第7話 記念撮影
料理教室が終わると、いつも一緒にいる利一は、
「ごめん、明日朝一番で出張なんだ。今日はこのまま帰る」
と言って引き揚げていった。
ななみの方も、
「いいのよ。明日出張なのに、今日のお料理教室に付き合ってくれて、本当に嬉しいわ」
と言って、彼の気持ちをねぎらった。
「いやいや、僕もなるべくなら、ななみと同じ時間を一緒に過ごしたいからね」
とありがたいセリフを言ってくれる。
それがななみにとっての一番の癒しであり、安堵の時間でもあった。その日の料理教室ではちょっとした事件があった。新たな生徒が入ってきたり、誰かが卒業する時は、その日の講習が始まる前に、必ず記念写真を撮るようにしている。記念写真を撮ると、デジカメに収められた写真は、それぞれの携帯やスマホに送信される。もし、どちらも持っていない人には、カラー印刷でもらえるようになっていた。
もちろん、両方を希望する人にはプリントもしてくれるというサービスだった。
ただ、ななみはその日、急に用ができたということで、早めに教室を出た。その時に一緒に帰ってくれたのが、利一だった。
その日は、一人の女性の生徒が転勤になったということで、仕方のない卒業ということになったのだが、そのことはその日が来るまで、教室側以外は誰も知らなかった。
生徒も皆寝耳に水だったようで、
「どうして言ってくれなかったの?」
と口々にそういって彼女を問い詰めた。
「ごめんなさい」
というだけだったが、普段から彼女は物静かで、いるかいないか分からないような存在だった。
だから、皆口では、
「そうして言ってくれなかったの?」
と言ってはいるが、言ってもらったとしても、形式的な返事しかできないことは分かり切っていたことだった。
つまり、彼女はいてもいなくても、どうでもいいとほとんどの人が思っていた。
彼女の名前は、佐久間詩織というが、そんな彼女のことを機に掛けている男性もいた。彼は名前を川口といい、詩織のいるかいないかという存在を、清楚な雰囲気で、逆に自分には彼女しか見えていないとすら感じていた。
もっとも川口という男性は、誰でもが好きになるような人は却って苦手で、逆に誰も気にしないような、いわゆるどこにでもいるような女の子の方が気になってしまう性格だった。
彼はそれを、自分に自信がないからだと思っているようだが、実はそうではない。それが彼の、
「人を見る目」
であり、人それぞれだということの証明でもあるのだ。
彼にはまだそのことが分かっていないのだが、それでも彼女を意識してたまらない気持ちになることがある時、
――俺は彼女のことが好きなんだ――
と思っていた。
その思いは間違いのないもので、自分で思い込んだことは、間違いなくその人の本心である。危険な発想なのかも知れないが、それを認めたくない人に限って、その思いが自分の中の呪縛になっていることもあるだろう。
川口は、詩織と話をしたことがなかった。詩織自身がほとんど誰とも会話をしないのだから当然と言えば当然だが、さすがに最後の日くらいは、何かを話さなければいけないと感じていた。
しかし、心の中のもう一人の自分が自分に語り掛ける。
「今まで話もできなかったくせに、いまさらできるわけはないだろう。それにどうせ今日で終わりなんじゃないか。もし仲良くなったとしても、どうするんだ? 確かに遠距離恋愛という手もあるが、お前たちの性格で、それがうまく行くとでも思っているのか?」
という、いわゆる
「悪魔の囁き」
が聞こえてくるようだ。
とは言って、この囁きは本当のことであった。何しろ語っているのは自分自身なのだから、自分の潜在意識にあることに違いない。潜在意識にあって、それを認めたくないという意識から、自分の中での葛藤が始まる。
葛藤するには必ず相手が必要だ。その相手を求めたことから生まれたもう一人の自分。そう考えていくと、
――あれ?
