108話 ワインとチャイと温かな心 3
用意した小鍋に恵真はまず少量の水を入れる。
紅茶に適した水が何が良いか、こだわりのある者も多いかもしれない。恵真が使うのは水道水である。水道水は安全であるし、何より軟水なのだ。
紅茶に適しているのは軟水か硬水かで比較すると軟水であると言われる。そのこともあり、恵真は喫茶エニシで出す紅茶にも水道水を使っていた。
「エマさん、お水少なくないの? お茶が苦くなっちゃうよ」
「ふふ、大丈夫。あえて濃く煮出すのがコツなのよ」
心配そうにカウンター越しに鍋を覗き込むテオに、恵真は笑いながら言う。
「ロイヤルの紅茶と同じですね!」
アッシャーはロイヤルミルクティーの作り方を覚えていたようだ。
「そう、あの時と同じ。よく覚えてるね、アッシャー君。これはね、ホットチャイって言うのよ」
「ホットチャイですか」
火にかけ、沸騰し始めたところで香辛料を加え、茶葉も加える。
今回、恵真が用意したのはシナモン、そしてカルダモンだ。カルダモンはその豊潤な香りからスパイスの女王とも呼ばれる。カレーにはもちろん、菓子にも使われることのある甘い香りが特徴の香辛料なのだ。
今回、恵真はどちらもパウダー状のものを使う。屋台向けに作るときはこれにショウガも加える予定だが今回は使わない。アッシャーとテオがいるからだ。
辛みの強いショウガは刺激も強いため二人には控えたが、体も温まり屋台には向くだろう。
煮出した茶葉と香辛料に牛乳と砂糖を注いで温めていく。キャラメルがかった色合いは見た目も美味しそうである。それを茶こしで綺麗に濾して、カップへ移していく。
カップを手に持ち、すんすんと匂いを嗅いでいたテオがぽつりと呟く。
「これ、大人な香りがする」
「確かにそうかもしれないね。もし、味が口に合わなかったら無理はしないでね」
香辛料の刺激が強ければ、苦みや辛さに感じられるかもしれない。味覚は子どもの方が敏感なものだ。念のため、恵真は無理のないようにと伝える。
おそるおそるカップに口をつけたテオはこくりと頷き、満足した表情になる。
「やっぱり、大人の味だ! でも僕でも飲めるよ!」
「ぶはっ! 確かにそうかもしれないっすね。うん、この味がわかるのは大人っす。いやぁ、成長してるんすねぇ。偉いっす」
砂糖で甘く味をつけたホットチャイは子どもでも飲める。だが、テオにしてみれば少し冒険をした感覚なのだろう。
その言葉に吹き出したバートだが、テオの子どもらしい反応を愛らしく感じたのか否定せずに大げさに誉める。テオも嬉しそうにバートを見て笑う。
そんな様子に恵真は微笑みながら、アッシャーとテオに意見を求めた。
「どうかな? 味は問題ない?」
「はい! 甘さも香りもあるし、ミルクが入っていて優しい味ですね」
「うん、僕は美味しいって思うな」
大人の味が楽しめたことにテオはどこか誇らし気である。だが、子どもでも飲めるのであれば、屋台でも多くの人が飲めるものになるはずだ。恵真の試作品のホットチャイはひとまず、成功と言えるだろう。次は赤葡萄酒の方である。
夕方に訪れるリアムに試作品はどのような感想を貰えるだろうかと恵真は期待をしつつ、その時間を待つのであった。
*****
約束通り、夕方に喫茶エニシに訪れたリアムはなぜか不本意そうな表情を浮かべている。理由は隣で気品ある服装をしているのにも関わらず、そわそわする紳士にある。
ここに来る途中、リアムは薬師ギルドの中央区域の支部長であるサイモンに捉まった。穏やかな笑顔で彼を撒こうとしたリアムだが、自身が関心があることへのサイモンの勘は鋭い。なんだかんだと言いつつ、リアムに付いて喫茶エニシまで訪れたのだ。
「申し訳ありません。このような事になってしまいまして」
「いえ、試飲してくださる方が増えるのは助かりますよ。どうぞ、お二人とも席に座ってください」
恵真としては味の感想を聞ける人物が増えたのはありがたいことでもある。恵真はサイモンとリアムに席に着くように促すと、キッチンへと向かった。
