二歳より前の記憶、思い出せる?


「二歳より前の記憶、思い出せる?」


 天気がいいのでカフェに行こうと、いつもの如く脈絡なく藤田に誘われた日曜の昼下がり。

 俺一人じゃ絶対に来ることのない小洒落た喫茶店で、家じゃまず飲むことのないアールグレイの紅茶を啜る。

 染み渡る熱と苦味。

 いつもはコーラばっかり飲んでるから新鮮だ。

 たまにはこういうのも悪くはない。

 そんな俺の向かい側に座る藤田小雨は、アプリコットティーなるハイセンス過ぎて何の果実を使ってるのか不学な俺にはわからない飲み物を飲んでいた。


「二歳より前はおろか、二日前の記憶すら怪しい」


「オーケー、ミスターチキンヘッド。じゃあ、君は自分の名前は覚えてるかい?」


「んー、たしか山崎賢人やまざきけんとだったか? いや、違う。俺の名前は、エディ・レッドメイン……?」


「これは重症だ。忘れてるというか、もはや記憶を捏造し出してる。というか、エディ・レッドメインってだれだっけ?」


「おいおい、ファンタビ観てないのかよ? エクスペリアームズ!」


「ちょっと! カフェでいきなり魔法叫ばないで! 恥ずかしいじゃん!」


 俺がちょっと調子に乗って、シュガースティックを杖代わりにして武装解除の呪文を詠唱すると、藤田が周囲をきょろきょろと見回して顔を赤くさせる。

 ちょうど昨晩はハリーポッターシリーズを改めて見直していたので、こういう欧州っぽい雰囲気のところに来ると、つい魔法使いの気分になってしまう。

 魔法の一つや二つ、そんなに恥ずかしいかな。

 藤田は学校のない日曜日にも関わらず、いつもと同じ制服姿なので、むしろラフな私服の俺より魔法が似合う格好してるのに。


「ほんと蕗ってメンタル強いよね。羨ましいよ」


「それほどでも」


「うるさい。調子乗るな」


「あ、はい」


 上げて落とすまで時間が刹那すぎる。

 なんなら上がりきる前に叩き落とされた感じだ。

 だが俺からすれば、どちらかというと藤田の方が精神面でも大人っぽいというか、成熟しているような気がするが、案外本人はそんなつもりはないのだろうか。

 たしかに学校にいる間とは違って、放課後やこうやって外で会う藤田は、いつもより内省的というか、思慮深い印象を抱かなくもない。


「わかった。蕗ってまだ、二歳児のまんまなんだ。だからなんでもすぐ忘れちゃうんだよ。なるほどね。そういうことか。納得納得」


「こらこら勝手に納得するな。そんなことはないぞ。ちゃんと覚えてることだってある」


「ふーん? たとえば?」


「藤田の二の腕が意外にぷにぷになこととか」


「……きも。こんな二歳児は嫌だ」


 たしかに今のはちょっときもかったかもしれない。

 頭は二歳児、頭脳はオヤジ。

 だいぶきついものがある。

 俺は若干反省した。

 彼女持ちの男友達にセクハラして喜ぶ陰キャなんて、あまりに惨めすぎるだろ。

 ジトっとした目でこちらを睨む藤田から、俺はそっと目を逸らした。


「……そういう藤田はどうなんだよ? 二歳児の頃の記憶とかあんの?」


「うーん、ぶっちゃけ、二歳と言われると怪しいけど、まあ四、五歳くらいからは確実にあるかな」


「まじで? 俺、小学生入る前はむりだな。思い出せない。なんかこうぼやっとした映像のような影みたいなのは頭に浮かぶけど、どこいった、なにしたとか、だれと喋ったとかは難しいな」


「あー、やっぱそうなんだ。まあ、そうだよね。覚えてないよね」


「やっぱってなんだやっぱって。そんな昔のこと、覚えてたってしょうがないだろ」


「うん、そうだよ、ね。うん、しょうがない、しょうがない」


 口の達者な藤田にしては珍しく、そのまま俺の言葉を受け止めて何も言い返して来ない。

 ただ、寂しそうに目を伏せるだけ。

 どうしてそんな表情を藤田が見せるのかわからない俺は、なんとなく気まずくなって、アールグレイに逃げる。


「なんかさ、匂いと記憶って、結びつきが強いらしいよ」


「……そうなのか?」


「うん。昔さ、よく、おばあちゃんの家でアプリコットのお茶を飲ませてもらったから、これ飲むと色々思い出すんだよ」


「匂いと記憶か。じゃあ、俺もキリンレモン飲めば、小学校入学前の記憶が戻ってくるかな」


「ふふっ。なにそれ。蕗は小さい時、キリンレモンよく飲んでたの?」


「ああ、俺の青春の味さ」


「五、六歳の頃を青春と呼ぶには、青すぎるね」


 穏やかに笑いながら、藤田はアプリコットのカップを傾ける。

 何か懐かしいものを見るように、形の綺麗な二重瞼を細める。


 

「良い思い出も、悲しい思い出も、全部、この匂いが覚えてる」



 そういえば、俺は小学校に入る前はこの街とは違う、もっと海の近い街に住んでいたな。


 ざあざあ、ざあざあ、ざざざあざあ。


 低空飛行で舞う沢山のトンビたち。

 潮風を浴びながら飲む、キリンレモンの炭酸。

 セピア色に霞んだ記憶の向こう側に、俺は一瞬、誰かの背中を見た気がした。


 誰だったか。

 あの時、俺は一人じゃなかった。

 俺の夏に、誰か、もう一人。



 ああ、でも、思い出せない。



 アールグレイの香りじゃ、どうにもあの夏には届かないらしい。



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