『帰ってきてね?』




「ねえ、おばあちゃん。お兄ちゃんは?」


「……小雪、アプリコットのお茶でも飲む? 好きでしょう?」


 雪みたいに真っ白な髪をしたおばあちゃんが、お茶を淹れてくれる。

 コツ、コツ、コツと大きな機械式時計の針が進む音だけが聞こえる家。

 アプリコットティーが特別好きなわけじゃないけど、それはわざわざ口にしない。

 窓際では捻くれた顔をした黒猫が一匹、眠そうに欠伸をしている。


「きょうも、こないの?」


「そうねぇ」


 おばあちゃんは優しいけれど、質問には答えてくれない。

 拗ねたようにぼくは顔を伏せて、窓ガラスの向こう側を覗く。

 外は雨が降っていて、遠くを見通すことはできなかった。


「じゃあ、パパとママは?」


「もう少しの間だけ、私とバターだけかもしれないわねぇ」


 アプリコットティーを啜りながら、おばあちゃんが申し訳なさそうに皺を深める。

 名前が出てきて自分が呼ばれたと勘違いしたのか、離れたところから黒猫のバターがにゃおんと何か鳴いている。


「もう、あえないの?」


「そんなことないわ」


「じゃあ、どうしてあいにきてくれないの?」


「そうねぇ」


「もう、すきじゃなくなったから?」


「まさか。小雪のことを好きじゃなくなることなんてない」


「だったら! あいにくるじゃん!」


 自分で思ったより大きな声が出てしまい、自分自身で驚く。

 ただ、寂しかっただけだった。

 この家が、どこにあるのかもよく知らない。


「ほんとうは、きらいになっちゃったんでしょ」


「小雪……」


「もう、いらなくなっちゃったんでしょ! お兄ちゃんだけでいいんだ! 小雪はもういらないんだ! ぜったいそう!」


 何も理由がわからなかった。

 どうして家から出なくてはいけなかったのかもわからないし、家族と会えなくなってしまったのかもわからない。

 一人ぼっちじゃないのに、すごく孤独だった。


「難しいのよ。好きなだけじゃ、触れないものもあるの」


「なにそれ。わかんない!」

 

 これが癇癪だとは、わかっていた。

 まだ感情の表現の上手くないぼくは、不意に目頭が熱くなってきて、困惑する。

 飲みかけのアプリコットティーをそのままにして、ぼくは目的もなく走り出す。

 

「もうみんなだいきらい!」


 皆んながぼくのことを嫌うなら、ぼくの方から皆んなのことを嫌ってしまおう。

 変にプライドの高いぼくは、愚かにも本気でそんなことを思っていた。

 勢いのまま玄関に向かって、傘も持たずに扉を開け放つ。



「……小雪! ちゃんと、あなたは、帰ってきてね?」



 冷たい雨が降り頻る中、迷わずにぼくは家の外に飛び出す。


 振り返ると、足腰の弱いおばあちゃんが泣きそう顔で、ぼくを追いかけようとしていたけれど、途中で諦めたのか玄関先で座り込んでいる。


 黒猫のバターが、不思議そうな表情で自分の髭を撫でているのが、やけに目についた。



 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼女持ちの友達(イケメン)がやたら俺に絡んでくるんだけどなにこれ 谷川人鳥 @penguindaisuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画