第6話 盗撮
マンションに引っ越してきてから、専業主婦としても慣れてきた桜子を、ある日一人の近所の奥さんが尋ねてきた。隣ではないのだが、同じ階の数部屋離れた家の奥さんだった。
その奥さんは、桜子よりも少し上だったのか、いつも気さくで、挨拶も欠かさずしてくれる人だったので、少し心を許している相手であった。
彼女の名前は神崎ひろ子さんと言った。旦那との間に子供はおわず、それは桜子のところと家庭環境は似ていた。神崎家の方も、
「まだ子供はいらない」
と旦那が言っているらしく、奥さんの方もそれならそれでもいいと思っているのか、別に子供がほしいとは言わなかった。
逆に近所の奥さん同士で子供の話題があがると、どこか暗い雰囲気になり、まわりの奥さんたちも、我を忘れて話をしていても、そんな雰囲気をぶち壊してしまうほどに、まわりへの影響が大きなイメージの奥さんだった。
それだけに、この人から何かを頼まれたら、嫌とは言えないという雰囲気を醸し出していたのだ。
「お願いがあるんだけど」
と彼女は桜子に切り出した。
普段気さくな奥さんが、何か奥歯に何かモノの挟まったかのような言い方をするのだから、よほどのことに違いない。難しいことなのか、それとも桜子を見込んでのことなのか、表情は真剣というよりも、申し訳なさそうな顔になっていることから、金銭的なことや、それほど厄介な問題ではないような気がした。
厄介な話であっても、彼女の雰囲気からは、
――断られるかも知れない――
という雰囲気があり、もし断られたとすれば、それも仕方のないことなのかも知れないと思っているのだろう。
桜子が身構えてその話を待っていると、
「実は私、夜時々なんだけど、キャバクラでアルバイトしているのよ。そこでね、急遽辞めなければいけない女の子がいて、その代役を一時期だけでいいんだけど、お願いできる人がいないかって思っていたの」
桜子はそれを聞いてビックリした。
――このシチュエーションは初めてではないわ――
と感じたからだ。
あれは、大学の時、友達の塩塚りえに誘われて一日だけ体験入店した時だった。もうすでにあれから何年経っているのか、記憶にはあったかも知れないが、無理に思い出すことでもなかったということと、思い出す必要などまったくなかったという思いとで、封印していた記憶をまた引き出しから引き出すことになるとは思ってもみなかった。
「どうして、私なの?」
と一番の疑問をぶつけると、
「桜子さんは、男性好みする顔だと思うの。それにあなたは、どこかキャバクラに似合っていそうな気がしたの。一種の女の勘というやつなんだけどね」
と言って、苦笑いをした。
ただ、その時ひろ子は桜子の中に、どこか変態プレイを好む性質があることを分かっていたようだったが、それを口にすることはなかった。最初に彼女に目を付けた理由はそこにあったのだ。
だが、それを差し引いて、額面上そのまま受け取った桜子は、
――私はそんな風に思われていたのか――
と感じた。
それにしても、気さくでまわりともうまく会話に乗っていける明るい奥さんだと思っていたが、それは元々の性格から来るものなのか、それともキャバクラ勤めが彼女をそのように変えたのか、桜子が見る限りでは、前者に思えた。その感覚から、桜子はひろ子の頼みを無碍に断る気にはなれなかった。
ただ、引き受けると決めたわけでもなく、もし引き受けるとしても、引き受けるまでにいくらかの関門があると思っていた。
一体どれくらいの期間なのか、そして、場所はどこなのか?
これは、家事との両立の問題と、場所によって、旦那にバレルかも知れにあという意識もあった。そして、期間がある程度ハッキリしていないと、そのままなし崩しにダラダラ勤めなくてはいけなくなってしまうことは、本末転倒だったからである。
もちろん、店自体がどういう店なのか、客層は?
