第5話 淡い恋物語
ななみが利一と出会ったのは、まだななみが一年生の頃だった。ななみは五月病にもかかることなく、夏休みまでに高校時代の自分を払拭していて、友達もそれなりにたくさんいた。
何よりも自分発信で皆に話ができるようになり、次第に趣味も増えていった。元々ピアノや、お茶、お花などの習い事をしていた関係で、趣味を持つことに弊害はなかった。
ただ、習い事に比べると趣味というとどうしても、どこか低俗に感じてしまうところがあり、ななみとしては違和感があった。
ただ、以前からやってみたいと思っていたのが絵画だった。
「私も絵を描けるようになったらいいな」
という思いは高校の頃からあった。
ただ、家には立派な絵画は額縁に入って廊下や応接室に飾られているが、あくまでも飾りであって、絵に興味を持っている人はいない。絵を買ってくるのでも、昔からいる召使のような人が購入してくるのであって、その目がどれほどのものか、誰が分かるというのだろう。そういう意味で安藤家には絵画のような芸術に造詣の深い人はいないということだった。
大学でサークルに入るつもりはなかったが、絵画同好会のようなものがあり、数人でやっているようだったが、たまに作品を大学の近くの喫茶店などに頼み込んで置いてもらうという程度の活動であった。
「活動は本当に自由なのよ」
ということで、
「別に名前だけでもいいのよ」
という何とも歯がゆい活動ではあったが、とりあえず籍を置くことにした。
絵画に必要なセットを購入し、まずはデッサンから始めた。元々絵画への才能があったのか、描いた作品を見て自分でも、
「なかなかいい感じがするんだけど」
と思い、サークルが置いてもらってるという近くの喫茶店のマスターに見せたところ、
「ほう、これはなかなかではないかな? 喜んで飾らせてもらうよ」
と言って、他の部員とは違った扱いをしてくれ、一番目立つところに飾ってくれた。
その絵を飾ってから半月暗いが過ぎた頃だったか、
「あの絵、なかなかいいですよね。作者の感性が伝わってくるようだ」
と、食事が終わり、レジでマスターと話をしている青年を見かけた。
ちょうどその時、ななみはその店にいた。と言っても、ななみは絵を置いてもらう時、褒められたことが嬉しくて、その時からこの店の常連になっていた。だからその時いたというのは、まんざら偶然というわけでもなかった。
だが、そのおかげで、自分の絵を褒めてくれる人の存在を知った。ひょっとすると、もしその場にいなくとも、
「ななみちゃんの絵を褒めていた人がいたよ」
と後になってから聞かされたかも知れないが、忘れていないとも限らない。
それを思うと、やはり最初から聞かされる方がどれほど嬉しいか、ななみは心の中が狂喜乱舞しているように思えてならなかった。
ななみは、さすがにその時、自分から名乗ることはできなかった。そんなななみを横目に見ていたマスターは、ニコニコしていたが、きっと微笑ましい光景に思えたことだったに違いない。
その人が帰ったあとに、
「よかったね、ななみちゃん。彼はこの近くに会社のある商社マンでね。時々ここを利用してくれるんだよ」
と言っていた。
これが利一との出会いだったのだ。
絵に関しては利一も造詣が深いようで、高校の頃美術部に所属していて、大学では趣味として、敢えてサークルに入ることはしなかった。
「一人でいろいろ動く方が楽しかったしね」
と言っていた。
彼のその言葉があったので、ななみは大学でサークルには所属していたが、活動は結構フリーにしていた。サークルの利用価値としては、製作した作品を、大学の近くの喫茶店に置いてもらえることのメリットだけだった。それをフルに生かすことが、一番いいと思っていたのだ。
絵の先生としても、利一はふさわしかった。一緒に郊外に出かけて写生をしたり、二人のデートは寡黙であったが、新鮮であった。そんな関係を今まで自分が夢見ていたのだと気付いたななみは、もう彼から離れられないと思った。
それでも最初は、本当に好きなのは彼のことなのか、それとも彼と一緒にいて得られるこの何とも言えない心地よい時間なのか、どちらなのだろうかと感じていた。
しかし、結局は彼がいないと成立しない思いであり、利一を好きなことに変わりはないので、自分の感じたままを突っ走ってもいいと思うようになった。
一度は迷ったのだから、その決意は本物だとななみは感じた。
――人を好きになるというのは、こんなところから始まるのではないだろうか――
