75話 真っ赤なりんごのタルトタタン
目覚ましの鳴る10分ほど前に今日も恵真はクロに起こされる。
それは祖母が戻ってきてからも変わらないクロのルーティーンだ。
「おはよう、クロ」
「みゃう」
恵真の言葉に返事をするように鳴いたクロは座り込み、恵真の身支度を待っているかのようだ。じっと見つめている事からも恵真は支度を促されているように感じ、パタパタと着替える。
クロと共に階段を降りると祖母はゆったりとコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。新聞から目を離し、恵真に視線を移した祖母が笑いかける。
「おはよう、恵真ちゃん。今日も早いのね」
「うん、ほら今日はお店の日だからね」
「あら、そうだったわね」
そう言うと再び、祖母は新聞に目を移しコーヒーを一口飲む。
アッシャーとテオの訪問から2週間が経った。初めは戸惑い驚いたものの、祖母は喫茶エニシのある生活にすっかり適応していた。
変わった事といえば、恵真と祖母との会話だろう。
「アッシャー君とテオ君、これ好きかしら?」
「リアム君がいるなら安心だわ」
「バートったらまたそんなことを言っていたの?」
会ったのは数回ではあるが、祖母は彼らが信頼に値する人物だと感じたらしい。そして、4人もまた恵真の祖母である瑠璃子に敬意を払って接してくれている。
恵真にとって予想外であったのは香草と黒髪黒目のことを話した反応である。香草に関しては「それは立派な社会貢献だわ」と称賛され、黒髪黒目に関しては恵真を案じながらもかつての自分と重ね、納得したようである。
みゃうみゃうと鳴くクロが語るにはかつての恵真の祖先たちも黒髪黒目であったということから特別視されていたと祖母が伝えてくれた。
恵真の境遇が変わるわけではないが、この世界で「黒髪黒目」が特別視される原因の1つがそれであろう。
恵真が喫茶エニシを続けることを了解してくれた祖母ではあったが、いくつかの注意も受けた。1つは報告、相談、連絡を必ずすること。そしてもう1つがきちんと祖母を頼ること。
どちらも自身を案じての言葉であるため、恵真はただただ頷いた。
安全に関してはどうやらクロの保証があるようで祖母は納得したらしい。恵真を守るというクロと祖母の関係は以前より良好のようだ。
恵真も必死にクロと会話しようと試みるが未だその言葉が通じる事はない。
こうして喫茶エニシにはいつも通りの日々が戻ってきたのである。
*****
バジルのオイル漬けは結局、恵真の元へと戻ってきた。
恵真にオイル漬けを渡したリリアは緊張から一気に解放されたようでふぅと大きく息をつく。
「ごめんね、なんだか疲れさせちゃったみたいで」
「いえ、そんな! とんでもないことです!」
そんな恵真の言葉にリリアはぶんぶんと首を振る。
恵真にバゲットサンドを作ることを託されたのはリリアにとっては誇らしいことであった。貴重な薬草を預けられたことや代わりに作るよう言われたことはリリアにとって自信にも繋がっていた。
「やっぱり異国のお貴族様だったんすね」
「何かご事情があられるのだろう。だが、トーノ様の活動が制限されることはないようで良かった」
話し込む恵真とリリアと離れた位置に座る4人が安心したように話すのは先日であった恵真の祖母瑠璃子のことだ。
恵真の祖母、瑠璃子の首元のスカーフ、身に付けた宝飾品はどれも質の良い物であり、また華やかにまとめつつ斬新にも長くはない髪型からは異国の文化を感じた。所作や言葉も品が良く、身分の高さは疑いようもない。
また目を引いたのがまだ珍しい爪染であった。艶やかな爪の化粧はまだこの国で高位貴族の一部に取り入れられたばかりである。そのような流行を取り入れるだけの身分であるのだろうとリアムもバートも納得した。
