172話 ごちそうスープとご自愛スープ


 雪こそまだ降らないものの、街を歩く人は肩をすくめ、寒さから身を守る。

 そんな冷たい北風が吹くマルティアの街では今、流行しているものがある。

 といっても音楽でも服でもなく、この時期特有の流行してほしくないものだ。


「風邪が流行っているんですか?」

「えぇ、この時期マルティアの街、いえスタンテール中で流行しますね」


 恵真の言葉にリアムが答えると、彼女の眉が不安そうに下がる。

 視線をアッシャーとテオに向け、恵真は兄弟に尋ねた。


「お母さんの調子はどう?」

「大丈夫だよ! 最近、すごく調子がいいんだって!」

「はい。仕事も評判が良くって……だから、逆に頑張り過ぎないようにって僕やテオが言ってるんです」


 その言葉に恵真の表情がホッとしたものに変わる。

 病で働けずにいたハンナの体調は以前よりだいぶ回復してはいた。

 しかし、風邪の流行で再び体調を崩すこともあるだろう。恵真はそこが気になったのだ。

 

「今ね、お母さんに刺繍してほしい! っていう人もいるんだって!」

「あ、僕達も風邪には気をつけてます。こういう仕事をさせて貰っているし、母にもうつしたくないので……あと、ルリコさんがくれたマフラーもありますし!」


 昨年の冬、瑠璃子はアッシャーとテオに青と赤のマフラーを贈った。

 兄弟はそれをつけ、喫茶エニシへと訪れている。


「手首、足首、首周りを冷やすと体が冷えちゃうものね。でも、良かった。ハンナさんが元気そうで」


 内職の刺繍は指名をされるほど、評判がいい。ハンナの丁寧な仕事ぶりが評価されたのだ。

 長い間、病で働けずにいたことや子ども達に負担を強いている状況に、ハンナは未来が見えぬ不安を抱き、自信も失っていた。

 しかし、恵真との出会いがそんな日々を変えたのだ。

 働き出したアッシャーとテオには子どもらしい笑顔が再び浮かぶようになった。

 そんな子ども達の状況、恵真から渡される食事の中にたまに入る薬草の効果もあり、心身ともにハンナの負担はなくなったのだ。

 今日、リアム、バート、リリアがいるが皆、いつも通り元気そうだ。


「そういえば、最近セドリックさんの姿が見えませんが……」


 胸を撫で下ろす恵真だが、店に来ていない者の様子が気になった。セドリックの姿を数週間見ていないのだ。


「あれは体だけは丈夫ですので、ご心配には及びません」

「アメリアさんも先日お会いしましたが、元気そのものでしたよ」

「それじゃあ、皆さん風邪などひかず、元気なんですね」

「いえ、それが一人そうでない者がいて……それで今日は伺ったんです」


 安心したような恵真の声に、少々申し訳なさそうにリアムが答える。

 目を瞬かせる恵真だが、リアムの視線は恵真からソファーへと向かう。

 ソファーには冬の陽だまりの中、丸くなって寛ぐ黒猫クロの姿がある。

 そこで恵真は気付く。いつもそこに座って、文句を言いつつもスープを飲むオリヴィエの姿を思い出したのだ。

 

「あ……! そういえば、オリヴィエ君がここ数日来ていませんね。てっきり、本に夢中で来れないんだと思っていたんですが……」

「うん。このまえ、オリヴィエのお兄さんが本を持ってうれしそうにしてたよね」


 先日、古い本を持ってきたオリヴィエはその希少性などを嬉しそうに語っていた。   

 機嫌良く本の話をするその姿を覚えていた恵真達は、てっきりその本に夢中なのだろうと思い込んでいた。

 しかし、どうやら風邪を引いて寝込んでいるらしい。

 

「オリヴィエ君って一人で暮らしてますよね。世話をしてくれる方とかはいらっしゃるんでしょうか」

「セドリックがここ数日、顔を出して様子を見ています。ですが、問題は食事で……」

「あっ! そうっすよね、あの人基本的には携帯食で済ませてるっすねぇ」


 バートの言葉に、恵真やアッシャーもハッとする。文句を言いつつも、ここ喫茶エニシではスープを飲むようになったオリヴィエ、だが普段は硬い携帯食を齧ることが多いのだ。

 

