104話 ほろ苦く甘い柚子と約束 3
薄いグラスにそっと口をつけ、こくりとジゼルは水を飲む。喉を通る冷たさに緊張もほぐれていくような心持ちになる。
サシャに無理を言って気分転換の外出が許された。当然、護衛の兵士を数人付けられたのだが、衣類を見たいと言って店外で待たせ裏口からそっと逃げ出したのだ。彼らには気の毒なことをしたが、これも仕事のうちと諦めて貰おうとジゼルは思う。
側にいた少年がにこりとこちらを見て微笑むので、ジゼルもつられて笑みを返す。
首元のスカーフを触るジゼルに店主である女性が声をかけた。
「素敵なスカーフですね」
「えぇ、知人に貰ったものなの」
かつてこの街で出会った友人と呼べる少年に貰ったスカーフを、この街に来てからジゼルは身に着けている。彼の瞳と似た色で刺繍が入ったスカーフである。
身に着けていれば、公演への不安からそのスカーフが守ってくれるような気がしたのだ。
「オシャレですし、喉を温めるのはいい事ですもんね」
「そうなの?」
「首、手首、足首を隠すと体が冷えにくいんですよ」
ジゼルは初耳なのだが、確かにこのスカーフを巻いてから喉の調子はそこまで悪くない。前の街では最悪の状態で、ステージに立つことを拒んでしまった。思い出しても恐ろしい出来事だ。
「何かありましたか?」
ジゼルの表情が陰ったのを見た店主が心配げに声をかける。その声からも案じているように感じられ、ついジゼルの口から弱音がこぼれる。
「ずっと喉を痛めているのよ」
言葉にすればそれだけであるが、ジゼルの抱えてきた不安や葛藤は重く暗い。歌で生き、それで評価されてきた彼女にとって声の不調はすべての物が土台から崩れていくような恐怖である。
その苛立ちがここ歌姫ジゼルの最近の悪評の原因となった。
弱さを口にすれば、人々は離れていき興行にも影響する。何より、「女神から与えられた聖なる歌声」を期待している人々に失望されるのが恐ろしかった。
「うーん、じゃあ何をお出ししようかな……あ、いいのがありますよ」
そう言うと店主はキッチンで何か作業をし始めた。少年たち二人も気にした様子はない。喉を痛めていると打ち明けても、案じて貰えただけである。
この場では誰も彼女が歌姫ジゼルとは知らないのだ。訪れた一人の女性客として扱われていることに気付いたジゼルは一気に心が楽になる。
「ふふふ、ここは良いお店だわ」
「みゃう」
可愛らしい鳴き声に目を向けると黒い小さな動物がいた。澄んだ瞳でこちらを見ている。その深い緑色にジゼルは40年前にこの街で出会った友人を思い返す。彼は今もこの街にいるのだろうか。
「あのお客さん、凄いね。クロさまを見てもびっくりしないなんて」
「恵真さんの黒髪と黒い瞳にもそんなに驚いてなかったな」
テオの言葉にアッシャーも頷く。この店に来た者は恵真の黒髪黒目、そして魔獣であるクロに皆は驚愕するのだ。
歌姫ジゼルは緑の瞳を持つ動物が魔獣であることを知らない。黒髪黒目の女性がどれだけ希少であるかもだ。歌の道に打ち込んできた彼女はそれ以外のことには疎い。
昔読んだおとぎ話の黒髪黒目の聖女のような店主、そして懐かしい緑の瞳を持つ愛らしい動物。そんな店を選んだ自分の勘の良さにジゼルは久しぶりに機嫌が良くなっていた。
ことりと置かれたグラスに入った飲み物はほぼ透明だ。爽やかな香りと共に店主が運んできたグラスには温かな飲み物が入っている。
「ガラスなのに熱いものを入れても大丈夫なの?」
「えぇ、耐熱性です。熱いのでゆっくり飲んでくださいね」
言われた通り、そっと口を近付けると爽やかな香りとほろ苦い甘みが広がる。柑橘類特有の清々しい香り、ほろ苦さもある風味にハチミツのホッとするような甘さも加わった飲み物だ。
「柚子を使ったんです。喉にいいと言われていますし、ビタミンCも豊富で風邪を引きやすいこの時期にはいいと思います。あ、ハチミツも喉にいいって言いますよね」
「初めて聞いたわ。ユズって言うのも知らないわよ」
「あ、そうですよね」
「まぁ、よくわからないけど味はいいんじゃない?」
ジゼルの言葉におろおろとしていた店主だが、味の感想を聞くと表情がぱっと明るくなる。その素直な反応は嘘がなく、ジゼルを安心させた。
「この街は変わったわね」
「以前もいらしたことがあるんですか?」
「えぇ、遠い昔にね。まぁ、私も変わってしまったのだけど」
ジゼルは繊細なレースのカーテンの向こうの冬の空を見つめる。再会を誓い、この街を訪れたが今更、どんな顔をして会えばいいのか彼女にはわからないのだ。
40年の歳月は彼女の姿も声も変えた。
「会いたい人がいたの。でも、こんな姿じゃ会えないわ。私はすっかり変わってしまったもの」
声にして出せば、自分の心にも悲しみが染み渡る。
だが、今更何かが変わるものでもない。首元のスカーフをジゼルはぎゅっと握りしめた。
「え、どうしてですか?」
