第6話 社長室

 姉が暴行され自殺した。この事件が公になると、父親はまるで逃げるようにしてこの街を去った。その時、大金を手に入れたというウワサもあった。それがどんなお金なのか分からなかったが、姉のことを忘れてしまったかのようにさっさとこの街を離れて行った父に、絶縁状を叩きつけるかのように母や、美佐子を連れて、父親から離れた。

「これでよかったのよ」

 と、母親はホッとした様子で美佐子に語り掛けたが、美佐子は心の中で、

――お姉ちゃんが死んでしまったのに、これでよかったなんて、どういうことなの?

 と呟いた。

 小学生の美佐子には分からなかったが、一つには姉は母親が自分の腹を痛めて生んだこではないということと、父親からの虐待から逃れることができたことを本気で喜んでいる証拠だった。

 もう少し自分が大人だったら、母の気持ちも分かっただろうが、あの頃はそんな理屈が分かるほどではなかった。しかも、自分だけがなぜか父親に可愛がられていたので、ピンとこなかったのも無理のないことだ。

 しかし、その母親も、しばらくは自分をちゃんと育ててくれたが、美佐子が短大を卒業する頃、勤めていたスナックの常連さんと、駆け落ちのようなことをしたのだった。

 もう年齢的に四十歳に差し掛かろうとしている時だったので、

「いい年をして」

 と思ったが、ひょっとすると、これが最後の恋だとでも思ったのかも知れない。この機会を逃せば、もう二度怒恋愛などできないと思えば、駆け落ちでも何でもするだけの行動力は持っていただろう。

 美佐子としては、ここまで育ててくれたのだから、感謝こそすれ、恨み言はなかった。せっかくだから、

「幸せになってほしい」

 と思うのは、娘としての最後の気持ちだろうと感じていた。

 その頃には美佐子も一人暮らしをするようになっていて、パートしかしていなかったが、一人なら何とかなると思っていた。

 ななみの父親の会社にパートで入るようになったのは、ちょうどそれから三年後くらいのことだった。

 いくつかパートを掛け持ちしていて、この会社での仕事は、掃除婦だった。夜の七時以降くらいから、会社のある事務所の掃除なのだが、残業している人の邪魔をしない程度にゴミを捨てたり、床を掃除したりなどの、派遣のような仕事だった。毎日、もう一人のベテランさんと一緒に入るのだが、仕事は手分けしてするようになった。美佐子は社長室の担当もしていた。

 最初は社長がいない時間帯の掃除だったが、ある日、ちょうど社長が執務中の掃除となった。社長室というのは、思ったよりも広く、奥の窓際に社長が執務する机があり、手前が応接になっていて、五人が座れる椅子が設置されていた。机の上には灰皿が置いてあり、社長が葉巻を吸うのか、葉巻入れが置かれている。まだ室内でタバコを吸っても別に構わない時代だったのだ。

 ある日、社長がちょうど執務している時、美佐子がいつものように入っていった。一応、社長がいるとまずいということで、まずはノックをしてから入ることにしていたので、その日も誰もいないものとしてノックをしたが、思いがけず部屋の仲なら、

「はい」

 という野太い声が返ってきた。

 一瞬、

――どうしよう――

 と思ったが、ノックをしておいて、なしのつぶてでは仕方がない。却って失礼に当たると思い、

「掃除の者でございます。室中でございましたら、あとにいたします。ご迷惑をおかけいたします」

 と形式的な挨拶をして、他のところを先にしようと思って、その場から立ち去ろうとすると、

「おいおい、大丈夫だ。私がいても構わないなら、掃除をしてくれたまえ」

 という声が思いがけずに返ってきた。

 せっかくそうおっしゃってくださっているので、無碍にそれを断るのは却って失礼だと思い、

「それでは失礼します」

 と言って、中に入った。

 ほうかぶりをして掃除の制服にズボンという、男女兼用の服を着ているむさ苦しい掃除婦を、

――社長が相手にするはずなどない――

 という思い込みで、社長と目を合わさないように中に入った。

「では、失礼してお掃除をさせていただきます」

 と言って、腰を曲げたばあさんのような状態で、掃除を始めた。

 社長も最初は自分の執務に一生懸命になっていて、机の上の書類にサインをしたり、印鑑を押したりしていたが、そのうちに美佐子を気にするようになっていた。

 視線を感じた美佐子は、自分が震えているのを感じた。

 その頃の美佐子は男性と一つの部屋に二人霧などなかったことで、しかも、空気の悪さを感じると、

――どこかで感じたことがあるような――

 という思いを抱いて、気が付けば身体を固くして、身構えているのを感じた。

 部屋の中は沈黙だけが流れていて、空気が湿っているのを感じた。湿った空気は却って喉の渇きを誘い、ついつい、ゴクンと無意識に喉が鳴っているのを感じた。

 それだけ喉がカラカラに乾いているのだろうが、それを見ると社長が舌なめずりをしたような錯覚に陥った。

 ビクンとなった美佐子は腰を曲げて首を下に下げ、目線だけがあらぬ方向を向いていたが、本当は怖くて見てはいけないと思っている社長の顔が見てみたくてしょうがなかったのだ。

