146話 潮の香りとセドリックの別れ


 庭のキュウリやトマトは小さな花をつけ始めた。

 道の駅でトマトを買った恵真だが、庭のトマトが実るのはもう少し先のことだろう。

 つい先日までのじめじめとした天候から、夏の暑さに変わり始めていて、早朝だが既に今後の気温の高さが予想できる。

 これから始まる夏を予感させる空の下、恵真は植物に水を与えながら先日の依頼を思い出す。

 侯爵令嬢シャーロットの恋の話はセドリックから聞いている。

 依頼の成功以上に、会ったことのない少女の微笑ましい話題が恵真にとっては喜ばしいものだ。

 喫茶エニシで作った料理が誰かの笑顔に繋がる――そんな実感に意欲が湧く恵真であった。




*****



 そんなすっきりとした青空にもかかわらず、喫茶エニシでは人生にどんよりと暗雲垂れこめたかのような表情で座る男がいる。冒険者ギルド長のセドリックである。

 ギルド長という立場にいるセドリックだが、元来が大らかで気の良い人物だ。

 少々、大雑把な面もあるが、細かいことを気にしないその性格は気さくで、いつも豪快で明るい印象を恵真たちは受けていた。

 しかし、目の前にいるセドリックはすっかり落ち込んでしょぼくれている。

 そんなセドリックに共に訪れたリアムは仕方のない者を見る眼差しを送り、オリヴィエはうんざりした表情を隠そうともしない。


「冒険者ギルドにカビが生えるといけないからね。空気を入れ替えようと思って連れて来たんだよ」

「何があったんですか? セドリックさん」


 ずんと落ち込んだ様子のセドリックはオリヴィエの言葉も耳に入らないらしく、一人静かにアイスティーをすする。

 恵真に申し訳なさそうな表情でリアムが語り出したのは、セドリックがここまで落ち込むことになった理由だ。


「実はセドナを海に返してきたのです」

「…………う、セドナ……!」


 リアムの言葉にセドリックは悲痛な声を上げる。

 恵真もまた驚きの声を上げた。


「え! セドナ……!?」

「ああっ! 俺のセドナぁっ!」

「……ってどなたのことですか?」


 恵真の問いかけは続くセドリックの声でかき消され、彼には届くことはなかった。リアムやオリヴィエは覚えておらずとも当然だという表情で頷く。

 アッシャーとテオも誰のことだろうと不思議そうに首を傾げる。

 冒険者ギルドの副ギルド長はシャロンという女性だったはずだ。

 それ以外の女性職員を恵真は知らない。

 思い出そうと懸命な恵真に恐縮しながら、リアムはセドナが誰であるかを伝える。


「セドナは昨年、セドリックが捕らえたタコです」


 昨年の夏、シグレット地域で大量発生した不可思議な生物の討伐に、冒険者ギルドを代表してセドリックとリアムが訪れた。

 その際に、発見された生物が不気味な軟体動物タコである。

 幸い、攻撃力もないと判明したタコであるが、なぜかそのなかの一匹をセドリックがいたく気に入り、愛情込めて育ててきたのだ。 

 度重なる脱走にギルド職員が抗議するにもかかわらず、笑って過ごしてきたセドリックの心境にどんな変化があったのだろうと恵真は思う。


「でも、なんで急に海に返そうと?」


 恵真の疑問はごく普通のものだ。

 大切に思っていた存在を手放すにはそれなりの理由があるものなのだから。

 リアムはセドリックに視線を送り、オリヴィエは自分に関係のないことかのように携帯食を齧り始める。

 アッシャーとテオも自主的に仕事を見つけたようで、テーブルを丁寧に拭く。

 恵真の言葉をセドナに関心を持っていたと感じたセドリックは目を潤ませる。

 誰も共感してはくれないセドナとの日々、ここに理解者がいたのだ。


「それには海よりも深く広い、私とセドナとの愛があるんです!!」


 セドリックの勢いに押される恵真だが、今は他に客もいない。

 日頃、世話になっている彼の話を聞くくらい問題ないだろう。

 迷惑な男を連れてきて申し訳なさそうなリアムに、目で問題ないと合図を送ると、恵真はセドリックの話に耳を傾けるのだった。



*****



「最近、毎日夢を見るようになったのです」

「夢、ですか?」

「えぇ、いつも見るのは同じ夢。海を自由に泳ぎ、潜る夢なのです。一度ならば、特に何も思いません。しかし、続けてみるということは何かしらの意味がある――そう私は考えるようになりました」


 海で泳ぐ夢はそこまでめずらしいものではないだろう。

 しかし、それを続けてみるということはあまり聞かない。

 セドリックが何かあるのではと感じるのは無理もない。

 

「きっとこれはセドナから私へのメッセージなのだと、そう気付き、セドナにも尋ねるとまるでそうだと言わんばかりに足を動かしたのです。副ギルド長のシャロンもギルド職員たちも同意をしてくれました!」

