105話 ほろ苦く甘い柚子と約束 4
すっかり体も心も気分転換できたジゼルは、宿に戻ってソファーに横たわっていた。手に持った小瓶は明かりに照らされ、その中身も美しく感じられる。
喫茶エニシで帰り際に小さなガラス瓶を店主に渡されたのだ。
その小さな瓶には細かく切ったものが入っていて、ジゼルが何かと尋ねると店主はユズのハチミツ漬けだと言う。お湯か水で溶かして飲むといい、ユズもハチミツもどちらも喉に良いのだと店主が説明してくれた。
「この私にお酒を呑むな、なんてサシャですら言えないわよ」
喉には酒も刺激が強いのもダメだと店主に言われたのだ。
この瓶が空になったらお湯で瓶ごと茹でて乾かしたのち、トルートの実と皮とハチミツで同じように作るようにも指示された。まったくもっておかしな店主だったと思いつつジゼルは起き上がる。
ふと、視線を向けた先には鏡がある。そこに映るジゼルは笑みを浮かべていた。笑えば当然皺もよる。
だが、そんな自分もまた悪くないと不思議と今のジゼルには思える。
そのとき、ドアからノックの音が聞こえた。持っていた小瓶を彼女はテーブルの上に置くと声をかけた。
「どうぞ、入っていいわよ」
些か不用心にも思えるが、ここに入れたという事は許可を貰っていることになる。その時点で問題のない人物なのは明らかなのだ。
やはり、ドアを開けて入ってきたのはジゼルも見知った者、サシャと護衛の冒険者だ。ここマルティアの冒険者ギルドが指名した者らしく、冒険者としては洗練された男だ。
ギルドから指定された護衛がつくと聞いたとき、40年前に警護をした人物ではないかと一瞬ジゼルは期待した。歳月が流れ、そのようなことはあり得るはずはないのに、彼女の心の中には少年であった彼の存在が色鮮やかに残っているのだ。
「彼が何か君に渡したいものがあるそうなんだよ」
困惑したようなサシャだが、ジゼルは動じることなく整った顔立ちの青年を見つめる。柔らかい表情で口元を緩めた青年もジゼルを見つめ、大切なことを打ち明けるように胸元から手紙を取り出した。
「あら、ファンレターかしら? それともラブレタ―?」
冗談交じりに微笑むジゼルに、紺碧の瞳の青年もまた微笑みを浮かべる。彼は手紙の主に託された内容までは把握していない。だが友人に託された手紙は、渡された時のその表情からも重要なことだけは伝わっていた。
「こちらは40年前にあなたを警護した少年から託されたものです」
「っ!」
冒険者の言葉にジゼルはひゅっと息を呑む。40年前に再会の約束を誓った者が少年であること、そして彼女の警護をした人物であることを知るものはいない。それを目の前の青年は知っているのだ。
「その人の瞳の色は何色だった?」
震えそうになる声を必死で抑えながら、ジゼルは紺碧の髪の青年に尋ねる。表情に出さないようにしたつもりだが、上手く隠せた自信はない。
「彼の瞳は深い緑色です。そのスカーフのような」
「……そう。わかったわ。ありがとう」
首元に巻いたストールに無意識に手が伸びる。もう片方の手を青年へと伸ばし、彼から手紙を受け取った。飾り気のない封筒に、いつも素っ気なかった少年の態度が思い起こされて笑みがこぼれる。
「それでは、私は外の警護に参りますので」
「っ! あぁ、そうだね。僕も彼に確認したいことがあったんだ」
冒険者ギルドからの推薦があるだけあって、青年は相手の思いを考え行動できるようだ。そんな彼の配慮に気付いた付き人のサシャもまた慌てて気を遣う。
だが今のジゼルにはそんな2人の気遣いがありがたい。少しでも早く、その手紙の内容を確かめたかったのだ。
2人が去った後の部屋の中、震える手でジゼルは封を開ける。中から出てきたのもまた素っ気ない便箋でジゼルはくすくすと笑い出す。
大切なものを確かめるようにジゼルは折りたたまれた便箋を開き、その内容を読み始めた。
” 君がこの街に来たと知ってボクは驚いたよ
40年前の約束をまさか君が覚えているなんて思わなかったから