とふと感じてしまう。
また同じところへ帰ってきたではないか。つまり負のスパイラルのように、ループしているということか? そのループは本末転倒であり、それでも理屈に合っているから厄介だ。
川口は、自分のことを、
「いつも何かを考えている」
と感じていた。
それは、他の人から見れば、
「あいつは何も考えていない」
と見えるか、
「一体何を考えているんだ?」
と思われるかのどちらかであった。
つまり、心ここにあらずと言った雰囲気を醸し出していて、要するに何を考えているのか分からないという思いをまわりに与え、しかもふと我に返った自分も何を考えていたのか覚えていないというような、妄想の世界に入っていることが多かった。
だが、最近はその妄想の正体が分かってきたような気がする。
――俺は、もう一人の自分を会話しているんだ――
という思いである。
「もう一人の自分」
これをどうとらえるかというのも難しい。
いつも自分のことを分かっていると豪語する人もいるが、本当に分かっているのか怪しいと感じることもある。その理由は、
「そんな人に限って、もう一人の自分の存在に気付いていないんだ」
と思うからだった。
普段からいつも何かを考えているように見えているのは、もう一人の自分と会話をしているからだと思っていると、もう一人の自分を信じていない人は、普段は何も考えていないのではないかという発想になるだろう。
そんな人が自分のことを分かっていると言っても、表に出ている自分を分かっているだけであって。それは他の人とレベルが同じではないかと思うのだ。つまり表面上しか見えていないので、それは自分を客観的にしか見ることができない人だということになる。
確かに自分を客観的に見るというのは必要なことだが、主観的に見ることができての客観的なのではないだろうか。
「自分のことも分からないやつが、他人のことなど分かるはずはない」
と言われるが、まさにその通りであろう。
そういう意味で、グループの輪の中心にいる人は、自分を客観的に見ることもできるが、主観的に見れる人なのであろう。輪から離れている人は、自分を主観的に見ることもできるが、客観的に見れる人ではないだろうか。その違いではないかと思っている。
一番厄介なのは、輪の中心でもなければ、離れているわけでもない。いわゆる、
「腰巾着」
のような連中ではないだろうか。
そんな連中は、自分を客観的に見ているつもりで、実は主観的に見ているために、自分を見失っているのではないか。
だから腰巾着になるのであって、自主性もなければ、相手にすべてを委ねることもしない。
最初に決まったことを後になって覆そうとする人というのは、こういう腰巾着の人ではないだろうか。
川口は、それでもその日、何とか詩織と話ができるようになりたいと思っていた。もちろん、これが最後になる可能性が限りなく高いわけだが、
「彼女を正面から見つめてみたい」
という気持ちが強いのも事実だった。
――彼女は、僕の視線をどう思うだろう? 気持ち悪いと思うか、それともまっすぐにその真剣な眼差しを向けてくれるのだろうか?
想像することも、最初は悪いことである。
本当にネガティブな性格だった。
だが、詩織も同じような雰囲気であるが、決してネガティブではなかった。むしろ、妄想、想像という意味ではポジティブと言ってもいいのかも知れない。今まで彼女が人と話をしなかったのは、自分の中の自分と素直になって話ができたからだ。自分の中のもう一人の自分は、決して詩織のことを否定しようとはしない。川口のような、
「悪魔の囁き」
が聞かれることはなかった。
詩織は、メルヘンを夢見る女の子で、料理教室に通うようになったのは、これから現れる「白馬の王子様」が現れても、困ることがないようにだった。
他の女性のほとんどは、
「白馬の王子様を探そう」
という露骨といえば露骨な発想であった。
だが、これもポジティブという意味でいけば、決して悪いことではない。むしろいいことなのかも知れない。
