第10話 悪夢

 鎌倉は一体何を言いたかったのだろう。その後の時間は、他愛もない親子関係について聞いただけだった。本来であれば、これだけの聴取で平和に終わるだけだったのに、この最初の質問の意味がよく分からない。

 社長を怒らせて、何かを引き出すつもりだったのか?

 もしそうであれば、こんなにアッサリと話をやめるのも変だ。現に社長は激怒していないではないか・

 では、事件に関係のあることで、何かを得ようとしたのか?

 そちらは、もっと考えにくい。やはり鎌倉探偵が何かを得たとは思えない。確かに社長のうろたえようからは、ただならぬものが感じられたが、それがどこから来るものなのか、完全に想像でしかないからだ。

 それでもよかったというのだろうか。もしそうであれば、やはり鎌倉探偵の真意はますます分からない。

 ただ、生田美佐子の名前を探偵が一体どこで聞いてきたのか、ここは引っかかった。そして同じ苗字の謎の女、社長は気になってしまい、さっそく弁護士を呼び出した。

「すまないが、生田愛子という名の女性について調べてくれないか? 私に関係のあることか娘に関係のあることかのどちらかではないかと思うのだが」

 というと、

「かしこまりました。さっそく調査してみます」

 と言って弁護士に調べさせた。

 過去の憂いはハッキリさせておこうという考えである。

――どうせ過去のことであっても、それはすべて罪になってはいないことだ――

 という思いが社長にはあったので、内心は安心していたことだろう。

 しかし、この男は罪でなければ、何も問題がないとでもいいたいのだろうか。逆に罪に問われても仕方のないことが罪に問われなければ、被害者側が怒りの矛先をどこに向けていいのかという理論を忘れている。

 本当は逆であるはずなのに……。

 Sの日の安藤社長は結構早めに床についた。先日からの娘が襲われたことから、心身共に疲れていたのを、自分では大したことがないと思って見過ごしていたのも理由だっただろう。見舞いには毎日のように出かけた。社長なので、出張や会議、さらに夜の会合と、本当であればかなり多忙であるはずなのだが、出張はしばらく延期し、会議もできるだけ必要なものだけ、そして夜の会合もよほどでなければ自粛していた。避暑にスケジュールを練り直してもらい、できるだけ病院に行ける時間を作った。

 最初の頃は集中治療室にいて、意識も戻っていなかったが、目の中に入れても痛くないと思っていた娘なので、

「そんなに毎日いかなくても、意識が戻りさえすれば、お知らせがあります」

 と言って連絡を待てばいいという提案を奥さんもしていたが、

「いや、私が行ってあげることが大切なのだ」

 と言って、頑として聞かなかったという。

 実際にこんなに子煩悩な人が、どうしてセクハラ、パワハラなどの行為が公然と行われるのか不思議で仕方がないが、やはり自分の子供というのは、他の問題だということなのだろう。

 三日目には目を覚ました娘は、若干の記憶は失っていたが、生活には支障ない程度であった。さすがにショックと胸を刺されていることでの手術を行ったことから、最低でも一月の入院は必要ということで、入院期間は長いのだが、命に別状もなく、記憶以外の後遺症も残らないということなので、一安心だった。

 記憶にしても、

「いずれ戻らないとも限らないが……」

 ということも医者は言っていた。

 娘のことも大体安心だということが分かると、今までの心労が一度に襲ってきたのだろう。それまでの仕事での張り詰めた気持ちも一気にほどけ、脱力感が襲ってきたのだった。

 その脱力感が、そのまま睡魔として襲ってきたのも無理もないこと。夜八時に帰宅してから、すぐに夕食も摂らずに、布団の中に入り込んだ。

 いつもであれば、軽い睡眠剤でも飲まないと気が張っていて眠れなかったが、ベッドに潜り込むや否や、そのまま一気に眠り込んでしまった。

 その日はハッキリと夢を見た。ただ、夢を見ている瞬間、見ている本人は、

――これは夢だ――

 という認識はあった。

 しかし、認識はあったが、その夢が初めて感じたものではないことを意識はしていた。もちろん、前に感じたことであるから、夢に出てきたのだろうが、夢だと感じたのはそういう理屈からではなく、実際に夢を見ているということを本人が感じていたということである。