「そして、私とオリヴィエが同行して、タ……セドナを海に返すこととなったのです」


 それでオリヴィエは不機嫌なのだと恵真は納得する。

 おそらく魔法を使えるオリヴィエを同行させることで、セドナに負担をかけないように配慮したのだろう。

 ただでさえ煩わしいことを嫌うオリヴィエにとっては、苦痛だったに違いない。

 オリヴィエは憤るように不満を次々に口にする。


「海っていうのは全くもって気に入らないね。潮風で髪は乱れるし、おまけにごわごわになる。砂は靴にいくらでも入ってくるし、日差しは強いし……!」


 まだまだ愚痴が続きそうなオリヴィエであるが、そんな彼に注がれるのはアッシャーとテオの純粋な眼差しだ。

 キラキラと瞳を輝かせ、オリヴィエに二人からの尊敬が集まる。

 二人にとって海は話の中で聞くだけの場所なのだ。


「うわぁ! オリヴィエのお兄さん、海を見たの?」

「海の水ってしょっぱいんでしょ? 凄いよねぇ。どのくらい大きいの?」

「まぁ、海って言ってもそれぞれに違うんだけどね」


 アッシャーとテオに慕われ、悪い気はしないオリヴィエは少し機嫌を直したようだ。長く生きるハーフエルフのオリヴィエは様々な光景を見てきたが、そのことを二人は知らない。少し年上のお兄さんとして接しているのだ。

 そんな彼が遠く離れた海へと行ったのだ。二人からすれば大冒険である。

 リアムは機嫌を直し始めたオリヴィエにくすりと微笑み、恵真に土産を渡す。

 これはシグレット地域で採ってきた海産物だ。

 不満を言うオリヴィエに頼んで、魔法で保存したさまざまな貝や魚は、シグレット地域の漁師も太鼓判を押した旨さのものばかりである。

 恵真は目を輝かせ、歓声を上げる。

 眩しく輝く宝石ではなく、キラキラと輝く鮮度の良い海産物に喜ぶ恵真にリアムは自然と笑みが浮かぶ。

 いつの間にか、リアムの足元にはクロもいて、みゃうみゃうと声を上げていた。

 アッシャーとテオからの尊敬に気を良くしたオリヴィエ、鮮魚に目を輝かせる恵真とクロ、一人落ち込むセドリックとは裏腹に賑やかな喫茶エニシなのだった。



*****



 一方、冒険者ギルドにも落ち込む者がいる。

 冒険者ギルド副ギルド長のシャロンである。

 セドリックの最近の落ち込みように、彼女は反省をしていた。

 セドナに対するギルド職員からの苦情は今までもあった。度重なる脱走に、見た目のグロテスクさから不評だったのだ。

 しかし、セドリックがセドナに注ぐ愛情を前に、シャロンは目を瞑り、むしろフォローをしてきた。

 そんな中、セドリックが同じ夢を何度も見るようになる。

 彼がセドナからのメッセージではと思うようになったのを幸いに、シャロンもそれを肯定した。

 だが、海から帰ってきてからのセドリックの落ち込みように、それが間違いであったのではと思うようになったのだ。


「ギルド長はセドナを可愛がってらっしゃいました。私が余計なことを言ってしまったばかりに……」


 どこかでセドナに愛情を注ぐセドリックの姿に、自身が複雑な思いを抱いていたことは否定できないシャロンは罪悪感に苛まれる。

 そんな彼女にオリヴィエは肩を竦めて、なんということでもないように一蹴する。


「あれが納得して自分で決めたことなんだから、セドリック自身の問題だね。それでも気になるならさ、食事に誘ったり気分転換を促してみたらどう?」


 じめじめと落ち込んでいるセドリックの様子もため息も、オリヴィエはうんざりしている。シャロンと出かけることで、不在になればその時間は快適に過ごせるだろうと言う打算からの言葉である。

 そもそも、ここは冒険者ギルドであり、オリヴィエの宿ではないのだが、荒くれ者の冒険者もセドリックも物理的にも制止出来る彼の存在は役に立っている。

 何より、外見上は整った少年であるオリヴィエはギルド職員の人気も高いのだ。

 そんなオリヴィエの言葉をシャロンは素直にそのまま受け取る。

 仕事では有能な彼女ではあるが、一方でセドリックのこととなるとまっすぐなのだ。


「そうですね……私が何とか力になります」

「へぇー、頑張ってね」


 シャロンがセドリック関連で積極的になるのはめずらしいことだと思いつつ、まぁ、自分にはあまり関係のないことだとオリヴィエはもう興味がない。

 ギルド長室にタコはいなくなったことだし、そこでひと眠りするのも悪くないと考えている。

 シャロンはというとオリヴィエの言葉に奮起し、セドリックの力になろうと意欲を燃やす。

 どうシャロンが力になるかはわからないが、じめっと落ち込んだセドリックの面倒を見るのは御免だとため息をつくオリヴィエであった。

 



 

 

 

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