72話 祖母と裏庭のドア 2


 嬉しそうな孫娘の呼びかけに、祖母である瑠璃子は固まったまま動けずにいた。

 恵真と見知らぬ黒猫の背後には若い日に見た扉がある。何度となく思い起こしたあの光景の中にある茶色の扉、それが今、目の前にあるのだ。

 あのときと変わらず、壁であったはずの場所に当然のように扉がある。その光景を瑠璃子は受け入れることが出来ない。

 

 「ばあば、猫ちゃんだよ。かわいいよ!」

 「ねぇ、恵真ちゃん。その猫ちゃんはどこから来たの?」

 「ん、わかんない。でもドアからかな」


 そう言って恵真は気にせず黒猫と遊び始める。

 突然、扉が現れてそこから黒猫が現れたこの事実に瑠璃子はわが目を疑う。だが、そこに扉はあり、おそらくはそこから猫がやってきたのだ。

 瑠璃子は恵真を抱きしめ、黒猫から距離を取る。一見すると普通の黒猫であるが、あの扉の向こうから来たのだと思うと恐ろしい。普通の野良猫であったとしても、このまま幼い恵真と触れ合わせることには抵抗があった。

 そっと猫を抱えると、瑠璃子は裏庭への扉を開ける。扉の向こうに広がるのは瑠璃子も良く知る裏庭、静かな田舎の夜である。

 抱えた黒猫を外へと出す。少し心は痛むが、恵真の安全が最優先だ。

 暗闇に溶け込む黒猫の姿を確認して、扉を閉める。よく見ると鍵もあるため、どこまで信じられるかはわからないが念のためかけておく。


 「恵真ちゃん、お片付けしてもう寝よう?お手々も洗おうね」

 「うん……」


 黒猫が気になるのだろう。裏庭へ続く扉を見て、少し寂し気な表情を浮かべる恵真だが、瑠璃子の言葉におもちゃを片付け出す。

 そんな様子に少し瑠璃子も落ち着きを取り戻す。扉が再び現れた理由はわからない。だが、あのときの瑠璃子と今の瑠璃子は違うのだ。

 時を重ね、数々の経験を経た瑠璃子には守るべき可愛い孫、恵真がいる。

 息子たちから預かった大切な宝を守り切ると瑠璃子は決意したのだ。



 翌朝、恵真の手を握り、階段を下りる瑠璃子は安心していた。

 昨日は一睡もせず、寝室に鍵をしっかりとかけ、眠りにつく恵真を見守った。キッチンからフライパンなど武器になりそうなものを持ち込み、寝室のドアの内側にはバリケード代わりになるように椅子を置いた。そのうえには重しになりそうなものもちゃんと乗せたのだ。

 日の出を見たとき、瑠璃子は安堵した。暗さは不安を倍増させるものだ。

 朝日に照らされた部屋の中、すやすや眠る恵真と扉のバリケードや散らかる台所用具を見た瑠璃子は笑いが込み上げてきた。

 きっとあれは悪い夢ではないかという気さえしている。

 だが、リビングダイニングに足を踏み入れて現実へと引き戻された。

 あの裏庭へと続く扉は、そこに確かにあったのだ。

 

 「猫ちゃん!おかえりなさい!」

 「みゃうん」


 そして、なぜかあの黒猫も当然のように部屋にいたのだ。

 その猫は恵真が「クロ」と名付け、祖母である瑠璃子の家で飼うこととなった。

 


 *****


 

 語り終えた祖母は困ったような笑みを浮かべる。

 それはそうであろうと恵真は思う。

 恵真自身も裏庭のドアとその向こうの人々の話をどう伝えようか悩んだのだ。およそ荒唐無稽な話であり、信じて貰うことは難しい。むしろ、話した相手に心配をかけてしまう事になりかねないのだ。そのため、恵真も祖母に話すことを決めつつも躊躇した。

 祖母自身はこの話を誰にも言えず、長年抱え続けてきたのだ。裏庭のドアやクロに対する不安、それ以上に自分自身にも不安を抱えていたことだろう。


 「20年以上前だから扉のことも、クロの事も私の記憶違いだってそう思うことにしていたの。だって、扉が突然現れるわけないんだもの。あなたのお父さんたちに聞いてもあったかどうか、覚えてないって言うから。クロも何かしでかしたわけじゃないわ……でも、それが間違いだったわ」

 「おばあちゃん?」


 祖母は立ち上がると座る恵真の隣に立ち、ぎゅっと抱きしめる。祖母の体温とかすかな香水の香りがふわりと恵真に届く。29歳になり、久しく会えずにいた恵真は祖母の手に触れた。丁寧に手入れのされた手はそれでも年相応の皺があり、確かな温かさを伝える。祖母の声が小さく零れる。


 「その結果がこれだもの。何があったの?恵真ちゃん。怖い目に合わなかった?ごめんね、恵真ちゃん」


 そう呟き、自身を抱きしめる祖母に、恵真の心がぎゅっと締め付けられる。

 確かに突然、裏庭のドアが異世界に繋がっている事に気付いたあの日、恵真はそのことを恐れた。

 だが、そのあと訪れた日々は恵真を変えた。

 アッシャーやテオが、リアムやバートが、喫茶エニシに足を運ぶ人々が、その出会いと交流が恵真を変えていったのだ。


 祖母が謝る必要など何一つない。むしろ、そんな祖母を傷付けてしまうのは自分の方ではないかと恵真は気付く。裏庭のドアに繋がる世界から恵真を守ろうとしている祖母、だが恵真はその世界の人々との交流を今後も望んでいるのだ。