その様子に嬉しそうにサイモンがリアムへと話しかける。
「ほら、やはり女神は寛大だよ! 私のことも歓迎してくれているじゃないか」
「えぇ、そうですね」
素っ気ないリアムの対応だが、サイモンは気にした様子もなく嬉しそうだ。カウンターキッチン越しの恵真の作業を熱心に見入っている。
そんなサイモンの視線はあるものにくぎ付けだ。それは彼が愛してやまないものであろう。サイモンも初めて見るがこれが新しい薬草なのだと彼の勘が訴えているのだ。
「女神! それは薬草でしょうか!? 今回はそれを使った酒なのですか」
「えぇ、でも以前使ったシナモンと同じですよ。これをパウダー状にしたものがいつも使用しているものなんです。あ、こっちのクローブは初めてですね」
興奮して酒を呑む前から期待で頬を染めるサイモンに恵真が頷く。
恵真が用意したのは赤葡萄酒、シナモンスティック、クローブ、オレンジジュースとハチミツだ。恵真は小鍋にオレンジジュース以外のものを入れ、煮立てていく。
その様子を何度も頷きながら機嫌良くサイモンが見つめている。隣のリアムは真剣な表情で恵真の作業を見つめていた。
今、恵真が作っているのはホットワインである。
ホットワインは冬に好まれる飲み物で、海外ではよく作られる。手軽に作られることから最近では日本でも飲まれるようになってきた。
煮立てたワインにオレンジジュースを加える。これは爽やかさと飲みやすさを考慮したためだ。果物自体やドライフルーツを入れることもあるのだが、今回はより軽く多くの人に好まれるような味わいを意識した。
「どうぞ、ホットワインです。ご試飲お願いします」
「ありがとうございます」
「あぁ、女神! ありがとうございます!」
ホット用のグラスに入ったワインからは爽やかな柑橘類の香りとシナモンとクローブの甘さと刺激のある香りが広がる。口に含むと赤ワインの酸味も、加熱とハチミツによりまろやかさが出て飲みやすい。これは今までにない酒の楽しみ方だとリアムは思う。
何より、そこにまた新たな薬草を何気なく使ってしまう恵真の思い切りの良さにリアムは驚くばかりだ。
いつの間にか、恵真と喫茶エニシはリアムたちの日々の中に必要な存在になっている。だが新たな薬草を前に、その存在が貴重なものであると再認識したリアムにはどこか恵真が遠くも感じられる。
隣で絶賛し続ける熱量高いサイモンとは違い、リアムの心はなぜか沈んでいくのであった。
*****
週末の夕方、準備をする恵真は今夜の天候が気になっている。マルティアの街の空は今朝から雪がちらついているのだ。
ホットチャイは保温機能のある卓上ポットに入れて2つ用意した。ホットワインは鍋に入れ、携帯コンロで加熱して温めることにしている。折り畳みのテーブルと椅子を店の前にリアムとサイモンが運び出してくれていた。
そう、なぜかホットワインに感激したサイモンが店頭で販売に加わりたいと言い出したのだ。「この素晴らしさを伝えられるのは女神を置いては私しかおりません」その熱意を恵真は戸惑いつつも、ありがたく受け入れた。
リアムは何も言わないが、一人では色々と大変であろうと心配していたのだ。
「椅子に座るとき用のクッションとブランケットも持って行ってください。きっと足元から冷えると思うんです」
「お気遣いありがとうございます」
カゴに入れた暖かそうなブランケットには恵真の配慮が感じられ、リアムは笑みを浮かべる。窓の外はすでに暗くなり、ランプのオレンジ色の灯りも増えていく。
内緒事を聞かせるように恵真は、リアムに小さな声で話しかける。
「カゴの中にお二人用の水筒も入れておきました。ほうじ茶です。自由に飲んでくださいね」
礼を言おうとするリアムより先に、ずっとそわそわと入り口前にいるサイモンがリアムに声をかける。サイモンは早く店に立ち、この薬草入りのワインと紅茶の素晴らしさを人々に伝えたくて仕方ないのだ。
「さぁさぁ! リアム君! 我らとこの素晴らしき薬草を待つ人々のために急がねば!」