まず結論から言うと、ボクは君に会えない
でも、会場のどこかで君の歌声を必ず聴くよ
それは絶対だ
だからその歌声を遥か遠く、ボクのいるところまで響かせてほしい
人は変わるものだと言う
でも変わらないものだってあるはずだ
君が歌を好きなこと、君の歌が人々を喜ばせること
きっと今も変わらないんじゃないかな
じゃあね ”
ぽたぽたと零れ落ちるしずくが便箋に吸い込まれて、小さなしみを作っていく。
だがジゼルの表情には悲しみはない。静かな部屋の中に小さく聞こえるのは彼女の笑い声だ。
「何よ、勝手ね。これが40年振りに来た友人への手紙なの?」
歳月は人を変える。だが、変わらないものも必ずあるとジゼルも今なら信じられる。おそらくは彼もまた、姿かたちは変わったのだろうとジゼルは思う。
だが彼女に送られたその手紙の中に、変わらない彼の姿を感じたのだ。素っ気なくもこちらを思いやる、そんな彼の言葉はジゼルの心にすんなりと溶け込んでいく。
「いいわ。どこまでだって響かせてあげる。歌姫ジゼルがここにいるって、あなたにもわかるようにね」
素っ気ない便箋に書かれた手紙をぎゅっと抱きしめて、ジゼルは姿の見えない友人と再び約束を交わすのだった。
*****
その日、会場には多くの人々が訪れ、席について歌姫ジゼルの登場を今か今かと待ち構えていた。だが、会場に入ったものの座席にはつかず、ロビーの階段に座り込む少年の姿がある。
人目を引く緑の瞳の少年は会場には入れない。40年経ち、変わっているはずの姿はあの頃のままだからだ。
手紙はジゼルの警護を冒険者ギルドより依頼されたリアムに託した。
40年前の約束を守れないが、せめてこの場にいて必ずその歌声を聴くということは伝えたかったのだ。
人気のないロビーに温かな日差しが差し込む。今日は快晴だ。天気など特に気にしたことのないオリヴィエだが、今日の天気には感謝した。40年振りのジゼルの公演には青空が似合うだろう。
「リアムが警護についてくれてて良かったよ。安心してここにいられるね」
リアム本人には決して告げない感謝をぽつりと溢したそのとき、凛とした歌声がオリヴィエの元に届いた。
確かにその声はかつての歌声とはまるで違う。オリヴィエは目を瞠り、その後微笑みを浮かべた。可愛らしい少女の聖なる歌声からは確かに変わっている。
だが、大人の円熟さを持ち、人々を慈しみ包み込むような歌声は心の琴線に触れるものだ。それは間違いなく彼女の人としての経験、成長からもたらされたものだろう。生まれ持った才能だけではない、彼女の努力や重ねた年月が今の歌声を作り出しているのだ。
「本当、席に着かなくって良かったかもしれないね」
冬の晴れ間、窓から差し込んできた光がオリヴィエを温かく照らす。頬に光る雫を拭うこともせず、ただその歌声にオリヴィエは身を委ねる。
その日、会場に響いた慈愛の歌声は訪れた人々の心に沁みるものだった。
歌姫ジゼルにかつての「聖なる歌声」を求める者は既にいない。その最後の1人であったジゼル自身が今の自分を認め、受け入れたからだ。
凛とした美しさを持ちながらも人々を包み込む慈しみの歌は、これからも多くの人に愛され、支持されていくだろう。
40年前の約束を果たす歌姫ジゼルの公演は、彼女自身にとっても大きな転機となったのだ。
*****
数日前の晴天が嘘かのように、今日は曇天の空が広がる。
そんな中でも喫茶エニシに集う人々は賑やかに話し合う。話題の内容は先日の歌姫ジゼルの公演だ。喫茶エニシだけではなく、公演後から街中がこの話題で持ちきりなのだ。
「いやぁ、凄かったらしいっすねぇ。警護についてた奴らも大絶賛っす。なんだか歌姫ジゼルの雰囲気も変わって、警護終わりには笑顔で挨拶してくれたらしいっすよ」
心境の変化があったのかはわからないが歌姫ジゼルの張りつめた空気は一変した。優雅で落ち着きのある振る舞いに、警護をしていた者たちもついつい見とれたらしいとバートは語る。