出会った当初危惧していた後ろ盾となる人物の不在は瑠璃子と会って解消された。おそらくは離縁によって実家に身の置き場のなくなった恵真を、祖母である瑠璃子が他国へと逃がしたのだと彼らは考えたのだ。
「僕ら、卵焼きって言うのを食べたよ」
「うん、ふわふわしてて甘いんだけどしょっぱくて美味しかった」
「卵っすかー、やっぱり違うっすね」
魔獣ホロッホは未だ家畜化が完全には進んでいない。この国では未だ高価な卵を日常の中で食するだけの余裕があるのだろうとバートは頷く。
「それにね、クロ様の言葉がわかるんだって」
「うん、ルリコさんお話しなさってたな」
「は? 魔獣であるクロ様と会話できるんすか!?」
「伝承にはあるが、実際にそんな方がいらっしゃるとは……」
テオとアッシャーから聞いた恵真の祖母の情報にバートもリアムも驚愕する。
ただでさえ、魔獣というのは希少である。それもクロは深い緑の色をしているためかなり力の強い魔獣であろうことがわかる。
そんなクロと会話を交わす事が出来るというのは極めて稀な能力である。
魔獣を自らの従魔とし、共に暮らし、その意思を理解する。
トーノ家という存在にリアムは敬意を深めるのだった。
*****
喫茶エニシからバゲットサンドを預かったナタリアは冒険者ギルドへと入る。
新しい依頼が張り出される時間までまだだいぶあるため、この時間は職員以外の者は少ない。そのためこの時間にナタリアもバゲットサンドを持ち込んでいる。
入ってすぐに聞こえてきたのは副ギルド長であるシャロンの声だ。
「ですからあれほど申し上げたはずです!」
「すまない」
「……もうわかりました。今後はお気をつけくださいね」
今日もきっちりと髪を結わえたシャロンの前で、人一倍大きな体を小さく丸くして頭を下げているのはギルド長のセドリックだ。
その様子は窓口の職員たちにとっていつもの光景のようで、特に気にすることもなく業務を進めている。そんな様子に入り口近くで立ち止まるナタリアにシャロンが気付く。
「まぁ、そんなところでお待たせして申し訳ありません。バゲットサンドの搬入ですね。ありがとうございます。どうぞ、こちらのテーブルに下ろしてください」
「あぁ、ありがとうございます」
ちらりとセドリックを見ると肩を落とし、しゅんとしている。シャロンがバゲットサンドを預かり、職員と話している隙にそっとセドリックに近付きナタリアは事情を尋ねる。
「ギルド長、何があったんです?」
「あぁ、ナタリアか。久しぶりに書類仕事をしたんだ。その結果、記入する数字を一桁間違えてな……シャロンがその後始末に奔走してくれ解決したところだ」
「あぁ、それは何というか」
「完全に俺のミスだ……」
「自分でした事といえ、落ち込みますよね。実は私もリリアに待ち合わせの時間を間違えてめちゃめちゃに怒られまして」
「そうか、奇遇だな!」
「えぇ、本当に」
自身のミスで叱られたという偶然に2人はどちらからともなく手を伸ばし、握手を交わす。その様子を見ていた窓口の職員は首を傾げているが、2人の会話は更に盛り上がる。
「こういうときは旨いものだと私は思います」
「その通りだ! 旨い飯は全てを忘れさせてくれる!」
「この辺りで旨い店と言えばやはり」
「喫茶エニシだな!」
落ち込みながらもなぜか意気投合する2人の姿にシャロンの眉が顰められる。
「そうやって忘れてしまうから失敗をするのでは」そう思ったシャロンだが、今の2人に言ってもあまり効果はないだろう。
そもそも、セドリックは反省しているのならばなぜ自分を昼食に誘わないのかと内心でシャロンはむくれる。
こうして昼食を喫茶エニシで摂る約束を交わした2人をシャロンは複雑な気持ちで見つめるのであった。
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