詩織は最初から、
「白馬の王子は必ず現れる」
という、
「王子様ありき」
だったのだ。
詩織はそんな状態の自分が普通だと思っていた。
これから好きな人を探すという発想ではなく、自分を好きになってくれる人を待っているという感じなのだ。
他の女性から見れば、
「何、気取ってるのよ」
と言われることだろうが、詩織はそれを普通だと思っているので、まわりがどう思おうが彼女には関係のないことだった、
だから、詩織は自分がまわりの人とかかわりを持たないことを悪いことだとは思っていない。なぜなら、
「私には私の目的があるから」
というのがその理由だった。
料理教室という団体ではあるが、実際には個人レッスンでもいいくらいのものにも思える。もちろん、友達を作るであったり、恋人を探すという一種の見合い間隔での参加も多いのだろうが、純粋に料理を習うということであれば、花嫁修業としてのものとして、別に他人と仲良くする必要もない。中には結婚が決まっていての花嫁修業という人もいるだろう。
いや、それが一般的なのかも知れない。
そう思うと、詩織の方が料理教室の本来の生徒であって、他の人は目的の違う、一種の邪道だと言ってしまうのは、乱暴であろうか。
もし、詩織や川口に偏見を持っている人がいるとすれば、それは絶対に違う理屈であって、それを分かっていないと、団体としてはうまく行かないような気がしていた。
だが、兎にも角にも、詩織の転勤は決まってしまったので、いやが上にもこの教室を卒業しなければいけないのは事実である。
この日は、思ったよりも時間が早く過ぎたような気がした。それはこの日この教室にいたすべての人々が感じたことで、先生もその一人だった。
どうして皆早く感じたのか、それは人それぞれであろうが、詩織は、さすがに卒業する本人なので、
「今日が最後なんだ」
と思うと、感無量になったとしても、それは無理もないことだろう。
川口もそんな詩織を距離を置いて見ていた。近づきすぎないように注意をしたのは、詩織に自分が意識していることを感づかれたくなかったからで、きっと今日は彼女が感傷的になっているだろうから、そんな時は神経が敏感になっているということは、川口にも分かっていた。
「記念撮影か」
まだ時間も半ばの時に、すでにラストの時間帯を想像していたのだから、それは時間が経つのが早くて当然というものだ。
そわそわしているのは、川口だけだった。他の人は詩織が今日で最後というのを意識しているのかしていないのか定かではないが、雰囲気としては、
「どこ吹く風」
であった。
もし、川口も自分が詩織を意識していなければ、同じような気持ちだったのではと思うと、何か罪悪感のようなものがあった。その思いは、複雑な心境であり、その他大勢の心境だったのだということは分かっていた。
川口は、自分が人と同じでは嫌だと普段から思っていることを分かっているが、同じであっても嫌ではない人がいるということを意識したことがなかった。これだけ好きになった詩織に対しても、そんな感情を抱いたことはない。逆に、
――自分とは違う人なんだ――
と思っていた。
だからこそ好きになったのであってお互いに足らないところを補って、そして癒しあえるような関係が一番なのだと思っている。
それはその後の川口の人生でも変わることはないのだが、その時ふと、詩織に対して、
――この人は俺と同じではないか?
とも思うようになった。
そもそも何を持って同じだというのかというのも疑問である。
考え方が同じという意味? それとも性格が同じということ?
考え方が同じであっても、性格が同じだとは限らない。性格が同じであっても、考え方が同じだとは限らない。むしろ、この二つは似てはいるが、相反するものではないかとも思えてきた。
別に何か根拠があるわけではないか、川口は自分が今まで生きてきた中で感じたことだった。
では、彼の、
「人と同じでは嫌だ」
というのは、性格のことだろうか、それとも考え方なのだろうか?
