95話 去り行く年と来たる年 2
久しぶりのおせち作りを前に祖母は大きな鍋を棚の奥から持ち出してきた。どうやら、煮しめを炊くのにその鍋を使うらしい。
恵真の家では年末はシンプルに年越しそば、年始には用意していたおせちやオードブルを食べていた。多忙な年末は母の負担も大きいため、それが良いということになったのだ。
そんな話を祖母にすると同意するように頷く。
「だって、大変なのよ。年越しの準備って。おせちやオードブル買うのも選べるし楽しくっていいわよね、私は賛成だわ」
「おばあちゃんも無理は―」
「私は今回作りたいのよ。せっかく恵真ちゃんが帰ってきたんだし、あちらに行くのも手ぶらはあれだしね。それになんだか懐かしくなっちゃって」
「懐かしい?」
「そうよ。私がまだ10代の頃は実家にたくさん人が集まるからって準備してたものよ」
そう言って祖母は懐かしそうに大きな鍋を見る。その見た目からも年月を伝えるその鍋は遠野家の味を代々守ってきたのだろう。祖母の煮しめを食べるのは恵真にとっても久しぶりのことである。
「おせちは何を作るの? 私で手伝えることや買っておいた方がいいものってある?」
「んー、そうね。作るのは黒豆でしょ、紅白なます、きんとんに伊達巻、煮しめに松風焼きに、エビチリなんてどうかしら? あ、ローストポークもいいわね」
「おせちだけど新しいものも入れるんだね」
祖母の言ったおせち料理は古くから続くものばかりだったが、最後に聞いた2品に恵真は驚く。エビチリにローストポークとどちらも和食ではなかったからだ。
確かにオードブルにはそういった料理も並ぶが重箱に詰めるイメージがない。不思議そうな恵真の顔を見て、祖母はおかしそうに笑う。
そんな祖母に恵真は自分のおせちのイメージを語る。
「ほら、おせちって色々所以があるでしょう? 黒豆はまめに働けるようにとか、きんとんは黄金色だから金運に恵まれるようにとか。だから入れる料理って決まってるんだと思ってた」
「そうね、それが伝統的なおせちの形よね。でもおせちってずっとだと飽きるじゃない?」
「え、えぇ?」
祖母の答えに今度は恵真が笑ってしまう。
おせち料理は砂糖や醤油でしっかり味を濃く、日持ちするように作られているのだ。それもまたおせち料理の歴史であり伝統でもある。
だが、祖母の瑠璃子はその味を飽きると断言してしまったのだ。
これからおせち料理を作ろうとするのは祖母であるため、恵真も何と答えていいのかがわからない。
「なんていうか、全部昔のままでなくってもいいかなって思うのよ。今と昔とじゃ過ごし方だって違うわけだし、伝統を残しつつ新しい形も取り入れたいのよね」
祖母が考える新しいおせちも確かに面白いと恵真は考える。
料理は食べる人、作る人とともに変化していくものだ。歴史や文化を守りつつ、そこに新たな形を加えることは何の問題もない。
「確かに日持ちはそれほど気にしなくってもいいものね。お店開いてたり、食の好みも変わってきてるし。少し変化があっても面白いかも。あ、でもおばあちゃんのお煮しめは絶対食べたいと思うよ、皆」
「やだ、嬉しいわ。じゃあ、決まりね、一緒に所以も考えましょ」
「うーん、じゃあエビはもちろん腰が曲がるまでで長寿でしょ? ローストポークはどうするの?」
「丸い塊を焼くから円満となりますように! でいいんじゃないかしら?」
所以というかこじつけのような気もしないでもないが、こういうのは形が大事なのだ。遠野家の今に合うおせちの形が2人の会話で出来上がっていく。
「いいと思う。あ、いくらの醤油漬けは作る?」
「そうね、お酒にもごはんにもいいものね」
「所以はどうする?」
「私と母との思い出ってところね」
そう言って祖母はどこか懐かし気に微笑む。
その姿は遠い日の思い出を確かめているようで恵真はただ静かにそれを見守った。祖母の思い出にひそかにかかわる黒い小さな生き物はブランケットの上ですやすやと眠っていた。
******
「そうか、あの方はオリヴィエを本当に少年だと思われているからな」
先日の喫茶エニシでの一件をリアムから聞いたセドリックは豪快に笑う。
156歳となるハーフエルフのオリヴィエは喫茶エニシでは15、6の少年だと思われているのだ。
だが、長く生きてはいるもののハーフエルフとしてはまだ少年時代にあたる。自分たちでは出来ない対応をしてくれている恵真たちと、彼らといるときのオリヴィエの姿をリアムもセドリックも好ましく思っているのだ。
「バゲットサンドの件だが問題はないか?」
「あぁ、ギルドの休み中は販売せずとも誓約状でも問題ない。ネンマツの最後の1日、ネンシの3日はギルドも休みだからな」
「あとは薬師ギルドのあの方だな」
軽くため息を溢したリアムにセドリックは頷く。