 これは好奇心などというものではなく、相手の顔がどれほどの狂気に満ちているかを確かめたかった。ただ恐怖だけで震えている自分がどうにもならないことを感じたからだった。

 沈黙が湿気を呼び込み、呼吸が荒くなってくると、その沈黙というのは、人の起こすどんな些細な音でも表すことができるようになるようだ。

 ただ、その音の本当の正体を知る者はいない。知っている者がいれば、その者はその空間を支配できるような大きな力の持ち主ということになる。普通の人間では到底できることではないだろう。

 ただ、この部屋の主である社長は、それをできると思っているのか、会社内で一番の権力を持ち、その社長のいわゆる本丸に乗り込んだようなもので、まるで今の美佐子は、

「まな板の上の鯉」

 と同じではないだろうか。

 この後、社長がどういう行動を取るのか、想像するに値しない。

――私はこのままどうなってしまうのだろう?

 と、すでに決まっていることを考えるのは、余裕がまったくなくなってしまったからではないだろうか。

 ワナワナと震える足を社長は見ながら、ズリズリとすり寄ってくる。その距離は本当にありが歩くほどの距離であるが、確実に近づいているのが分かる。その理由は次第にその吐息がハッキリと聞こえてくるからで、そのせいで、社長がどんどん興奮していっていることに気付いていなかった。

――少しでも左右のどちらかに動こうものなら、社長が飛びついてくる――

 と感じさせる状況で、身動きが取れないのはいいことなのかまったく分からなかった。

 それはただ時間が後ろにずれるというだけで、この社長室に誰かが入ってきて助けてくれるわけではない。皆社長のすることには見て見ぬふりで、完全にワンマンな会社だからだ。ここで騒ぐのはむしろ自分の羞恥をまわりに公表するようなもので、それも嫌だった。

 こんな時、立場の弱い人間は本当に損である。それが金であるか権力であるかの違いだけであって、力というものは、万物に対して有効だと思えてならない。

 社長室で、女子社員が有無も言わさず社長に暴行されるなどというのは、よくある話だった。今でこそ、セクハラ、パワハラなどとコンプライアンスの問題が提起されているが、その頃はやっと問題になるくらいではなかったか。問題になっても揉み消すだけの権力を持っていれば、やつらの常とう手段である、

「金にものを言わせる」

 ということをしてくるのだろう。

 それでもダメな時は、今度は嫌がらせなどを起こして、相手の社会的な立場を地に堕とそうとする。こちらに相手がぐうの音も出ないほどの証拠でもない限り、対策はないだろう。裁判になっても、相手は刑に処せられても軽いものでしかなく、下手な恨みを買うだけになってしまうのも実に不本意だ。

「この後、ずっと復讐に怯えながら生きるか、それともまとまったお金を貰って、早く忘れるか、どっちがいいんだ?」

 と言われて終わりである。

 弁護士を雇ったとしても、結局法律の中だけでしか争うことができず、どうせ泣き寝入りにならないように最低限の保証だけでも得られるようにと動くのが関の山というものである。

 そんな今後の事情が、なぜか恐怖に怯えているはずの頭の中を巡った。

――何か、そんなことを考えたことがかつてあったのかしら?

 とは思ったが、その時は余計なことを考える余裕などなかった。

――ではこの思いは余計なことではなかったということなのか?

 と思ったが、そう思った時にm現実に引き戻された。

――このまま、夢想の世界に入っていればよかったのに――

 とも思ったが、どっちにしても遅かれ早かれ、この場の決着がつくことになるのだ。

「社長、社長はどうして私を追い詰めるんですか?」

 思わず口に出てしまった。

 それを聞いたからと言ってどうだというのだ。この危機から逃れられるというのか。いや、そんなことはない。会話をしている間、少しの間だけ、時間が後ろにずれるだけだ。暴行を企んでいる相手が、いくら説得しようとしても、それは本末転倒というもので、相手はそれを聞いて、逆に興奮する人だったりすると、完全に逆効果だ。

 そんなことは分かっているはずなのに、なぜそんなことが口から出てきたのか。それは美佐子が自分で口にした言葉ではないような気がしたからだ。

――誰かが私の中に乗り移ったということなの?

 それが誰なのか、分かったような気がした。

「君を見ていると、なぜか初めて会ったような気はしないんだ。遠い過去に僕は君を知っていたような気がするんだ。だから、なるべくなら君に逆らわないでほしい」

 何を言っているのか、追い詰めているのは相手のはずなのに、相手のこの気の弱そうな言葉を聞くと、今までの緊張が一体何だったのか、よく分からない気がした。

 それに美佐子は、

――どうして、そんなに臆病なの? 襲おうとしているのは分かっているんだから、そんな態度を取られると私はどうしていいのか分からない――

 さすがに、相手の思い通りにさせるわけには行かないが、こんな情けない人に抵抗することが本当にできるのかという気持ちにもなってきた。

 社長室という密室の中で。最初はまるで血に飢えたオオカミのようだったにも関わらず、今は忠犬のように見えている。どちらが本当の社長なのか考えあぐねていたが、そのうちに社長も完全に尻尾が垂れ下がってしまって、最初の勢いはまったくなかった。これが復活できるはずなどないと思うほどの体たらくであった。

 社長は急に震え出した。口元で何かを喋っているのが分かるんだが、何と言っているのか聞こえない。ただ、見ていると自分を鼓舞しているように思う。さっきまでの勢いと余裕はどこに行ってしまったのだろうか?