 そこは、真っ暗な世界だった。身体を伸ばそうとしてもそこから出ることはできない。必死になって叫んだ。

「誰か助けて。僕はここにいるよ」

 とかなり大きな声を立てているのに、その場所から声が漏れることはない。むしろまわりの暗闇にその声が吸収され、消滅していくようだった。

 どんなに叩いてもどうしようもない。そう思うと頭に、「死」の一文字が浮かんできた。そこから出られないと、何も食べることができない。水もない。そして何よりも空気がなくなって、次第に窒息してしまうだろう。

 その時、自分は子供だった。

「そうだ、あの時、初めて鬼ごっこというのをしたんだった。友達と遊んだのも初めてで、嬉しかったはずなのに、何か白い箱の中に逃げ込んだ。僕が動いていたら、いきなり扉が閉じたんだった」

 今は大人である。あの時のことを思い出しながら、子供では思い浮かばなかった思いがさらに回想の形でなぜか浮かんでくるのだ。

「何が怖いと言って、動かすことのできない狭さへの恐怖、まわりが見えないことの暗さへの恐怖、そして襲ってくる空腹感、喉の渇き、さらに呼吸困難……。想像するだけで恐怖のオンパレードが順を追って迫ってくるのだ。ここまでは子供の僕にも理解できたはずだったが、それらの恐怖はすぐにやってくるわけではない。徐々に徐々に襲ってくる。ないが怖いと言って、これほど怖いものはないのだ」

 ああ、かつてこの街にあった過去の事件、いわゆる、

「冷蔵庫事件」

 で中に閉じ込められたのは、この時の少年だったのだ。

 今ではある程度まで回復していたが、実はあの時のトラウマがずっと残っていた。それは今回想した中にあった。

「暗所恐怖症」

 であり、

「閉所恐怖症」

 なのだ。

 そのことを知っている人はいないはずだった。だが、その時のトラウマが安藤社長を何かに駆り立てるのかも知れない。それがいわゆるセクハラ、パワハラに繋がっているのではないかと最近になって思うようになった。今では、トラウマがほとんど治まってきたこともあって、問題は起こしていない。鎌倉探偵がいくら過去の問題を指摘したとしても、そのほとんどは会社の顧問弁護士がうまくやってくれて、相手とは平穏に示談が成立しているはずだった。いわゆる、

「金で解決」

 したのだった。

 だから、いまさらそれを探ってみたところで何もない。ただ、それが娘への危害に繋がっているとすれば話は別だが、娘に危害が加わるほどの卑劣なことをした覚えもなかったので、いくら逆恨みであっても、そこまではないだろうというのが、安藤社長の言い分であった。

 だが、安藤社長には、

――このことだけは、墓場まで持っていこう――

 と思っていることがあった。

 あれは、まだ未成年の頃のことだったので、相手との示談が成立した時でも、こちらが誰なのか分からないはずだと思っていた。

 あの時は養子にしてくれた父親のおかげで示談が成立した。名前を変えることになったのもその時の事情があったからだ。名前を変えることで、養子ではなく、最初から安藤家の息子だったかのようにする目的だったのかも知れない。もし何かがあって問題が生じた時。息子ということにしておく方が、養子にするよりもよかったのかも知れない。

 じゃあ、なぜそんな問題な子供を養子にしたのか? それは先代でないと分からない。

 ただ、先代には前にいた子供が病死したことで、後継ぎがいなくなった。奥さんに子供がその後できればよかったのだろうが、娘はいたが、子供ができなかったことで、先代は焦り始めた。

「どこかで男の子を見つけて養子にでもしないと」

 ということで先代も真剣になって探すようになったが。ふと見つけたのが、今の庄次郎だった。

「死んだ子供にソックリだ」

 きっと成長していれば、こんな子供になっていただろうにという思いがあったのだろう。

 もちろん、彼の中に悪の素質があるなどということは分かっていなかったが、もし先代が彼の中で唯一見つけたいいことといえば、子煩悩なことだったのではないだろうか。子煩悩がいいのかどうか分からないが、先代はそう信じていた。すぐに娘との結婚を前提に養子として迎える準備を勧め、今の安藤社長が誕生したというわけだ。

 しかし、事件は庄次郎が、先代に見込まれ、これから安藤家に入るかどうかという時に起こった。庄次郎の中にあるトラウマの一つが、マックスの状態になり、破裂までの秒読みだったのだろう。

