109話 ワインとチャイと温かな心 4
空からは雪が降り続ける。
サイモンは2、3度瞬きをしたが、その表情はやはり読めない。
吐く息が白くなり、冷えた空気の中に溶けていく。僅かな時間だが冷えた空気の中の沈黙はリアムに緊張を与えた。
品質の良い薬草を公平な価格で、ギルドに卸す恵真の功績は大きい。冒険者ギルドと薬師ギルドを通じ、広がった薬草は冒険者の多くが買い求めている。
また料理の点を考えれば、安価で味が良く健康的な食事が広がり始めた。今まで、価値の低く見られていた豆やじゃがいも、そして新たに米が注目されている。
そんな恵真がこの街を離れる可能性、それをリアムは恵真本人が口にするまで気付いていなかった。恵真のいる喫茶エニシ、その存在がこの街にもリアムの生活にも溶け込んでいたからだろう。
「そうだね」
呟いたサイモンは少し遠くを見たが、再びリアムに視線を戻す。
「彼女がどこに行こうと、どう生きようと止める権利は我々は持たないのだよ。女神の在り方を我々が望むことなど出来はしない。」
サイモンの答えを黙ってリアムは受け止めた。
それはリアムも恵真がこの街を離れる可能性を示唆された時点で、頭に浮かんでいたことだ。止める権利を自身が持たないことをリアムもまた知っている。
だからこそ、リアムは今日にいたるまで恵真がこの街から離れる可能性を口にすることはなかったのだ。
「……確かにそれは彼女がお決めになることです」
おそらくは理由はあって国を離れた彼女がこの街で過ごしていること、その知識を使い薬草を振舞っているのは偶然と彼女の厚意に過ぎない。
だが、それを理解してもリアムの心がなぜかそれを拒む。
「何か彼女の力になれればと思ってはいるのですが」
ためらいつつ、言葉にしたリアムにサイモンは顎に手を置き、考えを巡らせる。何やら目の前の青年は思うことがあるようだが、サイモンからすれば答えは単純だ。
「リアム君。君は侯爵家として女神の側にいるのかい? それとも冒険者として側にいるのかい?」
「……私は」
今度の問いかけは予想していなかったもので、とっさに答えは出てこない。
だが、サイモンはリアムの答えを待たずに持論を口にする。
「どちらにしても出来ることがある。侯爵家としても冒険者としても、女神に仇なすものは蹴散らせ!」
「……はぁ」
聞いたのが間違えだったのかと思うような暴論だが、サイモンは本気のようだ。
「何をため息を吐いているんだい? 君から尋ねて来たんじゃないか」
「そうですね。あぁ、ですが最初の質問に答えて頂いていませんよ。彼女が他の場所へ行かれたらあなたはどうなさるのですか?」
極端なサイモンの答えに深くため息を吐いたリアムだったが、再び同じ問いをサイモンにする。先程のサイモンの答えから、ほぼその予測はついている。恵真の在り方を決めることは出来ないと言ったサイモンならば、それを受け入れるのだろう。
そう考えたリアムにサイモンは白い歯を見せる。
「もちろんついていくさ」
「は……?」
「女神がどうあろうとも私はあの御方についていくつもりだよ。女神の在り方は私には決めることは出来ない。だが、私がどう生きるかは私が決められるからね!」
にこやかに紳士的に笑うサイモンだが、その発言はリアムの想像を超えている。だが極端だがシンプルな考え方に、ここ最近の自身の考えの小ささにも気付かされる。
愚直に恵真を称え、信じるサイモンの在り方は極端ではあるが変わらぬ信念があるのだ。
「そうですか。あなたらしいと思います」
「リアム君もリアム君の答えを出せばいいのだよ」
「私の答え、ですか」
それが簡単に見つかれば、サイモンに問うことはしなかっただろう。
ふぅと吐いた白い息は再び、冷たい空気に混ざって消えていくのだった。
*****
「香りがいいな。1つくれ」
「俺にはその酒じゃない方にしてくれ」
「あぁ、どちらも女神がお作りになられたんだよ。素晴らしいものだ。さぁ、そこの君も彼らに続くんだ!」
ホットワインもホットチャイもなかなかの評判で、先程から客足が絶えない。そんな中サイモンは機嫌良く、訪れた人々に薬草と恵真の素晴らしさを語る。
