162話 酒と酸味とホロッホ亭


 空を見上げた恵真はその色と高さに季節の移り変わりを感じた。

 まだまだ暑さは続いてはいるが、髪を揺らす風は湿度が少なく心地よい。

 クロも庭に出て、虫か何かを追いかけてぴょんぴょんと跳ねている。

 夏の間も朝晩のパトロールを欠かさないクロではあったが、それ以外の時間は庭に出ることもなく、ひんやりとした室内で過ごしていた。

 こうして元気に飛ぼ跳ねる姿に、やはり過ごしやすい気候になっているのだと恵真は実感する。

 

「秋になったら、美味しい食材がたくさんあるよね。それも楽しみだなー」

「みゃうみゃ」

「本当にクロの言う通りよね。季節の変化に思うことがまず食べ物のことだなんて……」

「だって食欲の秋ってよく言うでしょ? 新米だってもう出る時期なんだよ? ご飯が美味しいんだもん。他の食材だって全部美味しいはずだよ!」


 目をキラキラと輝かせる恵真に少々呆れたクロはくわっと大きなあくびをする。瑠璃子は少し笑いながら、首を振る。

 秋といえば、芸術に読書、スポーツと他にも楽しめることは多い。服装や化粧品も季節の変化で楽しめるものなのだ。

 そこをまず食事に繋げる孫娘は純粋に料理や食事が好きなのだろう。

 好きなことに携わり、いきいきとする孫娘恵真の姿に、祖母の瑠璃子は優しい眼差しを向けるのだった。


*****


 その日、いつも賑やかなホロッホ亭ではあるトラブルが起きた。

 冒険者や兵士も集まるこの店では争いごとは厳禁である。

 店主のアメリアに敬意を持つ客たちはそのルールを守ってこのホロッホ亭で過ごしている。そもそも、酒の席で揉めごとは無粋でしかない。

 誰もが皆、このホロッホ亭に楽しむために来ているのだ。

 しかし今夜は、その掟を破る者が現れた。


「こんな酸っぱい食い物なんか出すんじゃねぇ! 酒の味を邪魔するじゃねぇか!」


 そう言った男は皿を荒れた大きな手で払いのける。

 男の声と床に転がった皿とピクルスに、騒がしかった店内は一瞬静かになるがその後に他の客が一人、男に掴みかかっていく。

 

「てめぇ、アメリアさんが作った料理に何するんだ! それになぁ、ここじゃ揉め事は厳禁なんだよ! お前、どこから来た奴だ!?」

「この、離しやがれ!」

「おい、やめろ。どっちにしても揉め事はここじゃダメだ!」


 冒険者であろう大柄な男はこの街に来て日が浅いのだろうと皆察する。

 マルティアの街の冒険者は朝晩と開いているホロッホ亭に誰もが世話になっているのだ。それもあって、ホロッホ亭はいつも秩序が守られている。

 皿を跳ね飛ばした冒険者とそれに激怒した客、それを止めようとした冒険者や兵士たちでホロッホ亭の揉めごとは大きくなっていく。

 止めようと立ち上がったリアムの肩にセドリックが手を置いて止めた。

 それは彼女の行動を察してのことだ。男たちを叱責する大きな声が響き渡り、皆は動きを止める。


「お止め! このホロッホ亭では揉めごとは厳禁だよ!」

「でもよ、アメリアさん。こいつが……」

「あぁ、それを許すつもりはあたしもないよ」


 そう言ったアメリアはつかつかと男の前に出て、睨みを利かせる。

 その貫禄に一瞬たじろぐ冒険者の男だが、アメリアをぐっと睨み返す。

 だが、アメリアは屈することはなく人差し指を上に向けて、話しかけた。


「いいかい、あんた。人が作った料理を軽んじるんじゃないよ。おまけに冒険者なら、食料の大事さを重々知っているはずだよ? それにね、あんたが無駄にしたあのピクルス。野菜だって、誰かが育ててくれたものなんだよ!」


 アメリアの剣幕に、それまで騒いでいた者たちは静かになる。

 ピクルスの皿を跳ね飛ばした冒険者だけが、辛うじてアメリアをまだ睨んではいるが、その迫力にたじたじなのは隠しきれていない。


「な、お前が止めに入らなくっても大丈夫だったろ?」

「――流石はマダムといったところだな」


 この店を守るのは店主であるアメリアの仕事なのだ。

 他の客にも席に着くように促す彼女の頼もしい後姿は、リアムの幼い頃の記憶と何も変わらない。

 座り直したセドリックとリアムは再び酒に手を伸ばすのだった。


*****


「――っていうことがあったんだけどねぇ。あたしの漬け方が悪かったんじゃないかって思えてきてね。お嬢さんに話を聞いて欲しくってさぁ」

「それは考え過ぎですよ。ほら、酢を嫌う方も多いですもん」

「あぁ、わかります。うちの父もあまり好みませんね。昔は高価だったのを、十数年前くらいに魔道具が出来て、大量生産が可能になったんですよね。だから慣れてない人も多いんじゃないんでしょうか」


 恵真にとっては身近な酢であるが、大量生産が出来るようになる前には口に出来ない者もいたのであろう。

 そんなマルティアの事情とそれぞれの好み、それを考えれば口に合わないこともおかしなことではない。

 

