114話 桃の節句とリリアの憂鬱
買い物帰りの恵真の足取りは軽い。その足元は春らしい淡いブルーのスニーカーだ。雪も降らなくなり、地面には茶色い土が覗く。もうしばらくすれば、庭の準備が出来るだろう。何を植えようかと恵真は今から待ち遠しい。
すっかり風も日差しも温かくなり、外へ出るのも薄手のコートですむ。恵真の足取りも服も冬と比べて軽やかである。
少しずつ近付く春に恵真の心も少し弾むのだった。
「あったあった! ほら、この奥よ」
そういって祖母の瑠璃子が押し入れから取り出したのは、ひな飾りの一部である。
一部であるというのはこのひな飾りがそこそこ大きいものだからだ。
祖母の瑠璃子が小さい頃から実家にあったこのひな飾りは7段ある。そのため、出すのも片付けるのも一苦労だ。
そんなひな飾りを久しぶりに出そうと思ったのは、恵真がここに来たことが大きい。毎年、手入れこそするものの瑠璃子だけでは出すことが難しいのだ。
だが、せっかく恵真がいるのだ。久しぶりにひな人形を飾ろうと瑠璃子は思い立ち、こうして恵真と二人押し入れの中から引っ張り出していた。
「ねぇ、おばあちゃん。おひな様とお内裏様の配置はわかるけど、それ以外まったく自信がない。右大臣と左大臣ってどっちから見て右で、どっちから見て左?」
二つの人形を持ったまま、恵真は右か左かと悩んでいる様子だ。かろうじて橘と桜の位置は間違ってはいないようだが、眉をしかめながら真剣な表情で飾り付ける恵真に瑠璃子はくすくすと笑う。
「お内裏さまたちから見て、右と左よ。あぁ、そうそう恵真ちゃん、お内裏様で二つの人形を指すのよ。おひなさまっていうのはお人形全てを指すわね」
「そうなの!? ずっと間違えて覚えてた」
「まぁ、こうして飾る機会がないとわからないわよね。昔はこうして皆で飾ったものよ。懐かしいわぁ」
ひな人形を出す祖母の顔は嬉しそうでもある。華やかなひな人形は場所こそ必要なものの、やはり圧倒的な存在感だ。
「ほら、恵真ちゃんの家には恵真ちゃんのお母さんのひな人形があるでしょ? それにこれを出すとなると一仕事なのよね。でもやっぱり、こうして出してみると華があっていいわぁ」
「小さい頃はこうして出して、ここで写真も撮ったよね」
「そうねぇ、懐かしいわ」
こうして飾る時間もまた楽しいものだと恵真は思う。クロがちょいちょいと前足でひな人形を確かめようとするのを嗜めつつ、恵真と祖母はあれやこれやと話しながら飾り付けを楽しむのであった。
*****
クランペットサンドを発売してから、ポールも意欲が増した。売り上げの上昇はもちろん、店をより良くしたいという娘の意志を感じたからだ。店頭では今日もリリアが積極的に人々に声をかける。
「クランペットサンド、残りわずかですよ! いかがですか?」
「じゃあ、俺たちも1つ貰おうか」
「ありがとうございます。おひとつずつですね」
小さな頃から店先に立つリリアは快活で手際も良い。手慣れた動作でパンを包み、笑顔で手渡す。そんなリリアに客の口もつい緩む。
「いやぁ、リリアちゃんみたいな子がいるとお父さんも助かるね」
「いえ、まだまだです」
誉め言葉に謙遜しつつ、リリアはそんな言葉を嬉しく思う。仕事を評価されるのはリリアにとって、何よりも誇らしいことなのだ。ついつい、笑みがこぼれる。
だが、そんな微笑みも次の言葉で瞬時に消える。
「作業も完璧、接客も完璧、これで男の子だったらなぁ」
「バ、バカ!」
「あ! いや、そういうつもりじゃ」
「……いいえ。はい、こちらクランペットサンドです」
すぐに気持ちを切り替えてリリアは接客をする。謝りながら2人は帰ったが、リリアはぼんやりと下を向いて考える。
そう、彼に悪気があったわけではない。むしろ良かれと思っての言葉だったのだろう。だからこそ、傷付くのだ。
それはリリア自身が一番思うことでもあったからだ。
父のポールはリリアが店を継ぎたいと思っていることにあれから何も言わない。跡を継ぐことを認めてもらえたのかどうか、それもわからない。
祖父や父のようになりたいと思うリリアだが実際、力仕事も多い。リリア自身、努力ではどうにもならない差に苦しむこともある。
仕事を誇りに思う一方で、そんな葛藤もリリアは抱えているのだった。
*****
「可愛いねぇ、ちっちゃいのにお顔がちゃんと描いてあるよ」
「あぁ、細工が丁寧だな。この服は伝統的なものかな」
「おそらくトーノ様のお生まれになった国の伝統衣装だろうな」
「手がかかってるっすねぇ」
恵真が飾ったのはちりめん細工のひな人形だ。7段のひな飾りを出せない祖母が買ったのは、小さく玄関やリビングにも飾れる可愛らしいサイズのひな飾りである。
お内裏さまだけの飾りを親王造りという。やはりあるとその場が華やかになるものだ。シンプルだが、愛らしいその姿は現代の住宅事情にも合っている。
「か、可愛いわ……お化粧もしてるわ。まぁ、扇子も持っているのね」
「うむ。か、格好いいな……よく見ろ、刀を持っているぞ」
リリアとナタリアはその愛らしさにじっとひな人形を見つめている。十二単をまとい、黒い瞳と黒髪なのも2人からすれば神秘的に思えるのだ。また、その持ち物まで細やかなのにも驚かされる。
「高貴な御方を模した人形なのだろうな。対であることから婚姻関係を結んでいるのか? そして黒髪であることも興味深いな……」
「あぁ、この武将は帯剣している。これだけの長い剣を扱えるのだ。武に秀でているのかもしれん。……格好いいな」
