴取が始まった。

「休みだったんですよ。二か月に一度、有休を取ることになっていたので、今日がちょうどその日でした」

「午前中はずっと奥さんと一緒でしたか?」

「ええ、もっとも話らしい話をしたというわけではないですが、女房が家事をしているのを、私はテレビをつけて、最初はボンヤリしていたんですが、そのうちに、本を読み始めました。私は結構テレビを見ながら何かをするということが多いもので」

「それで、午前中をお宅で過ごされたというわけですね?」

「ええ、その後、女房が軽い昼食を作ってくれたので、それを食べてから外出しました」

 旦那がそういうので、流しを見ると、まだ昼食の片づけが済んでいなかった。洗い物が流しの中の容器に浸かっていたからである。刑事は少し不思議に思ったが、旦那も出かけたことだし、片づけはゆっくりしようと思ったとしても、それは不思議な心境ではないので、それほどそのことを意識することはなかった。

「どちらに行かれていたんですか?」

「駅前のパチンコ屋です」

「パチンコはよくされるんですか?」

「いえ、そんなことはありません。たまにするくらいですが、基本的にするとしても休みの日に出かけるくらいです。だから、行く店も決まっていて、今日も同じようにその店に行ったんです」

「なるほど、私が先ほど奥さんのことで連絡した時も、パチンコ屋におられたわけですね?」

「ええ、そうです」

 そういえば、最初携帯電話に連絡を入れた時、すぐには出てくれなくて、折り返しの電話だったので、すぐに出られない理由があると思ったが、なるほど、パチンコ屋にいたのであれば、それも仕方のないことであろう。

「その後は、どうされるつもりだったんですか?」

「今日は珍しく出たので、少しお金に余裕がありました。刑事さんから電話がなければ、きっと三十分以内に家に電話を入れて、女房を呼び出して久しぶりに外食でもしようと誘うつもりでした」

「外食はよくされるんですか?」

「しょっちゅうではありませんが、たまにですね。行く店も大概は決まっています」

「ところで、お出かけになる時、どなたかに遭いませんでしたか?」

 と、刑事は時間を戻して質問した。

 唐突で、しかも時間を遡ることになったので、これで冷静に返事ができれば、先ほどの奥さんの証言も信憑性がある。刑事としては、聞き込みの高等テクニックだと思っているやり方だ。

「あっ、ええ、近所の奥さんに遭いましたね。奥さんはニコニコ笑顔で挨拶してくれたんですが、私は頭の中で、すでにパチンコ屋を頭に描いていたので、まともにお返事ができませんでした。失礼なことをしたと思います。なぜかというと、いつもパチンコ屋は朝一番から行くんです。今日は少し遅くなったので、いい台が残っているか分からなかったので、そっちが気になってですね」

「そんなにパチンコに嵌ってるんですか?」

「そんなことはありません。ただ、今日はいつもと違って、いつのように朝一番からいかなかったことを少し後悔してましてね。たまにですが、そんなこともあるんですよ。急にパチンコ屋に行ってみようと思うことがですね。前の日から午前中くらいまでは、今日はパチンコなどする気もなかったのに、午前中の時間があまりにも長く感じられると、昼からの時間をどう過ごそうかってね。そんな時、やっぱり頭に思い浮かぶのはパチンコなんですよ。嵌っているというよりも、時間調整の手段の一番がパチンコということですね」

 と旦那がいうのを聞いて、刑事は、

――それを嵌っているというのではないか?

 と思ったが、そこは事件に直接の関係があることには思えなかったので、それ以上言及することはなかった。

「分かりました。ありがとうございました」

 と刑事は一通りの聴取を終えて、旦那の話をウラを取ったが、概ね彼の話に間違いはなかった。

 近所の奥さんの話、パチンコ屋の目撃証言、念のために、パチンコに買ったら行くつもりだったというお店のマスターの証言も取ったが、そのすべてが先ほどの事情聴取を裏付けていたのだ。

 とりあえず、旦那は一応この事件ではアリバイがあるとして、重要参考人としては外れた。

 捜査は、近所の住人にも事情聴取という形で行われた。

 隣の夫婦は、共稼ぎなので、二人とも会社や勤め先にいて、そのウラは取れた、彼らも参考人としては外れた。ただ、話だけは聞かれて、

「お隣のご夫婦ですか? ええ、たまに会いますが、そうですね。私にはあの夫婦は仲がいいのか悪いのか分からないところがありましたね。ニコニコ二人で出かけることもありましたし、でも、最近は二人がニコニコしているところを見たことはないですね。二人でいるところを見ることさえないくらいです」

 と奥さんがいうと、

「それは僕も思いました。旦那さんとはたまに一緒に駅まで行くんですが、家庭の話をなるべくしたがらないというか、触れられたくない何かがあるのかと思って、何も聞かないようにしていたんですけどね」