川口はそれを自分では、両方だと思っている。
どちらが強いかと聞かれると、しばらく考えてしまうだろうが、結論は決まっていた。
「性格の方だ」
と答えるだろう、
性格が違っても考え方が同じであれば、歩み寄れるという考えである。考え方が同じ方が確かに、その時点での距離は近いだろう。しかし、近いからと言って、相手のことがよく見えたりするわけではない。却って近すぎると見えるものも見えてこない。その証拠が全体を見渡すことができないからだと、川口は感じていた。
詩織とは、実は性格も違えば、考え方も違う。最初に気付いたのは性格の違いだった。それは当たり前のことで、性格というのは隠そうとしても滲み出るもので、他人であればあるほど、相手の性格が見えるものだ。しかし考え方というのは、口に出さなければなかなか伝わるものではない。よほどその人を注意深く見ていないと分からないことであり、絶えず見ていることはいくら好きな相手でも難しいだろう。特に好きな相手であれば、余計に自分が気にして見ているなどというのを悟られたくはないと思うからだ。
川口は詩織を見ていて、
――俺にとっての反面教師のようなところがあるな――
と思える人であった。
性格が正反対というわけではないが、自分で自分の嫌だと思う性格は、詩織と知り合ってから感じるようになった。ハッキリとした確証のようなものはないのだが、詩織といると自分の悪いところが見えてくる気がするのだ。
本来なら、そんな自分が詩織に近づくなど、滅相もないという思いを抱くのであろうが、相手が詩織だとそんな気分になることはない。一緒にいることが楽しいということを素直に感じればいいだけだと思うようになったのも、やはり詩織と一緒にいるからだろう。
緊張もすれば、自分に度胸がないことも思い知らされるが、詩織と一緒にいることで、幸せな気分になり、自分を見つめなおすことができるということが、何よりも嬉しい限りである。
「この日の記念撮影は、俺にとっての最大の思い出になるだろうな」
と自分に言い聞かせ、さらに、
「思い出」
という言葉を口にした自分が、今何を考えているのか、探ってみたくなったのだ。
――やっぱり別れるというのは嫌だよな――
それが一番の素直な気持ち、誰が何と言おうとも、離れたくないという気持ちにウソはないのだった。
記念撮影の時間は、
――来ないでほしい――
と思えば思うほど、あっという間にやってきた。
それは容赦のないほど静かに、音もなくやってくるのだった。
――冷酷な儀式ほど、こんなものなのかも知れないな――
と、その儀式が天国であっても地獄であっても、綺麗であればあるほど、残酷なものなのかも知れない。
「それでは撮りますよ」
と先生の声。
皆それぞれにポーズを取るのかと思いきや、先生の声とともに、意外と皆真面目に真正面を向いての記念撮影だった。
「これほどつまらないものはない」
これはそんな写真だった。
皆図ったように距離を保っていて、しかも全員が漏れなく入っているはずなのに、その微妙な距離は人間関係を表しているかのようだった。ただ、それは本当の人間関係であろうか、仲のよい人は確かに隣同士になっていたが、その距離まで微妙だったのだ。
下手をすれば、自分とはまったく仲が良いわけではない人との距離と、寸分違わないように映っていたのだが、被写体になっている方がそんなことに気付きもしない。仲良し同士近くにいると思い続けていたのは、そこにいる全員が同じだったのだ。
「はい、チーズ」
と、いうベタなセリフ、もう少し気の利いたものはなかったのかと思ったが、逆にこの写真にはこういうベタなものこそ似合っていると言わんばかりに、実に面白くない構図だったのだ。
「カシャッ」
というシャッターが降りる音がした。
静かだが、どこか微妙な緊張感の中にある矛盾した空間の中で、静寂を切り裂くように切られた音だったが、なぜか皆の耳には小気味よく聞こえたようだ。
その瞬間を持って、緊張の糸はプツンと途切れ、今まで写真を撮るために緊張していたということすら忘れてしまったかのようだった。
「まるで存在していなかったような時間」
そう思えたが、どうしても、なかったことにしたくなかった人間が一人存在したが、それがまさしく川口であったことは言うまでもないだろう。
川口は、しっかりと今の状況を自分でも解説ができるほどに記憶している。その中にはいくつもの奇怪なことや、矛盾が含まれていたのを意識していたが、
――どうせ、この中でこの時間を意識しているのは僕だけだ――
と思っていたので、誰も余計なことを感じることがないことは分かっていた。