いつのまにかマルティアの薬師ギルドに入り浸っているサイモン。卸す薬草の件で話をするのは薬師ギルド長ではなく、彼になることだろう。
「それにしても早いもんだな」
「何がだ」
「トーノ様だよ。初めに黒髪黒目の御方が現れたと聞いたときは驚いたが、今ではすっかり喫茶エニシはこの街に大きな影響をもたらして、欠かせない存在になっている」
「……そうだな。違いない」
アッシャーとテオが突然、黒髪黒目の女性と会ったと話したときはリアムも驚いたものだ。だがその温厚さと思い切った行動、寛容な性格が街の人々の生活にも少しずつ変化をもたらした。
食事の知識や調理法に薬草と、じっくりと確実に恵真の行動はこの街の民に変化を生み出したのだ。
「赤ん坊と同じ力しかないとは信じられんな」
「だからこそ、我々がお守りする必要があるんだろう」
「……そうだな」
それが黒髪黒目の女性だからか、それともトーノ・エマだからなのか、それを尋ねようかと思ったセドリックだが言葉を飲み込む。
この街に恩恵をもたらした女性にも誠実な友人にも不躾だと気付いたからだ。
代わりに最終日の前日に喫茶エニシで開く食事会に、どうにか参加できないものかと話すセドリックに、「副ギルド長の許しを得られたらな」と笑ってリアムは背中を向けて出ていくのだった。
喫茶エニシでは悲しみに嘆く一人の紳士がいる。そう、薬師ギルドの中央支部長であるサイモンだ。
恵真から言われた年末年始の喫茶エニシの休みを聞いたサイモンは薬草の女神とその料理と出会えぬ日々を思い、1人悲しみに暮れているのだ。
「そうですね、確かに適切な休みを取ることは健康に必要なことです。薬草の女神とて、御体は人であられるのです。休息を取られ、より良い薬草とその料理を」
話す途中でサイモンは再び悲しみに囚われて言葉を失う。
そんなサイモンをテオが励ます。おまけにハンナ手製の刺繍が入ったハンカチを手渡すほどの気遣いを見せる。
ちゃんとしているが変な人だと思われていたサイモンは、喫茶エニシに頻繁に足を運び、その風変わりさも当然のものとして受け入れられている。
「泣いちゃうとご飯の味がわからなくなっちゃうよ」
「ありがとう、テオ君」
「テオ、サイモンさんは泣いてなんか……あっ」
まさか大人であるサイモンが泣いてはいないだろうとフォローをしたアッシャーだが、目元を拭う姿を見て言葉を濁す。
そんな様子を見ていた恵真が、サイモンの前に小瓶を差し出した。その小瓶には枯れた葉の粉末のようなものが入っている。
華やかさのない小瓶だが、それを見たサイモンの様子は一変する。
「そ、それはもしや」
「粉末にしたバジルなんです。これを年末年始の期間は、冒険者ギルドを通じて薬師ギルドへとお届けすることになったそうで」
にっこりと笑った恵真にサイモンは頷く。セドリックたちから話を聞いてはいたが、実際に目の当たりにするとそのありがたさが増す。喫茶エニシの休み中にも問題なく薬草が使えるようにという恵真の心遣いであろう。
薬師ギルドは休みがない。それは病やケガに休みなどないからである。その研究と薬の開発のために、彼らは交代で職務に勤しんでいるのだ。
彼らの信念でもあるが、同時に薬草や薬に対する異様な熱意の高さの証でもある。
今度こそ確実にサイモンのヘーゼルの瞳は涙で潤み、その涙は頬を伝う。
「あぁ、薬草の女神! あなたの素晴らしさを称える言葉が私には見つかりません。代わりに薬草を称えましょう! この質、香り、共に素晴らしいものです。鮮度の良いものを丁寧に乾燥させたからこその品です!」
「え、えっとありがとうございます。でも、こういう風に私が販売したら業者の方はお困りにならないんでしょうか」
恵真の不安にサイモンはにこやかに微笑む。
実際、その不安は的中している。香辛料として薬草を仕入れていた貴族の方は打撃を受けているだろう。だが、そんなことはサイモンの知ったことではない。
薬草の質が向上すれば、当然薬の質も向上し、より良いものを生み出すことが出来る。それが薬師としての務めであり、本質であるとサイモンは信じているのだ。
結果的に質の悪い薬草の価格は下がり、人々にも以前よりは買い求めやすくなった。それもまた恵真の功績だと彼は考えている。
「経済とはそういうものですから仕方がありません」
「そ、そうでしょうか」
「えぇ、そんな些末なことよりも女神のご判断でより多くの人々が救われている。そちらに目を向けてください」
商業ギルドの者かのように語るサイモンだが、その言葉は本心であり嘘はない。
戸惑いつつも、より多くの人に薬が広がる方はいいだろうと恵真はサイモンの言葉に納得する。
一方、サイモンの恵真への賛辞はまだ続くようだ。これには未だ慣れず、曖昧に微笑むしかない恵真であった。
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