異なる観点から人形に興味を持つリアムとナタリアだが、リアムの考察はおおむね合っていた。
ひな人形のお内裏様は天皇と皇后を模していると考えられている。男雛と女雛の並びも明治以前は逆であったのだ。
「ひな人形と言って、女の子の健やかな成長を願って飾るものなんです。段ももう少しあって、そこに飾るお人形の並びも決まっているんですよ。まぁ、私も祖母に教えて貰ってなんとか飾ったんですけどね」
「……ってことは、他にもあるんすね、こういうのが。で、それはどんなのっすか」
「はい、別の部屋にありますよ。それは7段飾りですね。お人形や道具がもっと増えて……ちょっと飾るのが大変でした」
何気なく言ったその答えにバートもリアムもちらりと視線を交わす。
そう、トーノ・エマは他国の貴族の生まれだと思われる。そんな彼女の祝いの飾りが手が込んでいるのも、華やかなのも当然のことなのだ。
日頃、恵真が丁寧だが質素で、地に足の着いた生活をしているため、ついつい忘れそうになってしまう。もっとも、行動には時折驚かされているのだが。
「女の子の健やかな成長を願う、ですか?」
「うん、だからお人形がなくってもいいんだよ。ひな祭りっていうんだけど、家族とか親しい人と女の子の成長を願う行事なの。だから、本当は私みたいに成長したらあんまり飾ったりはしないかも」
少々気恥ずかしさもあり、恵真はそういって笑うがリリアにしてみれば衝撃である。マルティアの街に限らず、スタンテールでは男児の方が家を継ぐことが多い。貴族はもちろん、庶民であっても家を継ぎ、働き手となる男児を望む声も多くあるのだ。リリアにとっては辛いが、それが世間の感覚なのだ。
華やかで美しい装いをした人形を見れば、恵真の話が事実であることはわかる。美しい人形にリリアは先程とは違う思いを抱く。
「エマさまのお国では女の子に生まれてもこんなに喜んでもらえるんですね」
ふと、口に出た言葉に先日の件を思い出し、リリアは涙がこぼれそうになる。
懸命に努力しても追いつかないもの、変えられないことがあるならば、どうして頑張っていけばいいのかすらわからない。そう、リリアは思うのだ。
だが、リリアのその言葉で恵真はハッとする。
「そうですよね、リリアちゃんがいるんだからお祝いしてもいいですよね!」
「へ?」
ぱあっと表情を明るくした恵真はリリアの手を取る。その手のひらはふんわりとして柔らかい。毎日の仕事でリリアは少し手が荒れているので、少し自身の手に気後れする。だが、恵真は嬉しそうに言葉を続ける。
だが、恵真は気にした様子もなく言葉を続ける。
「ひな祭りって女の子のお祝いなんで、祖母と二人だとお祝いするって感じでもないかなって思ってたんだ。でも、ひな祭りにちなんだ料理は作ろうかと思ってたの。リリアちゃんがいるならお祝いしてもいいよね!」
「え、えっと、お祝いって何をするんでしょう」
リリアの手を取ったまま、恵真はにっこりと笑う。
「女の子同士で話をしたり、お祝いのごはんを食べたりするだけだよ。ダメかな?」
恵真の言葉にリリアは耳を疑う。リリアが女子に生まれたことを恵真は祝おうと言っているのだ。
「男の子であれば」そんな言葉をかけられたことは幾度となくある。リリア自身もそう思うことが度々あった。
だが、女子に生まれた子の成長を願うという考えは初めてである。また、庶民においては生まれた日を祝うことはない。
自分のことを祝って貰う、それ自体がリリアにとって初めてのことなのだ。
「エ、エマ。それは私も参加可能なのだろうか?」
「いいですよ。リリアちゃんとナタリアさんと……あ、アメリアさんも呼びましょう。あとは―…」
「ア、アメリアさんもっすか? じゃ、じゃあ、オレも……」
リリアへの誘いに、少し遠慮しながらもナタリアが声をかける。もちろん、恵真は始めからナタリアも誘うつもりだ。
だが、バートの言葉に少し迷って困った表情になる。
「うーん、今回はちょっと。ひな祭りに男の子が参加しちゃダメってわけじゃないんですけど、ある心配があるんですよね」
「何かバートが失礼を働きましたか?」
「リアムさん! ……え? してるっすかね、オレ」
リアムの冗談になぜか心当たりでもあるのかバートは真剣に悩み出す。
恵真はぶんぶんと手を振って、それを否定する。恵真が気にしているのはここにいる者のことではないのだ。
「ち、違いますよ! えっと、端午の節句っていって男の子のお祝いもあるんです。そのときは皆でお祝いしましょう。テオ君とアッシャー君も一緒にね」
「え、はい。ありがとうございます!」
「エマさん、その時期になったら教えてね!」
自分のことを祝うというのはアッシャーやテオにもない経験だ。テオは目を輝かせ、アッシャーは少し恥ずかし気に微笑む。
そんな中、リリアは手を頬に当てたまま、真っ赤に頬を染め、立ち尽くす。
何かをして男性と同じように働くこと、あるいは超えることで認めて貰えるのだと思っていた。そのために努力するべきなのだとリリアは考えてきた。
だが、何もせずともそのままで認めて貰い、祝って貰える。そして男女それぞれにそんな祝いの日があると恵真は言うのだ。
急にすっぽりと自分自身を包み込む言葉に触れて、リリアはぐっと涙を堪えるのだった。
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