103話 ほろ苦く甘い柚子と約束 2
柚子を手に持ったテオが手の中でころころと転がす。柚子はこちらにはないため、めずらしいのだろう。
「トルートみたいなものですか?」
「トルートってこの街でサワーに使ってる果物のことだよね」
恵真の問いにアッシャーが頷く。
以前、果実のサワーの作り方を教えたときにこちらにあるルルカの実と国産レモンを使った。こちらではレモンの代わりにトルートという柑橘系の果実を使っていると恵真は聞いていたのだ。
「多分、それよりは香りも、あと酸味も苦みも強いかな」
「じゃあ、この瓶のも苦いんですか? 皮もそのまま入ってますし」
アッシャーが眺めている小瓶に入っているのは柚子のハチミツ漬けである。昨晩、恵真が作ったものだ。ハチミツ色の瓶の中に薄切りにした柚子の皮が見える。
「少し苦みは残ると思うよ。でも丁寧に白い皮を取り除けば大丈夫。それが苦みの原因なの。湯がく方法もあるけど、皮にビタミンCがたくさん入ってるから今回は漬けてみたんだ」
「果実のジャムとシロップの時と似てますね」
「そうだね。今回はハチミツを使ってるのが違いかな」
恵真は柚子を洗った後、種を取り皮と実を外す。その次に皮と実の間にある白いわたをスプーンで丁寧にとった。白いわたが苦みの原因になるためだ。
皮を茹でて苦みを取る方法もあるが、加熱に弱いビタミンCを少しでも残したいとそのまま皮を漬ける方法を選んだ。また、こちらの方が手軽で時間もかからないのだ。
ゆずの皮を数ミリ程度の薄切りにしていき、煮沸消毒した瓶の中に入れる。そこに絞った果汁とたっぷりのハチミツを加えた。数日待てば、柚子のハチミツ漬けの完成だ。
「もっと大きな瓶にも漬けようと思ってるの。スプーンで白い皮を取るのを2人も手伝ってくれる?」
「はい!」
2人の声が重なる。恵真は柚子をテオから受け取ると、キッチンへと向かう。まず始めは柚子を丁寧に洗うことからだ。アッシャーとテオは料理をするのが嬉しいらしく、腕まくりをして手を洗いに行く。
バゲットサンドを販売した後の店は比較的客も少ない。混んでくるのは休憩時間のお昼頃である。
張り切るアッシャーとテオの姿に、恵真も口元が緩む。今日もまた喫茶エニシでは穏やかな時間が流れていた。
*****
冒険者ギルドは今日も騒がしい。だが、本来はこの時間はそれほど人は多くないのだ。皆、この時間帯は仕事を選び、その任務を果たすからだ。
だが、今日は仕事にあぶれた者もそれ以外の者もある噂をしきりと話す。
今日の歌姫ジゼルの公演が延期となったのだ。理由は不明でそれを皆が予測し、話し合うため、この時間になってもギルド内に留まっていた。
「なんだって延期になったんだ? 延期になるつっても客には迷惑な話じゃないか」
「大方、歌姫ジゼルの我儘だろう。気位が高くって扱いにくいって評判らしいぞ」
「前の街でも公演が中止になったって俺は聞いたぞ」
「おい、それじゃこの街でもか?」
その騒々しさに通りかかった冒険者ギルド長のセドリックとオリヴィエも眉をしかめる。ここは街の通りではない。れっきとした仕事場なのだ。いつまでもここに留まっていられてはギルドの風紀に影響する。
そう思ったセドリックが流石に注意しようかと一歩前に出ると、冒険者の1人が吐き捨てるように言う。
「金で揉めたんじゃないか。歌姫って言っても、所詮そんなもんだろ」
その言葉にセドリックよりも先にオリヴィエが男に詰め寄る。セドリックが止める間もないほどの素早さだ。驚いた男は後ろに引くが、その服をぐいとオリヴィエが引っ張る。
「やめろ、オリヴィエ」
「…………はぁ」
セドリックの言葉に、オリヴィエは叩きつけるように男の服を離すと、背を向け歩いていく。ふぅとため息を吐くとセドリックは男の肩に手を置く。何気ない仕草だが、その力は強く男の顔が青ざめる。
「いや、連れが迷惑をかけたな。だが、お前たち。ここは冒険者ギルドだぞ。いつまでもここで話し合っても時間がもったいない。早く仕事に取りかかった方が良くないか? なぁ?」
セドリックの言葉には強さは決してないが、その雰囲気からは一種の圧がある。冒険者たちは黙って頷くと、足早に去るか適当な仕事を見つけ、この場から離れだす。
その姿を満足気に見て頷いたセドリックはオリヴィエの後を追う。
めずらしく役に立ったギルド長に心の中で驚きつつ、受付のギルド職員たちはいつも通りの表情で男たちに仕事を探すのだった。
冒険者ギルドの一室にオリヴィエを放り込んだセドリックは腕を組み、壁に背中をつける。不機嫌な様子を隠そうともしないオリヴィエは木箱に腰かけ、じっと下を睨みつけている。
黙ってその様子を見つめているとぽつりとオリヴィエが呟く。
「……約束したんだ。いつか必ずこの街で会おうって。でも忘れてると思ってた。だって40年って人間には長いからね」
その言葉にセドリックは驚き、目を見開く。
歌姫ジゼルの約束の相手はオリヴィエだったのだ。
10年前、セドリックとリアムとこの街マルティアで出会ったオリヴィエは、各地をふらふらとするが必ずここに帰ってくる。その理由に歌姫ジゼルとの約束があったのだとセドリックは納得する。