「……とのことです。ありがとうございます。後ほど頂きますね」
カゴを受け取ろうとしたリアムだが、恵真はカゴを持ったまま渡そうとはしない。リアムが不思議に思い、恵真を見ると何やら真剣な表情でリアムの顔を見つめる。
「リアムさん! その格好で外に出るつもりですか? ダメです」
「はい?」
「首、手首、足首を冷やすのは体に良くないんです!」
「はぁ……」
カゴから手を離した恵真が自身の手や首を指しながら言う。何やら恵真は真剣であるが、その意味が分からないリアムはカゴを手に持ったまま、ぼんやりとした相槌を打つだけである。
そんな様子に焦れたのか、恵真は壁付きのハンガーラックからぱたぱたと自身のマフラーを持ってきた。淡いパープルのマフラーはふんわりとして上品なものだ。
「頭を下げてください」
「え……」
「さぁ、早く」
仕方なしに頭を下げるリアムに恵真が少し背伸びをして、マフラーを彼の首にかける。ブランケットの入ったカゴを持ちながら頭を下げているリアムは、この格好をはたから見れば面白いものだろうと思いつつ、素直に従う。
リアムの首元でマフラーを結んだ恵真は、彼の姿を見て満足気に頷く。
「これで大丈夫ですよ!」
「ありがとうございます」
よく聞けばリアムの言葉が戸惑いがちだったことに気付くだろう。
だが、そんなことを気にする者はここにはいない。恵真は防寒のことが気がかりであったし、サイモンは薬草のことしか頭にないのだ。
「あ、サイモンさんは寒くありませんか? 首元はスカーフがありますけど何か貸し出しましょうか」
そんな恵真の問いに興奮で頬を染めたサイモンは即答する。
「いえ! 今の私は高揚しておりますゆえ、お気遣いは不要です。さぁさぁ、リアム君!」
しびれを切らしたサイモンに、ぐいぐいと引っ張られるようにしてリアムは外へと向かう。その様子をくすくすと笑いながら見送る恵真に、少し困ったようにリアムは笑い、会釈をするのだった。
すっかり暗くなった街に弱く柔らかなランプが灯っている。空からは雪が降り、積もった雪にも灯りが反射しているのか夜でもそれほど暗さを感じない。
だが、その寒さは確かで吐く息は白く変わる。
「素晴らしいね! この寒さの中でも、街を歩く人々に女神と薬草の素晴らしさが広まっていくんだよ!」
隣で熱量高く話すサイモンに困ったように笑い、リアムは街を行く人を見る。週末のこの催しは初のこととなるが、その効果もあるのか人出は最近では良い方だ。
テーブルにはコンロや保温効果のあるポットなどの魔道具が並び、それだけでも他店より目を引くだろうとリアムは思う。
何より、コンロの上の鍋には薬草入りの温かなホットワインが湯気を立てているのだ。
「新しい薬草、やはり女神は素晴らしい御方だよ。そう思わないかい、リアム君!」
「えぇ、そうですね。このような魔道具や新たな薬草、それらを惜しみなく人々に提供するトーノ様の御心は素晴らしいと私も思います」
目を輝かせ、同意を求めるサイモンに、リアムは一瞬間を置いて恵真を称賛する。その言葉に嘘はない。だが先日、恵真の口から出た「自分がいなくなったとしても」という言葉がどうにもリアムの頭から消えないのだ。
隣のサイモンだとすれば、恵真の言葉をどのように捉えるのだろう。ふと、そんな疑問がリアムの中によぎる。
薬草の女神と恵真を称えるサイモンであれば、自分とは異なった視点でその言葉を受け止めるのではないか。そんな思いからリアムはサイモンに問いかける。
「もしトーノ様がこの街を離れるとおっしゃったら、サイモン殿はどう思われますか」
こちらを見たサイモンの表情からは特に動揺は感じられない。リアムは彼の返答をじっと待った。
鍋に舞い落ちてきた雪は、湯気で落ちる前に消えていく。ワインが温められるくつくつという音だけがリアムの耳にやけに大きく聞こえるのだった。
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