などと、もう一つ踏み込んだ意識も持っておかなければならない。
何しろ水商売なのだ。気になってくることは山ほどある。
「もっと他に確認しておかなければいけないことがあるのではないか?」
という思いが不安になったりもする。
だが、桜子はその時、彼女の頼みを断るという選択肢を最初から持っていなかった。話を聞いていたのも、
「働いてみる気、ありき」
だったのだ。
スナック勤めなどと違ってキャバクラである。水商売というよりも、風俗に近い。触られることもあるだろうし、相手もそんな目で見てくるに違いない。
大学時代の時のような体験入店とは違う。確かに今の自分はあの時のようなウブな小娘ではないが、そのあたりは風俗に通い慣れた客が相手であれば、彼らの目を甘く見るわけにもいかない。
それにしても、
「いきなり今まで平凡に暮らしていた主婦に、何というお願いを持ってくるのだろう」
と思わないでもいられないが、そんな主婦だからこそ、無防備に見えたのかも知れない。
それが彼女の思うつぼだったとすれば、やはり桜子は性格的に、
「来る者は拒まず」
という性格なのかも知れない。
話を聞いてみると、それほどきついものでもなかった。亭主の会社からも、通勤路からも離れているからだ。それに彼女が勤めているところだから、きっとこのマンションからもあまり関係のない場所での勤務であろうから、そのことは気にすることもないだろう。
そうは思ったが、
「少しだけ、お返事、待ってくれる?」
と言ってみた。
「いいわ。じゃあ、三日間だけ待ってあげるから、その間に考えてみて」
と言ってくれた。
なるほど、最初からいきなり返事をしなければいけないほど切羽詰まったお願いでもないようだ。もっともどこかを辞める場合は基本的に一か月前に通知が必要なのだが、ただ、それがこういう商売で通用するかどうか、桜子には分からなかった。
約束の三日が経って、
「ええ、いいわ。でも、期間は約束のその期間だけね」
というと、
「ありがとう。もちろん、それでいいわ。お給料の話は私がお店のママさんにお話しておいたから、安心していいと思うわ」
と言っていた通り、実際に給料は少し色をつけてくれていた。
だが、この決断が結果的に間違っていたことを、桜子はその時まだ知らなかった。
約束では、一か月ほど、週に二、三回でいいということ、そして、旦那が早く帰ってくるというのが分かっている時は出勤しなくてもいいということ、基本的に家庭を犠牲にするようなことをしなくてもいいということだった。家庭から訴えられるなどの面倒なことは、店の方としてもお断りだったからである。
お店は、それほど広くなかった。近くには競合店もなく、飲み屋が少々ある程度、
――よくこんなところにお店を持って、やっていけるわね――
と思ったが、
「飲み屋の客がターゲットなのよ。このあたりの人は呑みに行ってもそんなに浴びるほど飲む人はいないわ。だけど、男としてムズムズすることはあるんでしょうね。お仲間さんと呑んだ後、こちらに来られるかたが多いようなの。そのあたりの流れは都会の繁華街と同じなのかも知れないけど、今のところはうまく行っているということかしら?」
と誘ってくれた彼女はそう言っていた。
ドレスは体験入店用に置いてあったので、それを着ることにした。体系的には小柄に見えるが、中肉中背なので、サイズが合わないことはなかった。化粧はいつものように薄めにした。下手に目立ってしまっては、他のキャストの手前まずいと思ったのだ。
誘ってくれた彼女、ひろ子はというと、うまい具合に化けていた。その様子は、完全に普段の彼女だとは思えないほどであった。一番の特徴は、金髪のウイッグをつけていて、口元に着けぼくろなどを施していた。金髪の印象派強烈で、普段の彼女よりも五歳は若く見せる。小学生のコスプレなどをさせると、本当にロリコンをイメージしてしまうであろう。
お客さんは、辞めていったその子から受け継ぐような形になり、フリーの客か、辞めた女の子を指名しようとしてきた客であった。
辞めていった女の子がどんな子なのかは分からず、最初は気を遣った。
――その子をイメージしてきているのだから、私もその女の子になったつもりにならなければいけないのかしら?
