行ったことある?



「行ったことある? 鎌倉」


 無事に期末考査も終わった週末。

 約束通り、藤田と二人で俺は海に向かっている。

 JRの総武線快速に乗って南下している。


「あるっちゃ、あるな。鎌倉か。懐かしい」


「……なんで?」


「小学校に入る前にさ、住んでたことあるんだよ」


「じゃあ僕よりよっぽど海慣れしてるじゃん」


「まあな。海はべつに苦手じゃない」


 ここからあの湘南の街まで、二時間くらいはかかるだろうか。

 そう考えると特別遠くもないのに、ずいぶんと久しぶりに感じた。


「藤田は行ったことあんの?」


「……いや、僕は初めてかな」


「へぇ。あれ。じゃあ、待てよ? 海ってどこ行くか決めてんの?」


「どこって、鎌倉の海でしょ?」


「由比ヶ浜? それとも稲村ヶ崎とか江ノ島の方まで行くの?」


「え? なに? 鎌倉の海って、そんな種類あんの?」


「待て待て。なーんも、わかってねぇじゃん。頼むぜガキ共」


「共ってなにが? 僕とお前しかいないんだけど」


 おいおいおいおい。

 出たよ。

 こいつ湘南初心者だぞ。


「太平洋はさ、広いんだよ」


「なんか蕗がムカつく!」


 藤田が軽く肩パンをしてくる。

 いつもよりちょっと強めだった。

 あの普段は飄々としている藤田を弄れて、俺はご満悦だった。


「仕方がない。俺が案内してやるか。湘南ボーイの力を見せてやる」


「ははっ。うざいけど頼もしくもある。本当に蕗っていいよな。みんなが夢中になるのがよくわかる」


「夢中になってんの、お前だけなんだけど」


「それはどうかな。あともう一人くらいいるかもよ」


 無駄に意味深に甘いマスクを笑わせる藤田。

 そんな風に笑ったって無駄だぞ。

 貴重な休日に俺と二人で海に行こうとする奴が他にいるとは残念ながら思えない。


「昔さ、海に行かなかったことを、後悔した日があるんだ」


「なんだそれ」


 がたんとか、ごとんとか、そんな感じの揺れ。

 それなりに混雑した電車の中で、運よく座れた俺たち二人。

 藤田はらしくない沈んだ声で呟く。


「僕の大切な人がさ、海で泣いてたんだ。僕はそれを知ってたけど、泣いてるあいつの隣に行けなかった」


「なんでだよ。いけよ」


「ははっ。厳しすぎ」


 あまりにも悲しそうな声だったから、俺はわざとふざけた調子で返す。

 海の思い出。

 俺にもあったような気がするが、中々思い出せない。


「行くなって、言われたんだ」


「誰に?」


「それもまた別の大切な人」


「大切? 海で泣いてる奴よりも?」


「選べなかった。少なくとも、その時は」


「でも、後悔してるってことは、海で泣いてる奴の方が大切だったってことなんじゃないのか?」


「……そうかもな」


 俺の言葉を、藤田は否定しない。

 どこか諦観を含んだ瞳で、俺には見えない過去を憂うばかり。


「まあでも、今から行くんだろ?」


「え?」


「というか、もう向かってる」


 なぜか驚いた表情を見せる藤田。

 少なくとも、今日は後悔することはない。

 

「海に行かなかったことを後悔すること、とりあえず今日はないだろ? なら、いいじゃん。お前の隣で、俺は海で泣かないよ」


 綺麗な瞳で、藤田は優しく笑う。

 妙に気恥ずしくなった俺は、まだまだ見えるわけない海を探して、窓の外を覗き込む。



「ありがとう、蕗。お前を選んで、良かったよ」



 幼い頃の遠い海の記憶は思い出せないし、藤田にとっての海は後悔に満ちてるらしいし、一旦思い出さなくてもいい気がしていた。


 新しく、塗り替えたって、いい。


 この眩しい夏の光の向こう側にある景色は、色褪せた思い出よりよっぽど鮮やかな青をしている気がしていた。

 


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