と思うのだった。
これが恋愛感情だと思うと、今までに誰かを好きになったことがあったのか、思い出してみた。初恋のようなものはあったような気はしたが、思春期を超えてから異性を意識するようになってからは、誰かを好きになったという意識はなかった。
人には好かれるのだが、どうにも信じられる人はいなくて、皆薄っぺらく感じられた。言っている言葉は皆同じことであり。
「好きです」
といえば女が喜ぶとでも思っているのかと、勘ぐってしまう。
精錬実直だと思っているくせに、相手の心を読もうとすると、結構深く感じてしまう。そんな自分にどこか嫌気がさしている気もしたが、まわりは、そんなことに誰も気づいてくれないだろうと思った。
ななみは、
「あなたの一番好きな人は誰ですか?」
と聞かれたとすれば、
「お父さん」
と間髪入れずに答えるでしょう。さらに、
「じゃあ、嫌いな人は?」
と聞かれると、
「お義母さん」
と、好きな人を聞かれた時と、同じくらいの早さで答えるに違いない。
いや、ひょっとすると嫌いな人を答える時の方が早いかも知れない。なぜなら、嫌いな人は完全に虫の好かない人であり、嫌いだという感覚は意識よりも早く脳に伝わってくる。つまり反射的に感じるということだ。
お父さんを好きだというのは、紛れもない事実であるが、それを答える時、少し恥ずかしいという気持ちがあるのも事実。そう思った瞬間、少し返事までが鈍くなってしまうのは無理もないことだ。
それでも、好きな人を答えるのが誰もが恥じらいの中で答えるものだろう。そう思うとななみの返答は決して遅い方ではない。しかし、嫌いな人を答えるというのは、まるで嫌いな虫が身体に纏わりついてきた時のような、反射的に逃れようとするあの感覚と同じである。本能からの拒絶は、どんな反応よりも早いのは、周知のことだと言えるだろう。
これでも分かるように、ななみは両親に対して、まったく正反対の感情を抱いている。これは逆にいうと、もし信じていた父親が自分の想像していたのとはまったく違った人であれば、父親を毛嫌いすると同時に、母親に対しての見方を変えることになるだろう。
今まで生理的に受け付けなかった母親を、そう簡単に受け入れることができるのか、ななみには疑問だった。だがななみが、今までと違った感覚を持ち始めているかも知れないと誰も分からなかったが、その契機になったのが、初めて人を好きになった時だというのも皮肉なものだった。
ななみは利一の純粋な心に触れれば触れるほど、今まで生きてきた人生のどこかが間違っていたかのように思えてならなかった。
もちろん、思い違いだと自分に言い聞かせていたが、それだけでは言い表せない大きな違和感が、ななみを襲うのだった。
ななみがそんな風に考えるようになったのは、彼ができたからだけではなかった。絵画に目覚めたのもその一つではないかと自分で思っている。
彼女は絵画について誰かに習ったわけではない。利一との話の中で、
「絵画って、何が正解かなんてものはないんだよ。それは文芸などの他の芸術であっても言えることだと思うんだけど、売れる売れないというのも、どこかの著名な先生の評価がよければ、売れるというだけだろうね。二科展などであっても、誰かが評価するわけだから同じことではないかな?」
と、彼は少し夢のない話をした、
もし、これを画家を目指して一生懸命に努力している人が聞けば、激怒するかも知れない。それほどの言いぐさであった。
「私は趣味でやっているだけだから、あまり気にしないけどね」
と、ななみがいうと、
「そうだよ。僕だってそうだ。これがもし本当に画家なんかになってしまうと、自分の書きたいものや、本当に見えていると思っているものを否定されれば、そこで終わってしまうからね、下手をして画家の重鎮の人に不評を買うと、それを取り戻すのは結構大変なんじゃないかって思うんだ」
利一の話を聞いていると、せっかくの絵画を趣味としてやっている気持ちに釘を刺される気持ちになるのはどうしてだろうか。
せっかくのデートも彼の話を聞いていると、楽しめない気がした。それから二人で絵画に行くことはほとんどなくなったので、一緒に写生したという記憶は、かなり薄れていたのだった。
料理教室に通い出したのは、ななみの提案だった。絵画はお互いに一人で楽しもうと思うようになって、
「じゃあ、何か他に共通の楽しみはないのかな?」
と考えた時、ふと目に入った料理教室の看板が気になった。