と思ったからだ。
だが、そんな必要はサラサラなかった。辞めていった彼女はどちらかというと静かなタイプで、自分からあまり話さない子だったという。店には不釣り合いなのかも知れないが、そういう子を好む客もいるということだ。入店間際でまだ戸惑いのある桜子にはちょうどよかった。そういう意味では桜子も桜子も桜子も客に遠慮することもなかった。ただ、静香に客の話を聞いているだけでいいような感じだったのは、本当にありがたかった。
「どうやら馴染めているようね」
桜子を誘ったひろ子も安心してくれているようだ。
誘ったのは彼女なので、それはそうだろう。しかも、店から桜子の相談相手になってほしいと言われているようで、事あるごとに、桜子を気にしていた。
桜子としても、そこまで嫌な気はしなかったので、ひろ子も安心してくれ、ママさんもよかったと言っていると話してくれた。代役としてのつなぎであったが、それはそれで役立てたことはオンナとしての冥利にも尽きるというものだ。
このお店での桜子は、源氏名を「もも子」という名で呼ばれていた。これは自分からつけたのではなく、ひろ子がつけてくれた。きっと、
「桜に対しての桃」
という意味でつけてくれたのだろうが、まさか桜子の旧姓が「桃井」であるなど、想像もしていないだろう。
そう思うと、少し可笑しな気がした。
だがこの店での「もも子」は思っていたよりも人気だったようで、指名してくれる客も徐々に増えてきた。
「へえ、もも子さんって、結構人気なんじゃないですか」
とひろ子はニッコリしていた。
指名数ではさすがに彼女には負けていたが、新人のしかもピンチヒッターとしては、かなりのもののようだ。それはママさんも認めているようで、
「本当にありがたいわ。本当ならこのままお勤めを続けてほしいくらいよ」
と言われた。
最初のつなぎという気持ちから、少し店に慣れてくると、ママさんから言われたこの言葉もまんざらでもない気分にさせられるが、さすがにこのまま延長しての勤務には抵抗があったので、ママさんのこのセリフには曖昧に答えるしかなかった。
そんな桜子であったが、桜子が店に勤め始めて二週間くらいが過ぎた頃のことであろうか、桜子もひろ子も知らなかったのだが、二人にとって馴染みのある客が、まったく別のキャストを指名して店にやってきた。
この男はこの店は初めてではない。たまにやってはくるが、ひろ子と顔を合わせたことはなかった。
もっとも、ひろ子の方は結構視力が悪く、コンタクトをしていたが、お店の中にいると、結構見えないようで、自分の指名客はほとんど顔が認識できないほどであった。却ってその方が都合がいいと思っていたひろ子は気にもしていなかった。なぜならひろ子は金髪のウイッグなどをつけて、
「化けている」
からだった。
「五つは若く見える」
と自他ともに認めているくらいなので、知っている人がきても、別に指名しているわけではなければ、分かるわけもなかった。
その客は、基本的に金髪は嫌いだったようで、いくらウイッグと分かっていても、指名する気にはならなかった。そういう意味でひろ子が指名を受けるわけもなく、今まで事なきを得ていたのである。
だが、その男は、さすがに桜子のことには気づいたようだ。
「あれ? あれは……」
と思い、声を掛けようかと一瞬思ったが、
「待てよ」
と感じ、思いとどまった。
ちょっとした悪戯心が頭をよぎったことから、この店で声を掛けることをやめたのである。
男は桜子の様子をジロジロ見ながら、ほくそ笑んでいた。自分がキャバクラにいるということも忘れてしまうくらいにであった。だが、さすが彼も男である、指名して入店したからには、しっかりと楽しんでいた。その時は桜子へのよこしまな気持ちを抱いたままであったことは言うまでもない。
当の桜子は見られているなどと知る由もなく、すでに何度か自分のことを指名してくれている、
「お馴染みさん」
と仲良く会話していた。
その様子は、普段の桜子からはまったく想像できないもので、男はその様子も実に楽しく覗いていた。
――へえ、あの奥さん、あんな顔するんだ――
と思い、ほくそ笑んでいた。
桜子は、店ではまったく普段とは違っていた。
――こんなに楽しいなんて――
と実際に感じていたことであり、普段がまるで借りてきたネコのように思えていた。
そして、最近思い出すのは、かつて大学の時に体験入店した時のことであった。しかもそれを思い出すのは、店にいる時ではない。そのほとんどは夜寝ていて夢に出てくることだった。
自分は大学生に戻っていて接客しているのだが、その場所は今ピンチヒッターをして勤務している店であった。
相手の客は知らない人で、
――いや、でも見覚えはあるんだけどな――
と思う人だった。
その男性が桜子の顔は見ずに、身体を舐めるように見ている。頭の髪の毛から下がっていって、顔は見ることなく、胸から下半身に掛けて、舐めるように見ている。特に下半身は重点的である。
そんな時、桜子はムズムズしている。腰をくねくねさせて、イヤイヤしているような様子である。
オトコの顔がニヤッと厭らしく唇が歪む。完全に視姦されていた。
――前にも同じような感覚あったわ――
それが、大学時代の自分であり、まさに夢に出てきた自分だった。
――なんて気持ちいいのかしら?
