やたら僕に絡んでくる彼
『あなたも私を捨てるの?』
「どうして? どうして私を捨てるの?」
小さな僕の手を握る母が、血走った目で縋るような声をあげている。
あまりにその握る力が強すぎて、幼い僕には痛みが走る。
「何が悪かった? 何が間違ってた? 私、上手く、やれてたでしょ? 家庭を優先して女優だって辞めたし、苦手だった家事だって全部やれてるし、劇団時代の友人関係だって整理して、私の時間を全部あなたに使ってるじゃない!」
最後はもう、ほとんど悲鳴に近かった。
僕の大好きな母が、喉を潰すような声で叫んでいる。
涙でぐちゃぐちゃになった化粧。
いつもは綺麗に結われている黒髪はぼさぼさで、似合わない枝毛が目立つ。
「だからだよ、
悪いな、と言葉を結んで、父が淡々と口にする。
あまりに若すぎる僕には、離婚という言葉の意味が分からなかった。
僕の大好きな父が、顔も見せずに背中だけを向けている。
「い、嫌よ。そんなの、絶対に嫌。許されるわけない。だって、そうでしょう? あなたのために、私は自分のキャリアを捨てたのよ!? あなたには責任がある! 特別になれるはずだった私の人生を誰もが羨む幸せなものにする義務がある! 嫌よ! 絶対に許さない! 認めない! 嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌っ!」
嵐のように、母が号泣する。
言っている意味はわからないけれど、母は傷ついていた。
怒っているのか、悲しんでいるのか、その両方か。
賢くない僕は、ただ黙って手を握ることしかできない。
「俺のためにキャリアを捨てた? ……はあ。こんなことあんまり言いたくないけどさ、君はそもそも特別じゃなかったでしょ」
「え?」
「たしかに君は美人だし、スタイルもいい。華があるし、声も通って、演技力にも不足はなかった。でも、それだけだ。そりゃあ一般人の中では目立つ方かもしれないけど、芸能界では有象無象の一人にしか過ぎない。自分でも薄々気づいてたでしょ? あのまま劇団に所属してても、君のキャリアに未来なんてなかったことくらい」
「そ、そんなこと——」
「君は女優を辞める時、迷わなかったよね? むしろ、ほっとしてた。諦める理由を見つけられて、安心してたろ。君は分かってたはずだ。自分が、特別じゃないってことくらい」
「で、でも、あなたは、私を選んだじゃない! それは私が特別だったからでしょっ!?」
「子供ができたからね。君との間に小雨と小雪ができた時は、まだ俺も監督として名が売れ始めてきた程度だった。責任を取る以外の選択肢はなかった。君も隅っことはいえ芸能界にいたんだ。よくあることだろ?」
身体が、震える。
それは別に、僕自身が震えてるわけじゃない。
母の手が震えていたから、それが僕にも伝わってきただけ。
「それじゃあ、俺はもう行くよ。小雪は一旦、俺の実家に預けることにするよ。親権については、また後で話し合おう。今の君は、どうも冷静じゃないみたいだから」
父の手は、僕の妹の手を繋いでいる。
ゆっくりと遠くなっていく、父と妹の背中。
二人がどこへ行くのか、僕はまだ知らない。
「ほら、行くよ、小雪」
父に連れられる途中で、妹がこちらを振り返る。
僕と同じように、何が起きているのか分かっていないようで、不安そうに首を傾げている。
お兄ちゃん、と妹が囁くような声で、小さな唇を動かす。
寂しそうにする、僕のたった一人の妹。
自然と身体が動き、僕は追いかけようと足を一歩踏み出す。
「小雨、あなたも私を捨てるの?」
でも、氷のように冷たい手が、僕を繋ぎ止める。
これ以上、妹の傍には、行けない。
熱を失った母の黒い瞳が、僕を捉えて離さない。
そして、そのまま父と妹の背中は見えなくなった。
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