すると、その表情を読んだオリヴィエが否定する。
「別にそれだけでここを拠点にしてたわけじゃないよ。君たちもいるし、変わらないこの姿で長居しても不思議に思われない場所は滅多にないんだよ」
「あぁ、そうか。ハーフエルフであることをこの街の奴ら大抵知っているからな」
オリヴィエとしては会う人々に自身の種族を説明する気はない。説明せずとも長年この街に住む人々は、オリヴィエがハーフエルフであることを知っている。
また冒険者が多く人の出入りが激しいこの街では、その場限りの付き合いもざらだ。
どちらの意味でもこの街マルティアはオリヴィエにとって居心地が良い。
「ボクは40年前に、彼女の警護を担当したことがあるんだ。王宮に入る前だね。冒険者ギルドを通じて、護衛の仕事が入ってそれで僕が選ばれたってわけ」
厳つい男性では13歳の少女に威圧感を与えてしまう。魔法に秀で、周囲にも護衛する本人にも緊張感を与えないのであれば、場の空気も乱さない。人々が楽しむ場であれば空気を乱さない配慮も必要になる。そういった意味でも適任であっただろうとセドリックは思う。
今回、冒険者ギルドにも依頼があり、歌姫ジゼルに優秀な冒険者をつけたのだが、13歳の少女であれば確かに護衛選びも慎重になるだろう。
「彼女は各地を廻っているから、同じ年頃の子どもがめずらしかったらしくってね、色々と話をしたよ。で、最後の日に言われたんだ。またここで会おうって」
「可愛らしい約束じゃないか」
セドリックが口元を緩めるが、オリヴィエは肩を竦める。
「子どもの約束さ。また明日ね、なんて言って会わないことだってしょっちゅうあるもんだろ?」
「でも、彼女は再びこの街を訪れたんだろう?」
「……」
その言葉にオリヴィエは何も返さず、眉間に皺を寄せる。その表情からは彼が何を考えているのかセドリックからは読み取れない。
だが、約束した少女と再び再会できるのだ。それは歓迎すべきことではないかとセドリックには思えた。
すると、こちらを見たオリヴィエがくすりと笑みを浮かべる。どこか悲し気なその微笑みにセドリックはオリヴィエの言葉を待つ。
「セドリックは、いや君たちは本当に人がいいね。ボクの存在をまっすぐに受け止めてくれる。でもね、時が経てば人は変わる。姿も心もね。だが、ボクは変わらない。そんなボクが彼女に会えるわけないだろ」
「…………」
その言葉にセドリックは言葉を失う。
そう、ハーフエルフのオリヴィエの姿は変わらない。数十年単位でもだ。
だが、40年という歳月は人には大きな変化を与える。13歳の少女は今、53歳の女性となってこの街マルティアを訪れているのだ。
40年経って、14、5歳の少年のままのオリヴィエと53歳となった歌姫ジゼル、その再会は困難なのだ。2人とも約束を守り、この街マルティアにいるというのに。
そのあまりの悲しい現実に、セドリックはオリヴィエの背中をポンと叩くと部屋を後にする。今は一人にするのが、友人として出来ることだとセドリックには思えたのだ。
一人になった小さな部屋で、オリヴィエは深く長いため息を吐いて肩を竦めた。
セドリックもまた廊下を歩きながら、深いため息を吐く。友人のために何か出来ないかとセドリックは一人頭を悩ませるのだった。
*****
その日、喫茶エニシに訪れた女性は物珍しそうにきょろきょろと室内を見渡す。
目元まで隠した深く被った帽子を上げて、じっくりとその目で確かめている様子だ。
入り口の細工入りのドアや繊細なレースのカーテンを見て、そこそこの高級店かと思ったが、出てきたのはまだ少年と呼べる2人の子ども、そしてその親であろう女性だ。
驚いたことといえば女性が黒髪黒目であることだ。客であるその女性も各地を廻ってきたが黒髪黒目の女性に出会ったことはなかった。
流石にその姿をじろじろ見るほど無粋でないが、つい店内を興味深く観察してしまう。
「どうぞ、お水です」
そう言って小さな子の方が持ってきたのは透明なグラスだ。その薄いグラスの中には同じように透明な氷が浮かんでいる。
これには女性客も目を瞠る。各地でその国々や街の有力者の晩餐に呼ばれたが、このような純度の高いガラスも氷も見たことがなかったのだ。
高級な家具や食器を置きながらも、小さな子どもが接客をするこの店に彼女は興味を抱いた。小さい方の少年に彼女は尋ねる。
「ねぇ、坊や。このお店の名前はなあに?」
ふんわりと柔らかな髪をした少年がにっこりと笑って答える。
「ここは喫茶エニシだよ。エニシっていうのは人の縁のことなんだって」
「人の縁……」
被っていた帽子を外し、視界が良くなった女性は再び店内を見渡す。
よく見ると小さな動物が棚の上で心地よさげに眠っている。子どもも女性も感じが良さそうで、女性客は内心ほっと胸を撫で下ろす。
一人で店に入るのは53年間生きてきて初めてのことなのだ。
喫茶エニシに訪れた女性客は今、この街で噂の歌姫ジゼル。
初めての冒険に、一人胸を高鳴らせていた。
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