それは主役であるはずの詩織にも言えることであり、むしろ詩織にとっては、この時間すら消し去りたい気持ちだったのかも知れない。
それほど、この儀式が終わった後、皆が解放されたかのように身体を伸ばしたり、安堵の表情を浮かべたのを見ると、ますますこの時間を抹殺してしまいたいと思う詩織なのだった。
詩織は皆のことが嫌いだというわけではないが、好きにはなれない。下手をすれば嫌いな方がまだマシで、その自分の秘めたる気持ちをまったく表に出さないことがどれほど恐ろしいことなのか分かっていないのだった。
詩織という女性は、まわりに存在感を意識させない人だった。見えているのに、その存在を意識させない、まるで石ころのようではないか。
詩織は女性としては平凡な顔立ちで、どこにでもいるというような雰囲気なのだが、一番の理由は表情にあった。
彼女の表情は、無表情というには少し違っているような気がする。ポーカーフェイスではあるが、確かに表情は存在している。しかし、その表情が人に記憶にまったく残らないものだった。
引っ越していき、彼女を一週間も見なければ、ほぼ皆その顔を忘れてしまうだろうというほどのもので、道端で会っても、誰も気づかないように感じられた。
さらに、今回の記念撮影も、少し経ってから見たとして、
「この真ん中の人、誰だっけ?」
というような信じられない結果になってしまうのではないかと思うほど、印象に残らない女性だったのだ。
それだけに、その思いすべてを一人で吸収してしまったのではないかと思えるのが、川口だったのだ。
川口以外の人は、その記念撮影をした写真など、ほしいと思わないだろう。それは詩織にしてもそうかも知れない。川口青年が、詩織を意識すればするほど、詩織の方はそれに反して、何事に対しても感情を薄れさせる作用と持っているのではないかと思わせるほどだった。
詩織は川口青年が自分のことを意識していることは分かっていた、分かっていてわざと分からないふりをしていたと言ってもいい、それは彼に対しての挑戦というよりも自分に対しての挑戦であった。
挑戦という言葉が乱暴であれば、試していると言った方がいいかも知れない。それは自分で分かっている、
「人の影響を受けてしまう」
という性質のことだった。
これは性格ではない、性質である。人の影響を受けてしまうと自分で理解できたのも、性格ではなく性質であるということを自分なりに理解しているからであろう。
確かにすぐに人の影響を受けてしまうという人は案外少なくないかも知れない。しかし、ここで誤解のないように言っておくが、人の影響を受けやすいというのは、人の命令を忠実に聞くと言ったような、まるで「しもべ:のようなものではない。しもべというのは、自分の意志で、あるいは脅迫をされて否応なしに従わされている場合などをいうのだが、ここでいう人の影響を受けるというのは、本人にその意識がない場合が多いということだけは言っておこう。だが、この時の詩織の場合は、自分でも分かっていることではあったのだ。
詩織という女性は、ハッキリ言うと、
「よく分からない女性」
ということだった。
だから、それを分かっている人は彼女に近づこうとはしない。そばにいても、意識しないのは、詩織の石ころのような性質からというのもあるが、目の前にいる方の人も、意識したくないという思いもあることで、余計に詩織を石ころ以上の意識しない存在に作り上げたのかも知れない。
そういう意味では、詩織という女は実に恐ろしい存在だった。そのことを皆分かっているkら、彼女の無表情に恐ろしさを感じ詩織自身も、それを自分の武器のように感じていた。ただ一人、川口青年を除いてはである。
川口青年は今までに女性を好きになったことがなかった。思春期はちゃんと他の人と同じ中学時代に訪れていたが、どうにも好きになれる女性がいなかった。
だからと言って、彼が朴念仁であったり、女性に興味がないわけでもない。普通の健康的な男子であり、我慢できなくなる時もあったが、そんな時は他の少年同様に、一人で慰めることもあったくらいだ。
ただ、それを川口青年は悪いことだとは思っていない。むしろ健康的な男子なのだから当たり前だと思ったくらいだった。
――そんなことに罪悪感を覚えるくらいなら、普通に女の子を好きになれるさ――
とまるで、開き直ったような感覚を持っていた。
好きななりそうな女の子が現れなかったのは、彼の理想が高かったからであり、それに似合う人がいなかっただけのことだ。
いや、理想が高いというよりも、他の人とは違う理想を持っていたというべきであろうか。