――襲いたいなら襲ってくればいいのに――

 と思えるほど、情けなくなり、その状態は、

「逆オオカミ男」

 の様相を呈していた。

 オオカミ男というと、普段は普通の姿なのに、空に満月が昇れば、オオカミに変身してしまうというお話だ。しかしこの社長は、最初本能だけで動く獰猛なオオカミだったくせに、何を見たというのか、急にしおらしくなり、普通の人間、いや、さらに情けない人間に成り下がった。最初が恐怖に満ちていただけに、この情けなさはどう表現していいのか分からないほどの変わりようであった。

 美佐子の方もさすがに、

――襲いたいなら――

 などいうことを思うはずもない。

 オオカミ男はもう襲い掛かってくることはなさそうだ。顔は険しくなっていたが、それは己との闘いであり、相手をほとんど意識していなかった。これも、オオカミ男が普通の人間からオオカミ男に変身する時、顔が歪んで変化していく時に見られる光景である。

 あの光景が、顔が変わるという物理的な変化に身体がついていけないからなのか、それとも自分ではない自分になってしまうことへの抵抗からなのか分からないが、返信の際のオオカミ男は苦痛に苛まれているようだ。

「いや、これは失礼した」

 と言って、社長はある程度冷静さを取り戻していたが、呼吸は荒かった。

 たぶん少々のことでは呼吸の粗さは元に戻ることはないだろう。そう思うと、まだ怖さはあったが、冷静さを取り戻してくれたことで勇気を持つことができた美佐子は、そこからは淡々と掃除をした。社長も話しかけてくることはなかったが、お互いに不穏な空気であったことは言うまでもない。

――それにしても、どうして社長はあんなに怯えたのだろう?

 美佐子は不審に思った。

 社長が怯えたのは、途中で我に返り、自分の行動が怖くなったのか、それとも、美佐子に対して何か恐怖を覚えたのか、それとも、元々小心者で、そんなことのできる人ではなかったのか。これに関してはいわゆる、

「お坊ちゃま」

 だと考えれば考えられないこともない。

 美佐子は今まで会社員として勤めたことはないので、社長というものがどれほどの権威のあるものなのか、知らないつもりでいた。ただ、この会社は二代目社長だと聞く、ただ聞いた情報はそれだけだった。

 社長は、美佐子が社長室を出ていく時まで、呼吸が整っていなかった。額からは汗が滲み出ていて、暑苦しい感じだった。

「それでは失礼します」

 と言って、社長室の扉を開けた時、ドキッとしたように振り向いた時の社長の顔も忘れられない。

 まるで幽霊でも見たような表情で、カッと目を見開いて、その焦点は明らかに合っていなかった。どこを見ているのか、美佐子の方を見ているのだが、どうもその後ろになニアを感じているのではないかと思うほどである。

 自分の後ろには扉があるだけだと思っている美佐子は、社長が何か幻影に悩まされているのではないかと思うと、それが社長の自制心から来ているものだと思ってもいいのではないかと感じるほどだった。

 もっとも、自制心がある人が、最初のあんなオオカミのような表情ができるはずはないという思いもあった。それだけこの男の表現ぶりが美佐子には意外に思え、最初のオオカミのような表情に対する恐怖よりも、豹変してしまったという事実の方が、美佐子には恐ろしかった。事情が分からない恐怖というのがどれほどのものか、この時初めて感じたのではないだろうか。

 ただ、美佐子はオオカミのような社長の表情も、その後の情けない表情も、初めて見たわけではないような気がした。だが、自分が記憶にある中で、そんな表情を見たはずはないと思える。なぜならそんな表情を見たのであれば、それを忘れるはずはないという思いがあるからだった。

 表情というものは確かに一度見ただけでは覚えられないものかも知れないし、ちょっと見ただけでも恐怖なことなら記憶に鮮明に残るものなのかも知れない。

 それを思うと、どこかにその境界線があり、その境界線は人によって違うものではないのだろうか。

 今、社長室を出た美佐子は、さっきの社長の顔を思い出そうとしたのがが、もう思い出すことはできなかった。社長の顔すら思い出せない。そんな状態を自分でどう解釈すればいいのか、美佐子は混乱していた。

 したがって、今日のことを誰にも訴える気はしない。もっとも何もされていないのだから、訴えても証拠はない。

「顔が怖かった」

 と言っても、それは何の証明にもならないだろう。

 美佐子がこの社長室での記憶を思い出すことがあるとすれば、それはきっと数年後のことだろうと思ったが、これが予知だったと、その時の美佐子も思いもよらなかったに違いない……。

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