 帰ってきたら必ず伝えねばと決意した恵真だが、心苦しさを抱きながら必死に言葉を繋ぐ。


 「おばあちゃん、あのね違うの。私は今、凄く充実していて、それはねあの裏庭のドアのおかげなの、おばあちゃんがここに来てほしいって言ってくれたおかげなんだよ!」

 

 恵真は立ち上がり、ほんの少し自分より背が低い祖母の肩に手を置く。祖母は見上げるように恵真を見つめた。

 祖母が謝る必要などないのだ。祖母に悲しい思いをさせたくない。そんな強い気持ちで、必死に恵真は裏庭のドアの向こうの人々を語る。


 「アッシャー君とテオ君っていう男の子たちにお店を手伝って貰っていて、困ることなんて全然ないし、2人とも家族思いの素直ないい子なの!それにね、リアムさんは穏やかで頼りになるし、バートさんは飄々としてるけど周りを明るくしてくれる。4人とも皆、私にとっては大切な人たちなの」

 「恵真ちゃん……」


 戸惑いながら自分を見つめる祖母に、恵真は必死で訴える。

 裏庭のドアから訪れた日々は、恵真とその日常を変えた。祖母が旅行で恵真にクロと家を預けたからこそ、この日々が訪れたのだ。恵真はその日々に感謝しているのだ。祖母に後悔などしてほしくはない。

 そんな懸命な恵真の言葉に祖母は耳を傾けてくれている様子だ。


 「喫茶エニシとそこに来てくれる人たちは、もう私にとっては大事な人たちなの」

 

 恵真の黒い瞳は少し濡れて光を受けて輝く。

 恵真の様子は息子たちから聞いていた姿とは異なる。彼らに聞いた恵真の姿は実家にいてもどこか所在なさげで、表情は優れなかったという。家族にも気を遣っている様子が常にあったというのだ。

 だが今、祖母である瑠璃子に裏庭のドアの世界を語る恵真は、子どもの頃のようなまっすぐな瞳で笑顔を浮かべている。おそらく恵真の言葉に嘘はないのだろうと瑠璃子は思う。

 見上げる孫娘の笑顔は窓から零れる光を受けて、明るく輝いて見える。それを見れば彼女の言葉が真実であることは疑いようもない。

 恵真の頬に瑠璃子は手を伸ばす。触れた頬は柔らかく、まだ小さな子どもであった日を思い起こすくらいにふっくらとしている。彼女が健康なのだと瑠璃子はまた実感した。

 だが、瑠璃子には恵真にどうしても言っておきたいことがある。それはこの部屋の変化に気付いたときに一番不安になったことだ。


 「わかったわ、恵真ちゃん。でも、忘れないでね。ここにもあなたの家にも恵真ちゃんを大事に思う人たちがいるんだってこと」

 「おばあちゃん……」

 「怖いのよ。小さい頃、聞いた話みたいに恵真ちゃんがドアの向こうの世界に行っちゃいそうで……怖いわ」

 

 そう言った祖母は恵真を見つめ、続けて何か言おうと口を開こうとしてすぐ閉じる。恵真が言葉の続きを待つが、祖母はかすかな微笑みを湛えて恵真の頬をそっと撫でる。大人となったこともあり、気持ちの上でもくすぐったい思いで恵真もまた笑う。

 だが、レースからの温かな日差しの中で祖母と見つめ合う、恵真の穏やかな時間は他でもない祖母によって破られる。

 それを先に察したクロは既に棚の上に避難をしていた。


 「あらあら、そうだわ。他にも恵真ちゃんに聞かなきゃいけないことがあるわね」

 「ん、なに?」

 

 祖母に頬を撫でられながら、恵真がにこりと祖母に尋ねる。

 そんな可愛い孫娘に、同じようににこりと微笑みながら祖母は言う。


 「お店って何かしら?あとアッシャー君とテオ君、まぁ子どもさんなのかしらね。でもリアムさんとバートさんって、もしかして男性かしら?まさか、そんなわけないわよねぇ。あぁ、わかったわ!お店の名前が喫茶エニシね。……それって恵真ちゃんは関係しているのかしら?」

 

 自身を責める祖母を案じた恵真は必死になって話した事柄、それはすべて祖母にとっては初耳であろう。そもそも恵真はそのことを祖母に説明し、謝罪するつもりであったのだから、説明する手間が省けたとも言える。

 だが、物事には順序が必要であると、微笑みながらも静かな怒りを湛える祖母を見て恵真は身に沁みて思う。


 「えっとね、何っていうか、その……」

 「いいのよ、恵真ちゃん。まだ午前中だもの、時間はいくらでもあるわよ」


 逃げ道がないと恵真は悟る。年齢を重ねた祖母の笑みには逆らえない凄みがあった。観念した恵真は目を泳がせながら、事実を口にする。


 「おばあちゃん、あのね。わ、私、異世界で喫茶店をやってます!」

 

 恵真の頬に触れていた祖母の手に驚きで力が入り、むにっと恵真の頬が握られる。痛みはないが情けない姿のままで恵真は祖母を見つめる。


 こうして自身で予測していた通り、恵真は29歳にして祖母に叱られることとなったのだ。

 

 


 

 

 

 

 


 

 

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