「そうかい。それならいいんだけどさ、やっぱり作った料理が口に合わないって言われると商売をする立場としちゃ落ち込んじまうよ」

「それぞれに好みはありますし、合う合わないはあって当然です。――でも、食べ物を大事にしないなんて……私でも同じように怒ったはずです!」


 好みの差こそあれど、食べ物をぞんざいに扱っていい理由になどならない。

 アメリアの手をがしっと握った恵真はじっと彼女の目を見て言う。


「お酢はお肉に野菜、飲み物にだって使えるんです。暑さで疲れた体の疲労回復にもいいんですよ! さっぱりとした食事を提供したい、そんなアメリアさんの気持ちは十分他のお客さんには使わっているはずです!」

「お嬢さん……そうだね。ここで諦めてちゃいけないね!」


 なぜか共感しあう恵真とアメリア、そしてそんな二人の姿にリリアは目を輝かせる。女性でありながら店主として働く二人は、リリアにとって目標となる存在なのだ。

 アメリアを見つめたまま、恵真は力強く断言する。


「お酢の力を見せて、そのお客さんをぎゃふんと言わせましょう! 私、酢を使った料理で、お酒にしっかり合う料理を作ってみます!」

「ぎゃふん? ……よくわからないけどお嬢さんが協力してくれるなんて力強いよ」

「新たなことに挑戦していくエマさま、素敵です!!」


 盛り上がる女性陣たちを見たテオは、テーブルの後片付けをしながら兄のアッシャーに尋ねる。先程の会話で聞き慣れない言葉があったのだ。


「お兄ちゃん、ぎゃふんって何?」

「ん? エマさんの国の言葉じゃないか? ほら、まねきねことかもあっただろ?」

「あぁ、クロさまのことをそう言ってたね」

「みゃうみゃ」


 ソファーの上で寛いでいたクロが二人を見て鳴く。

 自分が招き猫以上に価値ある存在であると自負するクロだが、そんな気持ちはアッシャーやテオには伝わらない。

 二人は作業をしながら、「ぎゃふん」という不思議な響きの言葉をなんとなく呟いて笑うのだった。


*****


「そもそも、ピクルスはお酒に合うわよ。その人に合わないか、虫の居所が悪かっただけじゃないかしら。でも、確かに酸味が苦手な人もいるわよね」


 夕食を用意しながら恵真が今日のことを話すと、祖母の瑠璃子が頷く。

 子どもはもちろん、大人でも酸味を苦手とする人は多い。

 古い調味料である酢は原材料は米から作られる米酢、二種類以上の穀物を使った穀物酢、果実から作られる果実酢などさまざまある。

 酢によっても使い道や調理法が異なるのだ。

 今日の食卓にも菊の花を使った酢の物がある。冷蔵庫にも茗荷の酢漬けが入っており、遠野家の食卓には欠かせない調味料だ。

 

「魔道具のおかげで広まったらしくって、そういう形でいろんな調味料や食事が一般の人にも普及していったらいいよね」

「あら、素晴らしいわね! でも、恵真ちゃん。酢を使う料理って結構難しいかもしれないわよ」

「え、どうして?」


 ピクルスなどの酸味の強い料理、またトマトなども人々は受け入れている。

 そう考えると酢を使った料理も比較的受け入れられると想定していた恵真は、目を瞬かせる。

 そんな恵真にクロを指差して瑠璃子は言う。


「そもそも、酸味のある食べ物を好まないのはおかしなことではないわ。腐る、腐敗したものだと判断することもあるし、刺激が強いものを苦手な人もいるもの」

「みゃうみゃんにゃ」

「ね、クロもそうだって言ってるわ」


 ショックを受けつつ、恵真は酢の物に箸を伸ばす。

 鮮やかな黄色の菊の花はしゃくしゃくとした食感とほのかな苦味があり、三杯酢ともよく合う。この味わいは大人になった今だからこそ、良さがわかるのだろうと恵真は思う。

 強い酸味を持つ食べ物を好まないのも、それぞれの食生活を考えれば仕方のないことでもあるのだ。食事は生きるため、楽しむためのものであり、無理強いをするべきではない。

 アメリアが横暴な態度を取られたからとついムキになっている自分に恵真は気が付く。


「でも、食事のお皿を払いのけるなんて絶対ダメだよね。出来ればその人にお酢の良さを知って貰えたらいいんだけど……なんて我儘なのかな」

「あらあら、さっきまでの勢いはどうしたの? その人がどう思うかはさておき、作ってアメリアさんやお客さんに料理を味わって貰えればいいじゃない」

「……そうだよね、約束したんだもん。まずは皆にも食べやすいお酢を使った料理を考えてみる」


 気を取り直した様子の恵真に、クロは「みゃう」と鳴く。瑠璃子が言うには「頑張れ」と言っているらしいが、未だ恵真にはその言葉はわからない。

 だが香箱座りをしながら、ゆらゆらとしっぽを揺らすその姿からは確かに応援しているような雰囲気も伝わってくるから不思議なものだ。

 

「ありがとう、クロ」

「んみゃう」


 満足げに一声鳴くとクロはそのままの姿勢でうとうとし始めた。

 少し開けたドアからはひんやりとした風が入り、虫の音も聞こえる。

 もう一口、酢の物を口に運んだ恵真は季節の味わいに目を細めるのだった。


 


 

 

 




 

 


 


 



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