「理想の高低など、誰に分かるというのか。その基準を決めるのは、一体誰だというのだろうか」
と思っていたのだ。
そんな彼のメガネにやっとかなったのが詩織だった。
詩織は彼のそんなおかしな性癖や性質が分かっていたので、決して相手になろうとは思わなかった。しかも、詩織は人の影響を受けやすいタイプなので、そんな変なやつに付きまとわれて、これからの自分を見失ってしまうなどということはしたくないと思った。そういう意味で詩織がこの教室で最も警戒していたのは、実は川口青年だった。
詩織は、引っ越すということを実際には喜んでいた。
――これで川口さんと離れられる――
という思いが手放しの喜びを伝えてくれる。
川口は詩織がそんなことを思っているなどまったく知る由もなかった。川口という男は実際には鈍感であり、まわりの人が、特に自分のことをどのように思っているかなど、まったく気づかない男だった。
そこが詩織とまったく違うところであり、よく分かっている詩織がいつも無表情だったのは、一番には川口青年を警戒していたからだった。
いよいよ記念写真もできあがり、見たい人は見るようにした。
「あれ? これって」
一人が呟いた。
すると近くにいた女性が、
「あら、本当だわ」
と、勝手に二人だけで納得している。
「なんだなんだ?」
と皆が駆け寄ってきて、デジカメの画面を覗いてみた。
「ね、変でしょう?」
というと、皆肩が揺れていて、口元が緩んでいるのを感じた。何かが可笑しくて笑っているのだ。
「どうしたの?」
と覗き込んだのは、主役の詩織だったが、彼女も、
「あっ」
と言って、ちょっと後ろに下がった。その写真には、皆が中途半端に距離を取ってしまったために、一人が半分しか映っていない。しかも、身体が傾いている。
――明らかに誰かがついたんだわ――
と、詩織は気付いた。その身体が切れている人は、美佐子さんだったのだ。
美佐子さんはそれを知らずに、写真を見に来ようとはしない。その場に黙って下を向いていたが。その表情は、何か怒りに震えているようだった。
――おかしいわ。美佐子さんは自分が切れているのを見たわけではないのに、どうしてあんなに震えているのかしら? やはり誰かに突き飛ばされたという意識があったのかしら?
と感じた。
だが、その震えは怒りではなく、何かを怖がって震えているようだった。顔を上げられないのはそのためだった。
「どうしたの?」
詩織は心配して声を掛けた。
詩織にとっては他の人は好きになれなかったが、美佐子だけは何となく気が合いそうな気がしていた。ほとんど話をしたことがなかったのだが、引っ越してしまうことで、そのことが気がかりだった。
――もう少し話しておけばよかった。仲良くなれたと思うのにな――
という思いがあった。
だが、美佐子に声を掛けたのは詩織だけだった、他の人は誰も声を掛けない。
――美佐子さんが怒っていると、皆思っているなのかしら?
というものだった。
美佐子と他の人との確執は、何となく見ていて分かった。美佐子と話が合うのではないかと思ったのも、自分と同じように美佐子も他の人と気が合わないのだろうと思ったからだった。
詩織は人の影響を受けやすいは、実は美佐子にも似たようなところがあるようで、詩織は知らなかったが、美佐子の方ではウスウス気付いていたようだ。本当は美佐子の方も、もっと早くに詩織と話をしておけばよかったと思っている。
詩織は美佐子にデジカメの写真を見せた。見せないと却って中途半端になると思ったからだ。
するとその写真を見た美佐子は、今度は本当に震えが止まらないとばかりにゾクゾクとし始めた。
「どうしてこんな……」
と、何に怯えているというのだろう。
もし誰かに押されたのだとすれば、それは写真を見る前から分かっていたはずだ。そして分かっていたからこそ、最初から震えていたのではないか。
――どうも美佐子さんの態度には矛盾がある――
と、詩織は感じた。
今度は川口が覗き込んだ。
「詩織さん切れてるじゃないか」
と口に出してしまった。
何と無神経な人なのだろうか。他の誰もが可笑しくて笑ってはいるが、決して本人に聞こえないようにしていたのに。こんなやつは確かにグループの中に一人や二人はいるが、子供じゃあるまいし、口に出すなど誰もが信じられなかった。
それを聞いた美佐子はさらに深刻な顔になった。何が彼女をそのように恐怖へと誘うのか、誰にも分からなかったのだ。
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