「あぁ、しかし風邪のときは食欲も落ち、喉も痛むだろう。硬くてえぐみのする携帯食は不向きでな」

「いや、たいていの人は携帯食自体が口に合わないんすけどね」


 バートの言う通り、そのえぐみと苦みから携帯食は不人気なのだ。

 だが、リアムはその話には触れず、恵真を見る。

 今日、ここに訪れたのはある頼みがあるからだ。

 

「そこでトーノ様に依頼をお願いしたいのです。ここでオリヴィエはスープを口にしていましたし、宿へそちらを持っていけば彼も口にするのではと思いまして」


 少し申し訳なさそうなリアムだが、恵真としては断る理由は何もない。

 体調を崩したときや病気になったとき、食事というのは普段以上に重要な意味を持つのだ。

 薬草であるバジルも市販のものでよければ、いくらでも手に入るだろう。


「私でよければぜひ協力させてください。香草……薬草ももちろん大丈夫です。セドリックさんやサイモンさんにもそうお伝えくださいね。スープ、どんなのがいいでしょうね」

「エマさん、ぼくも協力するね!」

「オリヴィエのお兄さん、心配だもんな」


 恵真はリアムの申し入れを快諾する。それに続くようにテオとアッシャーからもオリヴィエを案じる声が上がる。

 オリヴィエの居場所はここにもたしかにあるのだと、リアムは恵真達の様子に口元を緩めるのだった。



*****

 

 

 このマルティアで一番設備の良い宿をオリヴィエは常宿としている。宿代も元王宮魔導師であるオリヴィエにとっては大した金額ではないのだ。

 しかし、実際にはほとんどの時間を冒険者ギルド長室や喫茶エニシで過ごしている。そこにどんな理由があるのか尋ねるほど、セドリックもリアムも無粋ではない。


「熱さえなけりゃ本をじっくり読めたのに! 希少な本なんだよ? 今すぐその知識をボクのものにするべきだよね、本だってそれを望んでいるはずなのにさ!」


 小さな体に不釣り合いな大きなふかふかのベッドの中で、オリヴィエはふてくされている。そのおでこに冷たい布がぺたりと置いた者がいる。セドリックである。


「熱だけじゃねぇだろ。風邪をひいてるんだ。喉も痛けりゃ、頭も痛ぇはずだ。大人しく寝ていろ」


 セドリックの言葉にオリヴィエはさらに頬を膨らませる。

 オリヴィエにしてみれば、そんな状況でここにいるセドリックの方がどうかしているのだ。


「もういいから帰ってよ。一人で静かに寝ていたいの!」

「わかったわかった。安静にしてるんだぞ」


 背中を向け、ドアへ向かったセドリックにオリヴィエは肩をすくめる。

 一人になると急に部屋が静かになり、オリヴィエはため息をつく。

 ベッド横の小さなテーブルには水の入ったピッチャーとグラス、セドリックが持参した果物が置かれている。

 こういう場合、切った果実を置いてくれるか、皮を手で剥けるものを選ぶべきなのだが、硬い皮を持つ果物ばかりなのがセドリックらしい。

 くすっと笑ったオリヴィエだが、そのはずみで咳も出てしまう。

 一人になった部屋の中、オリヴィエの咳だけが響く。

 グラスに水を注ぎ、一口飲んでオリヴィエはベッドに横たわる。


「風邪をひくなんて何年、いや何十年ぶりだろう。情けないね」


 最後に風邪を引いたのは数十年前、人に比べれば少ない回数だ。しかし、風邪をひく――そのこと自体がオリヴィエにとって自分がハーフエルフなのだと実感させた。エルフは風邪をひかないのだ。

 人の血を引くハーフエルフだからこそ、人が感染する風邪などの病にかかる。

 幼い頃、なぜ自分だけこのように体調を崩すのか、オリヴィエは不思議であった。  

 またそのようなとき、母がいつも自分に謝ることも。

 申し訳ないと背中をさすられる度に、その温かさに安心しつつもどこか不安になったものだ。

 周囲とは異なる存在である自分――母は自分を生んだことを後悔していたのだろうか。


「ごほっ、ごほごほっ……!」


 止まらない咳、負の考えも頭から離れることはない。

 大きなベッドの中、オリヴィエは小さく丸まりながら、一人の夜を眠れずに過ごすのだった。

 



 




 


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