風変わりな紳士の様子にも皆は酒も入っていることもあり、笑いながら列に並ぶ。
集まった人々はホットワインやホットチャイを飲みながら、他の店へと歩いていく。マルティアの街を活気づけようというアメリアたちの考えは、なかなか悪くなかったようだ。
「いやぁ、来週も楽しみにしてるよ」
「こちらは本日しか店を出しません。本日限定なんですよ」
「そりゃあ、残念だな。おい! ここは本日限定の店らしいぞ」
その言葉をきっかけに数人の男たちが列に並ぶ。ホットチャイは先に空になり、鍋の残りも少なくなってきた。もうすぐ全て完売であろう。恵真が用意してくれたブランケットもほうじ茶も使わなくて良さそうである。
他店より先に完売した喫茶エニシ臨時店は早めの店じまいとなったのだ。
「お疲れ様です。寒かったでしょう。温かいお茶か何か用意しますね」
「いえ、夜分に長居するわけにはいきません」
労う恵真の言葉をリアムはやんわりと断る。予定より早く終わったが、もうすでに夜遅い。女性の元に長居しては礼を失するだろうと考えたのだ。
「私でしたら構いませんよ! ぜひ、女神のお茶を頂きたい」
「行きますよ、サイモンさん」
サイモンが残りたいのは珍しい薬草に関して、恵真から何も聞いていないためであろう。そんなサイモンを半ば強引に連れ出そうとしたリアムは、首元のマフラーに気付く。そっと首元から淡いパープルのマフラーを取ると丁寧に折り畳み、恵真の前へと差し出す。
「ありがとうございました。助かりました」
「あぁ、着けて行ってください」
「え」
折り畳んだマフラーを持つリアムの手を恵真が押し返す。
「外は寒いですから。今度来るときで大丈夫ですよ」
「……ありがとうございます。では、お借りします」
せっかくの厚意を断るのも無粋であろう。リアムは再びマフラーを手にすると今度は自身で巻く。立派な体躯を持つリアムと柔らかなモヘアのマフラーは、どこかちぐはぐな印象だ。
だが、ふんわりと首元に巻かれたマフラーを見て、恵真は満足気に頷く。首元を冷やすのは体に良くないのだ。
「サイモンさんは本当に何も着けなくって大丈夫ですか?」
「あぁ、女神! そうなのです。私はまだ寒さがありまして、ここで薬草を入れた紅茶などを頂けばすぐに治るかと思うのですが……」
「それは大変ですね。では、一刻も早く帰るべきです」
先程まであれほど元気に屋外にいたサイモンは急に弱音を吐き、リアムがそれを阻止する。
サイモンの何が何でも薬草を欲する気持ちは、恵真にも伝わっているのだろう。くすくすと笑いながら、キッチンへと向かう。しばらくすると、小さなカップを2つ持ってこちらへと歩いてきた。
「こちらをどうぞ。柚子のハチミツ漬けをお湯に溶かしたものなんです。そこにシナモンを少し振りかけました。これなら、サイモンさんも温かくご帰宅できますよ」
「えぇ、女神! あぁ、やはり女神の御心は我々には図り知れませんね!」
ほくほくと笑みを浮かべ、満足そうにサイモンは紙のカップを受け取るとやっと帰宅の意志を見せる。
「それでは、ありがたくこちらはお借りして参ります。後日、お返し致しますね」
「では、女神。良い夜を!」
恵真に軽く会釈をして、サイモンとリアムはドアの外に出た。雪はまだ降り、寒さも変わらないが人手は先程より増えてきたようだ。
サイモンは上機嫌で、恵真に貰った紙コップの飲み物を口に含む。爽やかな香りとほろ苦さ、そこにシナモンの甘く刺激的な香りにサイモンは何度も頷く。
「うんうん。今日は素晴らしき日だね! 薬草に乾杯、女神に乾杯!」
上機嫌なサイモンに少し口元を緩めながら、リアムはその隣を歩く。積もった雪にはうっすらと足跡が付くが、またしばらくすれば雪が積もり、それを隠していくだろう。
足元から冷える夜だが、リアムはそこまで寒さを感じることはなかった。
それが恵真から渡されたマフラーのおかげか、帰り際に渡された飲み物の効果なのかどちらなのかはわからない。
いつの間にかサイモンは随分と先を歩いている。
彼の言う通り、恵真の在り方も生き方も彼女自身のものである。だが、自身の心や行動は自分で決めてよいものなのだと彼を見ていると再認識する。