「ほら、あたしらの言ったとおりじゃないか」
「うーん、まぁ結論から言うとそうなんすけど。何か大きな心境の変化があったんじゃないっすかね」
歌姫ジゼルの話題で盛り上がる面々だが、オリヴィエは一人ソファーに座る。先日、会場にいたことはここにいる者には話していない。知っているのはリアム、そしてリアムを警護に推薦し、オリヴィエに手紙を書くように勧めたセドリックだけだ。
「皆さん、これの試飲をしてみませんか?」
そう言って恵真が入れたのは、柚子のハチミツ漬けで作った柚子茶である。先日作った柚子のハチミツ漬けが、ちょうど良い浸かり加減になったのだ。
スプーンで掬ったハチミツ漬けをカップに入れ、そこに湯を注ぐと柚子の爽やかな香りが広がる。
「これはなんだい?」
「柚子っていう果実を使ったハチミツ漬けです。これをお湯に溶かして飲むと、体も温まるし、喉にもいいって言われてるんですよ」
アメリアの問いに恵真が答える。ハチミツも柚子もどちらも喉には良いと言われているのだ。柚子とハチミツを組み合わせた飴や飲み物も様々に売られている。
こくりと飲んだリリアの表情が柔らかくなる。ほろ苦さもあるがハチミツの甘みもあり、どこかホッとする味わいだ。爽やかな香りはそれだけで気分転換になるだろう。
「これ、前に作った果実のシロップの庶民向けっすね。砂糖は難しいっすけどハチミツなら出来る家も多いっすよ」
「あぁ、確かにこれはお湯じゃなく、冷たくしても飲めます。あ、私はまだ飲めないですけど、サワーにもいいかも」
そんな会話に目を光らせたのがアメリアだ。果実のサワーは既にホロッホ亭の人気商品だが、ハチミツ漬けを使ったドリンクはまた新たな視点である。
パッと振り向いて、こちらを見つめたアメリアの様子に恵真は笑って頷く。
「はい、アメリアさんにも教えますね」
「いいんすか、トーノ様。これは金取れますよ? 取っちゃいましょ、オレが交渉を手伝うっすよ!」
「あたしだって、ただでっていうつもりじゃないよ。お嬢さんには借りがあるんだからねぇ」
そんな言葉に恵真は少し悩む。喫茶エニシでも柚子のハチミツ漬けはしばらく出すが、酒としての提供は行わない。
何よりこの製法を隠すつもりは恵真にはないのだ。既に客の一人には教えてしまっている。
「あー、でももうお客さんに教えちゃったんですよ。喉が痛むって言われてたんで、瓶と一緒に作り方も教えたんです」
「そりゃ、一体どこの店の者だい?」
有益な情報を他店の者に知られたのかと恵真を案じたアメリアだったが、恵真は首を振る。あの日、訪れた女性客の雰囲気からはどこか不慣れな印象があった。久しぶりにこの街を訪れたと彼女自身も語っていたのだ。
「いや、初めてのお客さんで。久しぶりにこの街を訪れたそうなんです。とってもオシャレだったんですよ。深いブラウンの髪の方で、緑の刺しゅう入りのスカーフを首元に巻いて、本当に華やかな雰囲気でした」
ガンと大きな音が聞こえ、バートたちが振り返る。
ソファーに座っていたオリヴィエが、マグカップをテーブルに置いたのだ。
その緑の瞳をこちらに向け、驚いた表情のオリヴィエだったが皆の視線に気付き、肩を竦める。
「な、なんでもないよ。悪かったね」
「おぉ、素直に謝るときもあるんすね」
そんなバートの軽口にも反応せず、オリヴィエはマグカップの中の柚子茶を口にする。爽やかな香りとほろ苦さ、ハチミツの甘みが口の中に広がる。その味とマグカップから伝わる温もりにオリヴィエはほぅっと息を吐く。
恵真が手渡したという柚子のハチミツ漬けをジゼルもまた、どこかで飲んでいるのだろうか。きっと今度は違う街であの歌声を響かせるのだろう。
変わっていくものもあれば、変わらぬものも確かにある。
再び遠く去っていたジゼルを思い、また一口オリヴィエは柚子茶を飲むのであった。
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