118話 桃の節句のスペシャルケア
食事も終え、恵真がそろそろデザートを用意しようかと立ち上がったとき、瑠璃子が小さな声を上げる。その視線はリリアの手に向けられていた。
リリアは少し荒れているその手を右手で隠す。手を手で隠しても意味がないのだが、恥ずかしさゆえの咄嗟の行動だったのだろう。
そんなリリアの手を瑠璃子が優しく触る。
「頑張り屋さんの手ね」
労りの言葉に、リリアは首を振って否定する。年齢を重ねているはずの瑠璃子の手は皺こそあれど、手荒れはない。
「いえ、あの、ただ何もしていないだけです。冬の間、特にこうなってしまって……」
「あら、じゃあスペシャルケアが必要ね!」
「すぺしゃる……?」
「恵真、お願い」
初めて聞いた言葉にリリアが戸惑っていると、その言葉に立っていた恵真が動きだす。必要なものはキッチンやリビングにいつも置いてあるのだ。
目の前に手際良く準備される品々にリリアは戸惑い、ただおろおろとするばかりであった。
リリアの前に用意されたのは蒸しタオル、化粧水、保湿クリーム、乾いたタオルである。その全てを初めて見るリリアだが、それはナタリアやルースも同じだ。ナタリアはそれほど興味を示していないが、ルースはじっとリリアと瑠璃子の様子を見守っている。
そんな彼女の手元はローブの長い袖で見えないが、同じように荒れている。ルースもまた懸命に働いているのだ。
横に立っていた恵真がルースの様子に気付き、笑いかける。
「ルースさんのも用意してるからね」
「え、あの、えっと……あ!」
ルースの返事を待たずに、恵真は蒸しタオルを用意しにキッチンへと向かう。「用意するから」ではルースは遠慮して必要ないと断るだろう。ルースの性格をなんとなくだが掴み始めた恵真の配慮だ。
「ナタリアちゃんはどうする? リリアちゃんの次にしてみない?」
手荒れはないもののナタリアの手には傷や硬さが見られる。
だが、瑠璃子の問いかけに、ナタリアは首を振る。
「この手の傷も剣だこも私の鍛錬の賜物だからな。誇ることはあっても、治す必要はない」
そう言われてリリアは自身の手を見る。先程、瑠璃子にも言われたが、手荒れはリリアが日々働く中で出来たものである。「頑張った証」そう言われれば確かにそうなのだ。
そんな手を恥ずかしいと思ったことに反省しかけるリリアだが、その手を瑠璃子がさっと優しく蒸しタオルで包み込む。
「頑張った自分を労わってあげることも必要なのよ」
ほこほこと温かい蒸しタオルと添えられた瑠璃子の手の重さに、なぜかリリアは安心する。前を見れば、ルースも同じように恵真が蒸しタオルで手を包んでいる。ルースの表情は気恥ずかしそうだが、それ以上に嬉しそうでもある。
同じような表情を自分もしているのだろうかとリリアは思いつつ、気を抜くと緩みそうになる口元をきゅっと引き締める。
「じゃあ、こうしている間に紅茶とデザートを用意しちゃいましょうか」
「そうだね。二人は座っててね」
立ち上がった瑠璃子と恵真に、リリアは慌てる。身分の高い二人にこれ以上何かをさせるのは失礼なのではないかと感じたのだ。
リリアの思いは表情に出ていたのだろう。恵真が手の平を見せ、リリアが立ち上がるのを止める。
「今日は二人ともお客様なんだから、座ってなきゃダメだよ」
「そうよ、ひなまつりなんだから」
恵真はともかく、瑠璃子の言葉は特に意味のあるものではないのだが、ひなまつりを初めて知るリリアとルースには効果的だ。二人とも黙ってこくりと頷いた。
そんな様子に微笑んで瑠璃子と恵真はキッチンへと向かう。
「……凄いわね、ひなまつり」
「はい。……この布も厚みがあって凄いですね」
「そうなの! 暖かいし肌触りもいいし、安心するわよね」
手を蒸しタオルで包むことで、血行も良くなり、同時にリラックス出来るのだ。
その温もりに安心して、つい気も緩むのか初めて会話をする二人だが硬さがない。
「すぺしゃるけあ、ってこういう温かい布で包むことなのかしら」
「温かくって落ち着きますね」
「あらあら、スペシャルケアはこれから始まるのよ」
キッチンから戻って来た瑠璃子と恵真は紅茶と菓子を持って、三人の前にことりとそれらを置く。申し訳なさにもじもじとするリリアとルースだが、ナタリアは菓子に目を輝かせる。
恵真が用意したのは苺のロールケーキだ。シンプルだがふっくらときめ細かく焼かれた生地に、甘さを控えたクリームと酸味のある苺を入れたものである。これはカットしてアッシャーとテオにも持たせている。
「さ、ケアの続きね。ナタリアちゃんは先に食べていていいわよ」
「お言葉に甘えさせて頂く!」
ナタリアは嬉しそうにフォークをケーキに入れる。
瑠璃子は蒸しタオルを取って、乾いたタオルで水分を拭き取る。蒸しタオルだけでもリリアの手は蒸気と水分で先程よりふっくらとして見えた。
そんな彼女の手に化粧水を付け、馴染ませていく。
「あ、あの、自分で出来ますので……」
「して貰うことも大事なのよ。これは化粧水、クリームを塗る前に水分で保湿をするの」