と思うと、そのうち、これが夢であることに気付いた。
夢ならすぐに覚めるだろうと思っていたが、すぐには覚めなかった。それよりも、隣で旦那が寝ていることを分かっていて、
――夫にはこんな私を知られたくない――
と思っていた。
幸い、すぐに目が覚めてすぐに隣を見ると、旦那はいびきを掻いて寝ている。
「よかった」
と安堵の溜息をつくのだが、身体は火照っている。その火照りが心地よく、その思いが自分をキャバクラのあの店へと駆り立てるのだった。
そんな感情になっていることを誰が気付くものだろうか。ひろ子さんや店のママであれば、桜子が勤務を楽しんでいるということは分かっても、その楽しさがどこから来ているかまで分からないだろう。しかも商売柄、あまり人の感情にまで入り込むようなことはしないはずの彼女たちに桜子の本心など分かるはずもない。もし分かったとするならば、自分も同じような感情の持ち主であるということであろうが、それならそれで問題ない。なぜなら、それを他人に気付かれるようなことは絶対にしないだろうからである。
「本当に、もも子ちゃんはよくやってくれているわ」
とママがいうと、
「ええ、私もあの人がここまでやってくれるとは思っていなかったわ。私も紹介した手前安心してますよ」
と、ママとひろ子が話しているようだった。
ひろ子はこの店では結構ベテランのようで、
「こういう店なので、結構キャストの入れ替わりは激しいのよ。そういう意味で、この店は都会の繁華街のような店が乱立して、商売敵のような目でまわりを見ることはないので、ギスギスした雰囲気もないので、いいのかも知れないわね」
と、桜子に話した。
桜子もその話を聞いたのは、働き始めて少ししてからのことだったので、
「うんうん」
と頷いたが、それは本心だったのだ。
「どうしてママさんは、こんな中途半端なところにこんなお店を作ったのかしら?」
とひろ子に聞くと、
「ハッキリは分からないけど、このお店をずっと続けていくつもりは、毛頭ないと思うのよ」
「どういうこと?」
「このお店も、本当はどこかの大きなお店のチェーン店のような感じなんだって。表向きは単独店なんだけどね。だから、フランチャイズではない系列に近いかな? ママはいずれここを辞めて、スナックか小料理屋をやりたいような話をしていたわ」
「小料理屋というのは憧れる気がするわ」
なるほど、ママさんは今はドレスを着ているが、和風の服を着るともっと似合いそうな気がする。
「いろいろあるけど、でも、私は今楽しいの。それでいいんじゃない?」
という言葉、いちいち納得できる桜子であった。
桜子はママを見ていて、どこか頼りがいを感じていた。
――本当ならもっと続けたい気もするわね――
と思いかけてもいた。
しかし、桜子がそう思っていた矢先に事件は起こった。それはもう少し後での記述になるだろう。
桜子は、店にすっかり慣れてしまい、毎日が楽しかった。店に出ない日でも、なるべくゆっくりしているように心がけたが、それは自分の中でメリハリをつけたいという思いからであった。
普段の主婦としての顔、そしてキャバクラのキャストとしての顔、まったく違う自分を演じている。実は桜子は自分の夫に裏表を感じていたが、自分にも裏表があることに気付いたが、それはお互いに駆け引きする部分としては公平であると思ったのだ。
今のところ駆け引きすることなど何もないが、似たもの夫婦として、相手の気持ちも話していると分かってくるのではないかと思うようになっていた。
そんな桜子だったが、ある日、出勤のない日であったので、家でゆっくりしようと思っていた。最初こそ、
「夫にバレたらどうしよう」
という気持ちのまま、お店に勤めていたが、今のところ見つかることもなく、お店の人もお客さんもいい人ばかりなので、安心していた。
それよりも想像していたよりもたくさんのお給料がもらえていることで、自分もお金を稼いでいることに喜びを覚えた桜子は、気持ちに余裕ができたことで、家にいても、ただじっと何もしないでいるのがもったいなく感じた。
そのおかげか、この間お店にいく途中で見かけた花屋さんに、まだ時間に余裕があったこともあって、ちょっと覗いてみたが、
「今までどうしてお花に興味を持たなかったのだろう」
と思うほど、綺麗な花に感動していた。
「いらっしゃいませ」
と言ってくれるお店の人も気さくで、本当であればいろいろもっとお話を聞いてみたかったが、
「すみません、ちょっと今日はこれから用事がありますので、また後日」
と言ってその日は後ろ髪を引かれる思いで、店を後にした。
