第8話 凶行
その日の教室が終わってからは、皆いつものように各々の家に帰っていった。美佐子も落ち着きを取り戻し、詩織に対して、
「ごめんなさいね。せっかくの最後だったのに」
と言って、まだ顔は青かったが、何とか冷静さを取り戻したようで、ほっと一息の詩織だった。
詩織は先ほどの写真を貰って帰っていた。最後は不本意であったが、その写真をよく見ると、何とそこには自分の姿が映っていない。
「どこに行ったの?」
と思ってみると、
「なんだ」
と自分を見つけてホッとしたのだが、その自分の姿も中途半端で、顔から上しか出ていなかった。それは、美佐子さんの影に隠れて、腰のあたりに顔が浮かんでいるというような感じだった。
だが、詩織はふっと思った。
「私は、こんなところにいたかしら?」
確か写真を撮った時は、もう少し中央にいたような気がしたのだった。
しかし考えてみると、それは自分の勘違いで、シャッターチャンスをを自分で勘違いしたのかも知れないと感じた。
そもそも皆和気あいあいとしているところをいきなりシャッターを切られたようなものである。ただ、気になったのは、皆最後の瞬間は、カメラに正対し、まるで修学旅行の集合写真のごとく、キチンとしていやはずだった。それがなぜこんな羽目を外した写真になったのか、感がられることは一つである。
「シャッターチャンスは二回あったんだ」
というものだった。
被写体側がシャッターチャンスだと思っていたのは、実はもう一枚の方で、主催者が面白がって、こちらをシャッターチャンスとして渡したのではニアかということである。
となると、一つ疑問が残る、
「なぜ、もう一方で「はダメだったのか?」
という疑問だ。
明らかにポーズを決めていたのは、もう一枚だったはず、しかもシャッターの音も聞こえたではないか。それを使わなかったということは、何か都合の悪いものでも写っていたのだろうか? 心霊写真的な何かである。
あるいは、写してはいけない人を写してしまった。そういう考えも出てくるというものだ。
そう考えれば、何となく辻褄は合うし、そう考えなければ、こちらとしても納得がいかない。
写してはいけないものなのか、そこに写っていてはいけないものなのか、どちらにしても恐怖を感じる。
――そういえば、あの時の美佐子さんの態度、このことに何かかかわりがあるのかしら?
と思うと、背筋が寒くなり、ゾクッとするものを感じた。
詩織はそんなことを考えながら帰っていた。いつも通る背の高い人なら頭をこするのではないかと思うような低いガードレールを通り越すと、少し寂しい道に入ってくる。
今まで詩織はその道を歩いていて、怖いと感じたことはなかったが、先ほどの写真の一件といい、いくら皆と仲が良くなかったとはいえ、せっかくの教室を今日で卒業しなければいけないという一抹も寂しさのため、少し心細くなっていたのだろう。普段感じたことのない恐怖のようなものを感じた。
それは普段意識することのない足元を見ながら歩いたからかも知れない。
足元からは、当たり前のことであるが、自分の影が伸びていた。こんなにも細長い影を見たことはなかった。しかも、その影は一つではなく、足の先を中心に放射状にいくつも存在した。
そして歩いていくごとに、その影はがグルグル回っているのだ。街灯による悪戯なのはすぐに分かったが、今まで見たこともない光景を見せられると、その場所が本当に恐ろしい場所であるということを再認識した気がする。
「痴漢に注意!」
などという看板に、コミカルではあるが、ニヤけた変態音とが写っていて、その向こうから制服警官が追いかけてくる。そして手前には座り込んで泣いている女の子。いくらコミカルとはいえ、リアルなマンガだった。
そんな道を歩いていると、その先には、小さな空き地があり、そこから人が走り去った気がした。
「何だろう?」
と思って歩いていくと、今度はバイクの音が聞こえてきた。目の前を走り去ったように見えて、急カーブになっている道を曲がっていくと、エンジン音が急に小さくなり、どうやら止まったようだった。
そちらの方に入ると、そこには人だかりができていた。
「何かあったんですか?」
と聞いてみた。
道のそばには真っ赤に光って、眩しい光が交互に襲ってくるのを感じると、それがパトランプであるのは一目瞭然だった。それが救急車によるものなのかパトかーによるものなのか、すぐには判断できなかったが、白衣に身を包んで、ヘルメットをかぶった人たちがテキパキと担架を出して運んでいるのが見えた。救急車が人を運ぶのだから、少なくとも死んでいないのは分かった。
「死人は救急車では運ばないからね」
ということだった。
もし、死んでいるのであれば、警察が現場検証を終わるまで動かすはずがないからである。
救急車に運ばれる人の顔がチラッと見えた。
「あれ? あれって、ななみちゃんじゃないかしら?」
と思わず声に出してしまった。
さっきまで一緒にいたはずのななみだったが、確か用があると言って帰ったはずだということを覚えていた。それにしても、さっきまで一緒にいた人がなぜこんなところで救急車に運ばれる羽目になったというのだろう?