 と、旦那の方も答えた。

 刑事はそれを聞いて、牛島夫婦は仲が悪いわけではないが、決してよかったというわけではなく、ご主人の方で何か奥さんに疑問のようなものを感じていたような雰囲気が感じられた。

 旦那との事情聴取ではそこまで込み入った話は出なかった。そして裏付けの中で旦那のアリバイがあるので、それ以上聞くことはなかったが、刑事には何か引っかかるものがあったのも事実で、少し頭の片隅に置いておこうと思った。多分、忘れることはできないと思ったからだ。

 今度は反対側に住んでいる隣人の男に事情聴取をした。隣人の男というのは例の浪人生で、彼は奥さんが殺されたということを聞いてからなのか、かなり青ざめているように見えた。

「本城さんは、浪人生なんですね。ところでお隣の奥さんなんですが、お話したこととかありますか?」

 と聞かれた本城は、

「ええ、ありますよ。一度、おすそ分けだと言って、食事の残りをいただいたこともありました」

「嬉しかったでしょう?」

 刑事は好奇の目で、下から見上げるように聞いた。

「ええ、何と言っても一人で寂しい浪人生ですからね。頑張って勉強しようと思いましたよ」

 少しの会話で、先ほどの真っ青な顔に少し血色が戻ってきたようだ。

 先ほどの表情は、奥さんに限らず身近な人が亡くなった、しかも殺されたということでのショックと、警察がやってきていろいろ聞かれるという緊張感とが一緒になって、あんなに青ざめていたのだろう。警察の聴取にも慣れてきたことで血色が戻ってきたのだとすれば、今刑事が考えたことへの信憑性には十分になると思われた。

 刑事はいろいろ聞いてみたが、彼の話はのらりくらりしているようで、どうにも要領を得ない。やはり浪人生というものは思考回路がどこか違う回転をしているのではないかと思う。きっと大学生でもない社会人でもないそんな自分に対して後ろめたさのようなものがあるからではないかと感じた。

「分かりました。また何かお伺いすることもあるかも知れませんが、今日はこのあたりで結構です」

「ご苦労様です」

 と言って刑事が部屋を出ようとした時である。

――おや?

 刑事はその視線は聴取を行ったリビングから表に繋がる途中に何か粒のようなものが足元に転がっていた。米粒よりも大きなもので、アーモンドよりも少し小さなもの。コメのように真っ白というわけでもなく、アーモンドのように赤褐色という感じでもない。

――何だろう?

 と思ったが、粒に筋が入っているように思えたので、それがひまわりの種であることに気が付いた。

――そうだよ。あれはハムスターとかの餌になるものだよな――

 と思って、部屋の中を見渡したが、どこにもハムスターはいなかった。

――変だな?

 と感じたが、その時はそれ以上考えなかった。

 浪人生の寂しい生活をしていると、ペットくらい飼いたくなっても仕方がないだろう。ただマンションなので、犬や猫というのは抵抗がある。鳴き声が近所迷惑になったりするし、一番飼育するのに適しているのは、ハムスターなどちょうどいいのではないだろうか。実際に刑事の知り合いで、マンションでハムスターを飼っている人もいた。だが、この間話を聞いた時、

「ハムスターは元気にしているかい?」

 と聞くと、少し寂しそうな表情で、

「今はもう飼っていないんだ。ハムスターというのは寿命が短くてね。この間一匹信者ってね。それを追うようにもう一匹も死んじゃったのを見て。可哀そうになって、さすがに継続して他の子を飼ってみようという気にはなれませんでしたね」

 と言っていた。

「ハムスターの寿命ってどれくらいなの?」

「そうだな、平均三年くらいかな? 病気になれば、もっと短いからね」

 と言っていた。

 さすがに三年は短い気がした。

 刑事は、自分が子供の頃に犬を飼っていたのを思い出した。小さな頃から世話をしていたが、結構生きて、十何年かは一緒にいたような気がした。幼稚園お頃からだったので、高校を卒業するまではいた。大学は都会に出てきたので、犬を残してくる形になったが、二年生の時だったか帰省した時いなかったので、

「死んだんだ」

 と思った。

 親にそのことを聞くのも忍びない気がして、わざと聞かなかったことを覚えている。子供の頃ずっと一緒だったので、愛着があり、いない家に帰ってくると、違うところに来たみたいな違和感もあったくらいだった。寿命が短いのは、そこまで愛着を感じることがないのでまだマシなのか、刑事にはよく分からなかった。

 刑事はこの浪人生に対して、事件に関してのことよりも、ハムスターが部屋にいないことの方が気になっていた。ベランダにいるのか、それともどこかに連れて行っているのかである。

 もしそうだとすれば、動物アレルギーの人が訪れた可能性もないとは言えない、もう一度近いうちにここを訪れてみようと思った。しかし、その必要はなく、いやが上にも訪れることになるのを、その時刑事には分からなかった。

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