本当は前から気付いていたのだが、まるでお嬢様修行の続きのような気がして、避けていたような気がする。
一人で入会するのであれば、まさにお嬢様修行の一環になってしまうのだろうが、一緒に入会してくれる人がいて、その人は男性だと思うと、今まで避けようとしていた気持ちがウソのように、看板に引き付けられている自分を感じた。
「私、ここの料理教室に通おうかしら?」
と、貰ってきたパンフレットを手に、急に思い立ったかのように利一に話した。
「ほう、どれどれ?」
と利一もまんざらでもないようだ。
「僕は一人暮らしなんで、自炊とかもするんだよ。せっかく自炊しているんだから、料理を習って、自分で作ってみるというのもいいかも知れないな」
と実に乗り気だった。
ひょっとすると、利一の方が、ななみよりも乗り気になっていたのかも知れない。
それでも、ななみは自分があたかも今考えたかのようにして利一を誘った。利一もそれを何の疑いもなく話を聞いている。
「ね、いいでしょう? 私も一緒に習って、二人で一緒に何かを作るって、本当に素晴らしいことだと思うの」
と、ななみはうっとりしながら話した。
自分の想像が妄想となって膨れ上がっていき、絵画の時とはまた違った感動を与えてくれたことが、ななみを有頂天にさせた。
「うん、いいことだ。ななみちゃん、なかなかうまい趣味を見つけてきてくれたね」
と言って、利一は喜んでいた。
少数精鋭の教室でもあるので、それも嬉しかった。見ていても嫌いな人や受け付けられないような人もいない。
「一人主婦の人がいるけど、あの人とから頼りになりそうだよね」
と利一は言った。
利一は、その主婦の人に、将来のななみを見ていたのだが、さすがにななみの方ではそこまで彼が考えているとは思ってもいなかった。
実は利一は主婦である美佐子のことを以前から知っていた。
美佐子は結婚する前、利一の会社の近くに勤めていて、いつも同じ電車になることで、時々挨拶をする仲ではあった。しかし、それ以上でもそれ以下の仲ではないことは確かで、ななみのまったく心配するほどのものではない。しかし、ななみが利一の彼女であるということが分かると、美佐子は利一に話しかけることはしなかった。自分も主婦だという自覚もあるし、既婚者としての余裕と風格を出すことで、利一をからかってみようというちょっと悪戯心もあったのだ。
ただ、これはななみはまったく知らなかったことだが、美佐子は結婚する前、短い期間だけだったが、パートとしてななみの父の会社に勤めていたことがあった。短い期間でしかもパートということなので、ほとんど関係のないようなものだが、その時は利一もその偶然に気付いてはいなかった。
美佐子がこの街に引っ越してきたのは、結婚してからのことだった。それまでは都会に一人暮らしをしていたが、郊外でゆっくり暮らしたいという旦那の意見もあって、美佐子がこのあたりの物件を探して、いいところがあったので、このあたりに住むことにした。
元々美佐子も都会の生活には飽き飽きしていたので、田舎で暮らしたいと思っていたが、結婚相手に、
「通勤に時間がかかるけど、いい?」
なんて聞けないと思い遠慮していたが、彼も乗り気だったのは嬉しかった。
美佐子はこのあたりの土地には慣れていたようだ。
「私、昔このあたりに住んでいたことがあったのよ。子供の頃だったけどね」
「そうなんだ。それだったら懐かしいだろう?」
と彼に言われて、美佐子は複雑な表情をしたのだが、その理由を旦那が知る由もなかった。
懐かしさというのは、いい思い出だけなのか、それとも悪い思い出もあるのか、美佐子は姉と、そして父親を思い出していた。姉というのは自分とは母親が違っていて、よく暴力をふるう父親から逃げていた。美佐子はそんな母親を見ていて可哀そうだと思いながらも、父親から離れることはできなかった。
かわいそうだったのは姉だったが、姉は父親から完全に虐待を受けていた。姉の母親はとっくに逃げ出していて、後添いが美佐子の母親だった。
姉は義母と一緒に父親の暴力を受けていたが、なぜか美佐子にはつらく当たらなかった。その頃まだ小学生だったので、そこまでひどい目にあわなかったのかと思った。姉と母親が自分と父親の間に立ってくれたのだろうと子供心に思ったが、果たしてそうだったのか、悲劇はそれだけでは終わらなかった。
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