濃霧
いつもより、冷たい夜だった。
ぼくは家に帰ると、兄の小雨がまだ帰って来ていないことに、すぐに気づく。
兄がいるかいないか、ぼくにはすぐに分かる。
なんというか、あの人がいない時は温度が違うというか、家全体に深く霧がかっているような感覚がする。
おそらく今日はテニスクラブの活動日なので、途中でどこかに寄り道でもしているのだろう。
廊下の電気はついておらず、リビングにだけ光が灯っている。
兄のいない家に、先に帰ってきているのは、一人しかありえない。
「……ただいま、お母さん」
「遅かったわね、小雪」
リビングの扉をあけると、ダイニングテーブルで頬杖をつく母の姿があった。
赤ワインの注がれたグラスを片手に、ゆっくりと回すように揺らしながら、ぼくに視線を送ることなく虚に中空を見つめている。
普段は仕事が忙しく、深夜に帰ってくることが殆どだけれど、こうやって時々母は突発的に早く帰ってくることがあった。
「今日はレッスンは休みのはずでしょう。何をしていたの」
責めるわけでもない、淡々とした調子。
抑揚のない母の声を聞きながら、ぼくは窓の外の夜に目線を逃した。
「まさか、誰かと会ってたわけじゃないわよね。特に、男と」
一瞬、時が止まる。
痛いほどの沈黙の中、ぼくは何度か、短く呼吸をする。
窓の外は、霧が濃いのか、よく見通せない。
「……べつに、ちょっと本屋さんに寄って参考書を眺めてただけ」
「ならいいけれど。あなたは特別だから。寄り道してる暇はないし、こんな年齢でスキャンダルなんて撮られたら終わり。わかってるわよね」
「わかってる。だからこうやって、小雨の制服を借りて、念には念を入れてるじゃん」
「……そうね。そこまで、努力しているものね」
あなたは特別だから。
平凡で、どこにでもいるような女の子にしか過ぎないぼくに向かって、よく母はそう声をかける。
ああ、ここはとても息苦しい。
兄のいない我が家は、いつもより狭く感じる。
「私の言う通りにしていれば、あなたはもっと特別になれる。愛しているわ、小雪」
べつにぼくは、特別になりたいわけじゃない。
だけど、母が特別であって欲しいと願うのなら、可能な限り応えたいとは思っている。
母の口にする愛してるは、今はもう熱を感じない。
でも、最初から熱を感じなかったわけじゃない。
だから、いつの日か、またもう一度。
あの日の熱を、昔の母を、取り戻せるはず。
「……うん。わかってる。“わたし”も愛してる、お母さん」
それ以上、もう母は何も話すことなく、ワイングラスを傾けるだけになる。
深い霧の中で彷徨っているような感覚の中、ぼくはリビングを後にする。
早く小雨、帰ってこないかな。
電話、借りたい。
なんだか、無性に、
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