侯爵家としてか、冒険者としてか、恵真の側にいる自分がどうあることを望んでいるのか。
寒空の下、ほろ苦く甘い飲み物を口にしつつ、リアムは考えるのだった。
*****
温かな紅茶にとろりとしたハチミツを入れ、スプーンでかき混ぜたバートはゆっくりとそれを味わう。濃厚なハチミツだが、紅茶の風味を損ねない。どちらも上品な味わいにバートは頷く。
喫茶エニシにはリリアとアメリアも訪れている。有志が始めた出店の催しは好評のようでその報告に来たのだろう。
「週末に店を出すようにしたら、その流れで店の中に入る客も増えてね。少しずつだけど活気が戻ってきたんだよ」
「それは良かったです。ルースさんの案が合っていたんですね」
「そうなんだよ。控えめな子だけどちゃんと自分の意見がある子だね」
今回の催しの発案者は風の魔法使いルースである。控えめな彼が意見を出すこと自体、勇気のいることだ。そんな催しが成功したことは自信にも繋がったことだろう。
そんな会話をしている恵真とアメリアの様子を、リリアは黙ってじっと見つめていた。恵真に注がれる熱視線にバートも思わず指摘する。
「リリアさん、いくらトーノ様が好きだからって見過ぎっすよ」
「あっ、で、でも気になることがあって」
じっと恵真を見つめるとおずおずとリリアは話し出す。今日、店に来て恵真を見てからリリアには気になっていることがある。だが、それを口にしていいのかわからず、恵真のことをじっと見つめていたのだ。
「えっと、その、エマさま。お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「うん、いいよ。なんでも聞いて?」
恵真は特に気にした様子もなくリリアに頷く。その反応にほっとしたのかリリアが話し出す。そんな様子をアメリアはにやにやと見つめている。アメリアもまた、リリアと同じことが気になっていたのだ。
「その、そのネックレス、どなたかに頂いたんですか?」
「ん、あぁ、これ?」
何気なく首元のネックレスを手に取った恵真に、バートが突然大声を出す。
「えええ! マジっすか!? でもまだ決まってはないし?」
「バート、うるさいよ! で、お嬢さんそのネックレスはどうしたんだい?」
ネックレスを持ち上げた恵真をリリアもアメリアも、そしてバートも真剣な表情で見つめる。恵真はその理由もわからず、目を瞬かせるが特に隠す必要もない。正直に皆に伝える。
「リアムさんですよ。このまえマフラーをお貸しして、そのお礼だそうです」
「!!!」
声にならない悲鳴が3人から飛び出す。ネックレスが誰かに貰った物、それも皆が知るリアムからとは予想外のことである。
「っ! 坊ちゃんがかい? おや、これは事件だよ」
「ちょっと待って、え、そういうことですよね?」
「いや! トーノ様はわかってないっぽいっす! まだ大丈夫っす!」
ネックレスで騒ぎ出した3人に恵真の表情も曇る。恵真もまたこのネックレスには思うことがあるのだ。恵真は深刻な顔で俯く。
「やっぱり、貰い過ぎですよね。マフラーと日頃のお礼だっておっしゃってて、ご好意を無下にするのも頂いたんですけど、返した方がいいんでしょうか?」
「ダメだよ、お嬢さん。せっかく坊ちゃんから頂いたんだ。取っておきな」
「そうですよ! 複雑ではありますがエマさまがお望みなら応援致します!」
スタンテールの庶民は身に着ける贈り物を特別なものとして捉える。それには相手への親愛を示す意味合いがあるのだ。無論、アッシャーとテオのように幼い場合は別である。
マフラーを貸した恵真に対し、ネックレスを贈ったリアム。これをアメリアやリリアはどう捉えたかというとその騒々しさからも明らかだ。
一方のバートは冷静になり、別の視点で考える。スタンテールの庶民の習慣を侯爵家のリアム、そして他国から来た恵真が知るはずはないのだ。
そう、あのネックレスには感謝の意味以外にはありえないだろう。
バートはなぜか胸を撫で下ろし、ハチミツ入り紅茶をゆっくりと味わうのだった。
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