同じようにルースもまた恵真に化粧水を塗り込まれる。化粧水は知っているが、使ったことのない二人は顔ではなく、手に使うというその贅沢さに驚く。贅沢という意味では庶民の自分たちに使っていること自体が恵真たちの寛容さだとリリアは思う。
「こうしてしてあげているように見えるでしょう? でも本当はリリアちゃんの若さを吸い取っているのよ」
「おばあちゃん! ……ちょっと本当っぽく聞こえるからね」
「ふふふ、でもこうして若いお嬢さんと話すと刺激になるものよ」
瑠璃子の言葉は申し訳なさそうなリリアとルースを気遣ったわけではない。彼女の本心なのだ。その証拠に先程から瑠璃子は楽しげなのだ。
丁寧に化粧水を手に馴染ませた後は、クリームを塗っていく。水分と油分で肌のダメージを補うのだ。
クリームの上品な香りとなめらかな質感、丹念に塗り込まれる自身の手を見ているとそれだけで綺麗になったような心地がするから不思議なものだとリリアは思う。
そんな思いはルースも同じようでリリアと目が合うと照れくさそうに微笑む。
「こういうケアは普段はしない? 保湿のクリームとかないのかしら」
「貴族の方はわかりませんが、私たちはしないです。あ、怪我をするときに塗るクリームはあります。効果はちょっとわからないんですけど」
薬草は高価なものだと恵真は聞いている。だとすれば、市販されているクリームなどはそこまで薬効はないのかもしれないと考えていると瑠璃子が手をパンと打つ。
「じゃあ、商機かもしれないわね!」
「しょうき? 何の話?」
「もう、恵真ちゃんはそういうのに疎いわ! ハーブや花の香りって安心するじゃない? サシェやリネンウォーターだってリラックスできるし、ハーブオイルなんかもいいかもしれないわ!」
盛り上がる瑠璃子だが、恵真としてはバゲットサンドと日々の調理で手一杯である。おまけに薬草となるとサイモンが出てくるはずだ。ややこしくなりそうな気配に肩を竦めた恵真はリリアとルースに紅茶とケーキを勧める。
そっとフォークを手に取ったリリアはケーキを口に運ぶ。ふんわりとしたその食感は口に入れると甘く、なめらかなクリームと共に広がる。そこに甘酸っぱい苺の風味と果汁がじゅわっと爽やかに香るのだ。
「美味しいです。すっごく美味しい……!」
リリアの意見に賛同するようにルースも黙ったまま、何度も頷く。
そんなケーキへとフォークを伸ばす手はしっとりとして、不思議とリリアには自分の手も特別に見えてくる。
ふと、目の前に座るルースに目線を向けると彼女もこちらを見てくすぐったそうに笑う。嬉しいが気恥ずかしさもある、そんな気持ちはリリアもルースも同じなのだ。
「ここまでして頂いて、なんだか申し訳ないです」
「いいのよ、私がしたかったの。私が嬉しいのよ」
その言葉に偽りはない。リリアの手を見て、まだ若いのにもかかわらず懸命な彼女に何か出来ることはないかと瑠璃子は思ったのだ。
昔、瑠璃子の家で働く女性たちの手は荒れていた。だが、そんな彼女たちに瑠璃子が何かすることは出来なかった。雇用主の娘である瑠璃子が何かするのは嫌味になるのでは、そんな配慮からだ。
だが、歳を重ねた今ならば若い彼女たちにする行いは自然なものとなる。
「歳を重ねるのも悪い事ばかりじゃないのよね。年長者の特権だわ」
「?」
「ふふ、こちらの話よ」
桃の節句のひな祭りに瑠璃子もまた、歳を重ねることで見れた孫娘の成長や若い少女たちとの触れ合いに心癒されるのだった。
*****
暗くなったため、灯りのある大通りを三人は歩く。冒険者でもあるナタリアがいるため、危険はないがそれでも身を守るため用心は必要なのだ。
柔らかくなった手の香りをルースが確かめている姿に気付いたリリアはふっと口元を緩める。フードを被り、髪を目元まで隠したルースはいつも通りだ。
だが、共に過ごした時間の中で、少しだけ距離が近付いた。おそらくそれはルースも同じことだろうとリリアは思う。
瑠璃子と恵真から土産にと手渡されたのは小瓶に入ったクリームだ。リリアとルースに先程使った保湿クリームを分けてくれたのだ。ナタリアはケーキを貰っている。
「私はこちらのクリームの方がいい」そう言って笑う姿はナタリアらしく、皆が笑った。
リリアもまた、自身の手を見る。今朝よりしっとりとした手はリリアに少し自信を与えてくれる。だが、瑠璃子に荒れていた手も「頑張り屋の手だ」と評して貰った。そのどちらもが、リリアの背中を押してくれる。
翌日から、リリアには眠る前にすることが増えた。一日の疲れを取るように、丁寧にクリームで保湿するのだ。自分自身を労うように、揉みほぐす。
クリームの香りに安心して、リリアは眠る。
朝、目覚めてふっくらとした手を見ると、リリアは今日も一日また頑張れる気がするのだ。
それはルースも同じである。彼女もまたあの日以来、同じように手にクリームを塗っている。
同じ空の下、懸命に働く二人の少女は小さな瓶のクリームに勇気づけられ、今日もまた店に立つのだ。
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