だが、お花への思いはどんどん深くなっていく一方で、お休みの日が待ち遠しかった。お店に行くのもそれなりに楽しいが、一人で何かに勤しむという楽しみを見つけれたことが自分には嬉しかった。
「そういえば、あの人は絵を描くのが好きだって言っていたっけ」
そう、旦那の幸助のことだった。
一人で何かができるという趣味を持ちたいと思っていたので、絵を描くというのを聞いた時は羨ましく感じられた。
やっと休みになると、その日は旦那をいつものように送り出すと、自分もそそくさとお出かけの支度をして、飛び出すように家を出た。言わずと知れたこの間のお花の店に赴くためだ。
お店の人といろいろお話をしていると、
「だったら、ベランダにプランターを置いて、家庭菜園なんかどうですか? ちょっとしたものであれば、ベランダでいくつか栽培できて、それをおいしくいただくというのは、二重の楽しみですよ」
「それもそうね。お花だけだったら、枯れてしまうと、もう何も残らない気がするけど、家庭菜園なら、自分のお腹の中に収まるという意味でも、とっても楽しみな気がしてくるわ」
と言った。
これだと、野菜があまり好きではないと言っていた旦那も、気分を変えて食べることができるかも知れない。これは一石二鳥ところか、三鳥にもなるかも知れないと感じた。
家庭菜園になりそうなものと、プランターを購入し、あとで届けてもらうことにした。
「うちは、配達もしますからね」
と言っていたのが嬉しかった。
さっそく、ベランダで家庭菜園を作ってみたが、集中してやっていると、気が付けばもう夕方近くになっていた。
「あら、もうこんな時間」
と思って、夕食の準備を考えていたが、
「あら?」
何か、違和感を覚えた気がした。
普段と何かが違う。それが何か分からない。気持ち悪い気がしたが、
「これは気のせいかも知れない」
と思う方が明らかに信憑性があり、誰もが感じるであろう、気のせいを感じていた。
だが、静かな部屋で身体を動かさずにじっとしていると、何か機械が動いているような音である。
「ジー」
という音であるが、冷蔵庫でもないし、他にピンとこない。何よりも今日気付いたのだから、時計に気になった。一体何の音であろう。
実は、この間、夫婦はちょうど休みの日が重なったことで、(桜子は基本的に旦那が休みの日は、お店にはいけないと最初から断っている)一泊だけ近くの温泉に旅行に出かけた。そのことは管理人さんにだけ断っていたが、それ以外の人は知らないだろう。この音が最初に気になったのは、旅行から帰ってきてからのことで、気になったと言っても、あの時もすぐに気のせいだと思い、それ以上深く考えなかったのである。
その日も、桜子はそれほど気にしなかった。理由の一つは、耳鳴りだと思ったからで、静か過ぎる部屋の中にいたりすると、
「ツーン」
という音がしてくることは今までの経験からもあり、それが静かすぎることで耳の鼓膜を風などが刺激した時に聞こえる、普段は気にしない音が機械音のようなイメージできこっることがあるという意識があったからだ。
もう一つの理由としては、その日せっかく自分の趣味を見つけ、
「何かを始めよう」
という気になった記念すべき日、自分でも興奮していることから、聞こえるはずのない者が聞こえてきたかのような錯覚に陥ったと思ったのではないだろうか。
肉体的にも精神的にも普段聞こえないような機械音が聞こえたとしても納得のいく理由があるのだから、変なことを気にしてせっかくの時間を無駄にはしたくないと思い、気分は楽天的になっていたのだ。
だが、機械音はそれからもずっとしていたのだが、桜子が気にすることはなかった。家にいる時は、結構せわしなく動く回っているので、その音に気が付くことはなかったのである。すでに気にならないという思いが頭に芽生えていることで、音がしたとしても気にはならなかっただろう。そういう思いもあって、聞こえていたかも知れないことも、聞こえないということで片が付いていた。
だが、実際にはその音は、見えているかも知れないがまったく気づかないところに設置された盗聴用のカメラの音であり、そのすぐ近くのやはり目立たないところには、超高性能で、ごくごく小さな収音マイクが設置されていたのだ。
設置されていることも知らないわけなので、誰がそんなものを設置したのか、誰も分かるはずもない。しかし、冷静に考えれば分かりそうなものだが、なぜその人がこの部屋に仕掛けたというのか、この時点では、まったく分からなっていなかった……。
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