詩織の隣にいた人が詩織の今の言葉を聞いて、
「あの人をご存じなんですか?」
と訊ねてきた。
「ええ、同じ料理教室に通っていて、さっきまで、そうですね、一時間くらい前まで一緒だったんですよ。ところで彼女どうしたんですか?」
と、今度は詩織の方が聞きなおした。
すると、相手から返ってきた言葉はとても意外で、にわかには信じられないものだったのだ。
「彼女、ここで誰かに刺されたんですよ。詳しいことは私にも分かりませんが、とりあえず救急搬送されるということで、もう少ししたら警察が来るということです」
「じゃあ、まだ警察も来ていないということは、本当に今のことだったんですね?」
と聞くと、
「ええ、我々は、さっきまでそこのスナックでちょうど常連同士の慰安会のようなものをやっていて、途中で一人酔ってしまって、酔い覚ましに表に出た時、オンナの悲鳴が聞こえたって、そいつが急いで戻ってきたんです。僕たちは皆、そいつがまだ酔いが冷めていないだけだと思ってからかったんですが、彼の様子が尋常ではないので、来てみたら、この通り、胸を刺されたようで、うずくまって唸っていたというわけです」
事情はそれで分かったが、そういう話をしていると警察が来て、警察の本格的な捜査は始まった。
「そうですか、オートバイの走り去る音ですね。その相手を見ましたか?」
「暗いし、ヘルメットをかぶってますからね。見えなかったです」
とバイクの話が飛び込んできたが、詩織はさっきのバイクの音を思い出していた。
さて、詩織は後から来たので、普通なら何も事情聴取を受けることはないのだが、何しろ被害者とは顔見知りということで、一応の事情聴取を受けた。詩織もななみのことは知ってはいたが、あくまでも知っているというだけで、事件に関係することは何もなかった。
ただ、バイクがここから走ってきたのを見たということは証言したが、それは事件が起こって少ししてからのことで、しかも野次馬連中は気付かなかった。どうして気付かなかったのか、この事件では重要なことであったが、その時そのことを気にする人は、警察の中には誰もいなかった。
被害者のななみは、そのまま緊急手術となったが、手術は成功し、命には別条ないということだったが、事件のショックか、その時のことは覚えていないようだ。集中治療室から出て、食事も普通に摂れるようになるまでには、まだ一週間はかかるではないかという医者の話だということだった。
警察の捜査もそれなりに行われたが、通り魔の意見が強く、他に何か発見されない限り、通り魔による犯行として、通り魔探しに焦点が絞られるということだった。
そのせいもあってか、捜査陣はそれほど彼女の家庭のことについて調べはしなかったようだ。もっとも、彼女のことを聞きこむ限り、誰かに恨まれたりすることはなかったようだ。もしあるとすれば妬まれることはあるかも知れないが、妬まれるような人も彼女の友達にはいなかった。
もちろん、利一のことも調べられた。だが、彼はその後、明日の出張のために急いで家に帰ったことは分かっている。近くのコンビニに寄った時間、もらったレシートの時間と防犯カメラ、そして彼のマンションの防犯カメラにもしっかり収められていて、アリバイは完璧だった。そんな利一に、
「ななみさんを恨んでいたり、妬んでいたりする人とか誰か思い浮かびませんか?」
と言われたが、そんな相手はいないという。
彼が彼女の身に起こった不幸な出来事を聞いたのは、ななみが襲われたその日だった。携帯電話の履歴から分かったことであって、電話に出ると、ななみの携帯電話番号からなのに、
「もしもし、こちらは警察ですが」
といきなり言われて、面食らってしまった。
だが、勘のいい利一は、
「ななみに何かあったんですか?」
とすぐに返事をしたことで、警察も最初は、彼を怪しいと思ったらしいが、アリバイの正立と動機についてまったく考えられないということから、完全に容疑者から外された。
もちろん、出張は中止して、彼は数日会社に有給届を出して、その間、ななみに付き添っていることにした。
警察も、不審者に襲われたとは思ったが、もし怨恨だったらいけないので、数日は彼女の病室の前に警官を配備することにした。しかし、その間に何かが起こることはなかったので、犯人が諦めたのか、それともやはり通り魔の犯罪なのかのどちらかだと思った。