――しかし、あの事件は誰にも知られないはず――

 という思いがある安藤社長は、その日の睡眠は、その思いが頭を巡った瞬間、目を覚ますということになった。

「よかった目が覚めた」

 社長にとっては怖い夢だったはずだ。

 身体中に汗が吹き出し、喉もカラカラだった。いい夢であろうが、悪い夢であろうが、肝心なところで目を覚ますというのが、夢を見るということの宿命のようなものだと思っていたのだ。

 ただ、よかったと思った中に、社長が忘れてしまっていた過去がよみがえってきた。それは一生後悔してもどうなるものでもない自戒であって、それを戒めることができるのも自分しかいない。

 それを本人は忘れてしまっていた。きっとどこかで、

「もう禊は終わった」

 と思い込む瞬間があったのかも知れない。

 それゆえに、余計に隠そうとしてセクハラ、パワハラに及んだのではないだろうか。隠す相手は誰でもなく自分に対してである。

 反省しても反省しきれないところまで行ってしまうと、その次は破裂してしまった神経がマヒするという一種の「負のスパイラル」のようなものだったのかも知れない。

 さらに、あの時の出来事は言い訳ではないが、かつての冷蔵庫の中に閉じ込められたという恐怖とトラウマによって形成された、

「作られた性質」

 だったのかも知れない。

 これは性格ではなく性質であり、潜在意識に同化したものではないかと思うほどであった。

 その作られた性質は、閉所と暗所の恐怖を与え続け、自分が欲望にのみ走った時、この二つが自分の中で、

「悪魔の囁き」

 のような作用をしていたのだとすれば、それも仕方のないことだ。

 仕方のないことで解決できないことも、何を言ってもいいわけでしかないことは分かっているつもりだ、だが、繰り返される負のスパイラルをどうすることもできない自分をどれほど呪ったことか。そのうち、自分に返ってくることもあるのではないかと思っていたそんな時に起こったのが、今度のななみの事件であった。

「親の因果が子に報い」

 という言葉もあるが、それではどうすればよかったというのだ。

 せっかくななみに対してだけは子煩悩で、そこだけは自分でもいじらしいと思うほどのものである。

 安藤社長が自己を振り返っているその次の日、さっそく鎌倉探偵による事件の調査が行われた。実際には誰もしなかったのだから、この事件はこれで終わりだと思われ、あとは捜査を進めることで犯人を見つけるだけだと目されていた。

 実際に警察の捜査も、この事件は単純な事件であり、通り魔によるものか、それとも誰かの怨恨としても、その恨みを持っている人はすぐに見つかると楽観的であった。一度殺し損ねた相手を、またさらに狙うというのは、相当な恨みを持っているか、あるいは犯人にとって不利な証拠や証言を彼女によってもたらされるかでもない限り、ありえないというのが警察の見解だった。

 確かに表に出ている事情から考えればそうであろう。特に警察は怨恨としても、被害者に関係することしか調べないという通り一辺倒な捜査になるだろう。そうなると、見えてくるものも見えてこず、最終的に迷宮入りなどということも考えられた。

 しかしそれを打ち破ったのは、今回も鎌倉探偵だった。

 鎌倉探偵は、ある程度の捜査を終えて、門倉刑事を事務所に招いたのだった。鎌倉探偵が自分から警察に来ることもなく、門倉刑事を一人だけ事務所に招く時というのは、大体の捜査が終了し、彼の頭の中で真相がある程度完成されている状態ではないとないことだった。

 それだけに、鎌倉探偵から、

「うちの事務所に来てくれないか」

 と言われた時、さっと自分の中で緊張が走ったのを感じた門倉刑事は、背筋を伸ばして、いや覚悟を決めて鎌倉探偵事務所を訪れたのだ。

 鎌倉探偵が門倉刑事をそれほど信用しているかがこれだけでも分かるというものだ。一緒に他の捜査員を誰も招かないというのも鎌倉探偵のやり方で、話の途中で変な形で腰を折られるのが嫌な鎌倉探偵は、阿吽の呼吸を持った相手でないと、真相を明かさないようになっていた。

 そのことを捜査課長も分かっているので、

「鎌倉さんの事務所に行ってきます」

 という門倉刑事を、

「探偵さんによろしく」

 と言って送り出し、事件の解決が近いことを悟るのだった。

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