目の前の店主は目を瞬かせ、心底不思議そうな表情を浮かべジゼルを見つめる。自分から見れば、まだ若い店主は老いていく不安自体がわからないのだろうとジゼルは思う。
「どうしてってあなた、私はもうこの歳だし40年前とは声も変わってしまって……」
「それは40年でしたら変わりますよ」
「それじゃダメなのよ。皆、私に期待する。かつての姿を私に求め、それが失われていたらがっかりするに違いないわ。せめて声だけでも維持していたいのよ」
そんなジゼルの言葉に店主はじっと考え込んでいるようだ。
自分の悩みでもないのにと思いつつ、真摯に向き合う姿勢には好感を持てた。抱えていた悩みはごく自然に受け止められ、ジゼルの心はそれだけで軽くなる。
そんなジゼルに店主は何か大事なものを打ち明けるようにそっと話しかけた。
「私、ずっと料理が好きだったんです」
「えぇ、こんなお店を開くくらいなんだからそうでしょ?」
真剣な表情で話し出した店主が口にした言葉は、ジゼルにとっては当然のことのように思える。だが、店主は頷くとなおも話を続けた。
「でも、ずっとそれを忘れてました」
「え?」
「忙しさで料理をすることもなくなっていたんです。あんなに好きだったのに」
「じゃあ、なんでお店を開くことになったのよ」
ジゼルの問いかけに店主は笑顔を見せ、2人の少年を手招きで呼び寄せる。
小首を傾げながらも自身の両隣に来た2人の背中に、店主が手を置く。
「この子たちのおかげなんです」
そう言われたジゼルが2人の少年を見ると、柔らかそうな髪の少年は嬉しそうに、もう片方のハリのある髪の少年は照れながら笑っている。
理由のわからないジゼルは店主を次の言葉を待った。
「この子たちが私の作った料理を『美味しい』そう喜んでくれた。自分の作ったものを喜んでくれる人がいる。私になんで料理が好きだったか思い出させてくれたんです」
「なんで好きだったかを……」
そう、ジゼルも歌が好きだった。彼女が歌うと家族の表情が明るくなるのだ。歌姫と呼ばれ出した少女の頃も客席の人々の表情が、彼女が歌いだすと明るいものになる。その瞬間はいつも嬉しいものだった。終演後の拍手と笑顔に毎回、喜びを感じていた。
「でも、ずっとしていなかったことをすぐに始められたの?」
ジゼルの問いは歌うことをやめることへの恐怖からくるものだ。
彼女が最近不調でも歌い続ける理由の1つが、歌えなくなることへの恐れだ。歌えなくなれば自身の全てを失う気がした。
不調であると知られれば、皆が離れていくだろう。そんな思いから感情的に振舞うようになり、結果的に公演を中止したのも我儘さからだと解釈された。
だが、それはジゼルにとっては都合がよかった。自分の要である歌に問題があるとは知られたくなかったのだ。今こうして話せるのは、店主たちが歌姫ジゼルだと気付いていないからだ。
「経験や努力は見えないけど、自分の中に残るんだと思います。好きなことなら尚更そうなんじゃないかな」
「自分の中に残る?」
その言葉に店主は頷く。彼女にもまた不安になることがあるのだ。だが、そんな不安を吹き消してくれるのが近くにいる先輩たちである。
「私も不安になることがあるんです。でも、先を行く人たちがその経験や努力を力にしているのを見ると、年齢を重ねることは経験や技術を積み重ねていくことなんだなって思えるんです。経験や努力がしっかりと自分の中に残るように頑張らなきゃなって」
その言葉にジゼルは目を瞠り、そして気付く。
ずっと過去の自分に執着していたのは他でもないジゼル自身だったのだ。経験や努力を重ねたジゼルを皆は今も認め、受け入れている。だからこそ各地でジゼルを待つ人々がいる。
客席に立ち、彼女が歌いだしたときの皆の笑顔、そして曲が終わったときの割れんばかりの拍手と声援は今も変わらないのだ。
「先を行く人たちね。その中に私も入るのかしら?」
グラスを手に取り、ジゼルが尋ねる。今までのジゼルであれば、老いていくことは恐れであった。だが、経験と努力は自分の中に残るのであればその恐れもほんの少し軽くなる。
「はい! お店に入ってきたときからオシャレなお客さまだなと。スカーフもですし、リップの色とかも素敵で……いえ、ジロジロと見ていたわけではないんですよ! ほら、今はお客さまも他にいないので!」
「別に構わないわ」
日頃から人目を集めているジゼルにとっては大したことではないのだが、店主は動揺しあたふたとする。先程までの様子とはまったく違うその素振りに、ジゼルは内心で「おかしな子だわ」と思う。
そこには歌姫ジゼルではなく53歳の女性として見てオシャレだと褒められるくすぐったさもある。
再び口にしたユズという果実のほろ苦さとそれを美味しいと感じる自分に、ジゼルは歳を重ねることも悪くないと思えたのだった。
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