ただ、あのあたりで通り魔が出たという話は最近は聞かない。確かに看板は掛かっていたが、あれはあくまで注意を喚起するという意味でのものであり、最近増えているからというわけではなかった。実際に看板自体は十年くらい前のもので、最近何かあったというわけではないようだ。
警察の捜査も行き詰っていた。何しろ誰に聞いてもななみを恨んでいる人はいないという。これ以上は警察も捜査を続行するのは難しいと思えた。
ただ、一人彼女のことが気になっているのは、利一だった。彼はいつもであれば送っていくのに、その日は明日の出張が頭にあって、一人で帰らせえてしまったことを後悔していた。
「もう少し捜査を」
という意見を、警察が採用してくれるはずもなく、引き下がるしかないのかと思っていたところに、ちょうど捜査を担当していた門倉刑事が、
「そんなに気になるなら、鎌倉探偵を訪ねてみればいい。捜査を引き受けてくれるかどうか分からないけど、気になるならそれもいいかも?」
と言ってくれた。
利一はさっそく鎌倉探偵を訪ねてみることにした。
利一から一通りの話を聞いた鎌倉探偵は、それなりに興味を示したようだ。
「今君から聞いた話以外にも、この事件は、何か裏があるような気がするんだ。誰にも恨まれているはずのないという彼女が襲われたというのも気になるし、犯人は相手を本当に殺すつもりだったのかどうかも疑問なんだ。胸の刺し方などを聞いていると、どうも殺害目的のようにも思えるが、そのわりには完全に急所を外れているという。これは計画的なものではなく、突発的に起こったことではないのかな?」
と鎌倉探偵がいうと、
「じゃあ、警察のいう通り、通り魔のような事件ですか?」
と利一が聞くと、
「それこそ違うと思う。通り魔だったら、もっとしっかりやってるさ。少なくとも相手を生かしておくようなことはしない。もっとも通り魔にも種類があって、愉快犯などの場合はこれに限らずだが、本当に殺そうとはしないだろうけどね。でも計画的な犯罪ではないことは確かだ。そうなると、通り魔というのはおかしい。通り魔はちゃんと相手を選んで刺すはずだからね」
と鎌倉探偵は、最後に利一にとって意味不明ないい方をした。
「じゃあ、誰かに間違えられた?」
「それはあるかも知れませんが、彼女は見てはいけないものを見てしまったのかも知れませんね。ただ、なぜそこにいたのかというのも、もう一つ疑問として残るわけですけどね」
と、鎌倉探偵は首を傾げながら言った。自分でも頭の中を整理しかねているようだった。
それでも彼の推理は捉えるところは捉えていた。それも探偵としても目がしっかりしているからだろうか。
鎌倉探偵は、警察があまり重要視していなかった、ななみの家族を探っているようだった。ななみの父親が元々大財閥の家系で、ただ父親は養子だったということも突き止めていた。
さらにビックリしたことに、父親である社長には社内でもいろいろな誹謗中傷があったということも把握していた。
相手が警察であれば、なかなか口を開こうとしない社員であっても、探偵だということを言ったり、食事をご馳走になったりすると、
「私から聞いたなんて言わないでくださいよ」
と言いながら、簡単に話してくれた。
それだけ会社に対しての愛がないということも言えるし、社長もその器として見られていなかったということも言えるだろう。
社員は、社長に対して不満こそあれ、尊敬などは決してしていなかった。そして一番社長で胡散臭いウワサを聞いたのは、セクハラの問題だった。
その時、ちょうど掃除婦の話も出た。それが美佐子であったのは周知のことだが、美佐子がななみの料理教室に通っていることもすぐに突き止めることができた。
「ただの偶然なんだろうか?」
と、鎌倉探偵は思ったので、この疑問を直接社長に訊ねてみることにした。
ただ、彼女の名誉と安全のために、彼女の名前や現在の情報は一切明かさないということは、探偵としてのモラルである守秘義務に沿うことなので、いまさら言うまでのこともない。
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