71話 祖母と裏庭のドア 


 自分の若い日の事を話したいと祖母は恵真に言う。その頃の祖母は今と全く違うと笑いながら言う姿に恵真は首を傾げる。

 恵真が知る祖母は自由そのものだ。大らかで思い立ったらすぐ行動できる、およそ自分とは異なるその姿に恵真は少し憧れてもいた。そもそも今回の海外へのクルーズ旅行もそうだ。恵真であれば言葉が通じない世界に対して気後れしてしまう。

 そう祖母に伝えると、祖母は首を振った。


「恵真ちゃんは私なんかよりずっと芯が強いわ。私には出来なかったことをしているんだもの」

「おばあちゃんに出来なかったこと?」


 そう言われても恵真には思いつく出来事はない。どちらかというと恵真は周りより少し遅れて行動する慎重な、悪く言えば臆病なのではないかと自分では思っていた。そう祖母に告げると彼女は面白そうに笑う。


「臆病?恵真ちゃんが?」

「うん、だって私、おばあちゃんみたいにすぐ行動できないもの」

「……昔の私はもっと大人しくって自分からは話しかけることも出来なかったわ」

「おばあちゃんが?」

「ふふふ、そうよ。この私がよ」


 話しかけることが出来ない人を気遣いながら自然と会話の中に入れる。そんないつも会話の中心にいる華やかな祖母しか恵真は見た事がない。

 そもそも、孫である恵真にとって祖母の若い頃を想像するのは難しいものだ。


「私にもそんな時代があったのよ。あのドアと出会ったのもそんな若いとき……そうね、きっとあの出会いが私を変えたのかもしれないわ」

 

 そうして祖母が恵真に語り始めたのは若き日の祖母の話。

 裏庭のドアとクロ、祖母の出会いの話である。



*****



 年末を迎え、家の中は慌ただしい。17歳となる瑠璃子は朝からそんな家の手伝いに駆り出されている。

 瑠璃子は不機嫌であった。忙しいのは構わないのだ。そもそも12月は師走とも言われる。「師も走るほど忙しい」これが人々の共通認識なのだ。であれば、瑠璃子が多忙でも仕方がない。そう、家族皆が忙しいのであれば瑠璃子とて不満を抱かないだろう。


 瑠璃子が不機嫌な理由、それは父と兄にある。父はまだ陽が高いのに兄と酒を飲み交わしているのだ。大学生になって寮に入った兄が帰ってきて、父も母も機嫌が良い。無論、久しぶりに帰ってきた兄にゆっくりと過ごしてほしい気持ちはわからぬでもない。だが、兄は父と昼間から酒を飲み、その支度に母はかかりっきりだ。

 そして瑠璃子はと言えば、はたきと竹ぼうき、ちりとりの3つを持って掃除をしている。

 だが、不機嫌ではあるものの瑠璃子は不満1つ溢さずに片付けを手伝う。お手伝いさんである女性達に任せっぱなしというのも彼女の気性には合わなかったし、何より父に意見できる、そんな強さを彼女は持たないのだ。


 遠野瑠璃子、彼女を知る者は皆こう言うだろう。「器量も良く大人しい、慎み深い品行方正なお嬢さんだ」と。だが、彼女自身はそんな自分が嫌いだった。父や母に逆らえず大人しい自分も、そのこと自覚しつつ変われない自分も。

 瑠璃子が不機嫌な理由、それは父と兄。そしてそんな彼らに不満を持ちつつ、不満すら溢すことが出来ない弱い自分にあった。


 使わなくなった小さな部屋を瑠璃子は1人掃除をすると決めた。お手伝いの女性が「お嬢さんはそんなことなさらなくても」瑠璃子を気遣ってそう言ったが、瑠璃子は首を振る。

 掃除をしなければ居間で酒を飲む父と兄のための準備を手伝えと母が言うだろう。それならば掃除に専念した方が心穏やかに過ごせるはずだ。

 そう言うと女性がくすりと笑い、瑠璃子を脅かす。


「神隠しには気を付けてくださいね。お嬢さんは美人さんだから」

「もう、美奈子さんったら!私、そんなことを信じるほど子どもじゃないのよ!」

「はいはい。でもね、私から見たらお嬢さんはまだまだ子どもなんですよ。頑張りすぎないでくださいね」

「……わかったわ」


 その言葉は兄との扱いの差に不満を持つ瑠璃子の気持ちを労わるようで、瑠璃子は無言でくるりと背を向ける。気を緩めると涙が零れてしまいそうで急いでその場を離れたのだ。

 そんな小さな背中を美奈子は自分の妹を見るように優しく見守っていた。



 久しく使っていない部屋は暗く湿気がこもっている気がする。使っていないのにもかかわらず埃というのはなぜか溜まっていく。不思議に思いつつ、瑠璃子は上の方からはたきをかけていく。

 瑠璃子が思い出すのは先程の美奈子の話に出た「神隠し」だ。

 子どもの頃によく聞かされたその話は、遠野家に古くから伝わる話らしい。曰く遠野家の女性は稀に神隠しに会う。ある日突然、見知らぬ扉が開き遠野家の女性を迎えに来るというのだ。ある女性はそのまま行方不明のままになり、ある女性はいなくなった数年後戻ってきて不思議な世界の話をしたという。これが遠野家に伝わる神隠しの大筋だ。

 

 子どもの頃の瑠璃子はこの話を恐れ、聞いた日には怖さで眠れなくなり、母や兄の布団に潜り込んだものだ。不思議な世界に攫われてしまうことを本気で恐れていた。

 だが、年頃になった今その話を思い返すと嫁入り前の娘を心配するがための教育なのではないかと思うのだ。見知らぬ世界ではなく、家の中にいたほうが安全であると示唆しているのではないかと。いなくなった女性や戻ってきた女性は駆け落ちをした娘などの事を比喩として表現している、そういった話なのであろう。

 神隠しがあるのであれば、女性に限った話なのがおかしいのだ。


 ただでさえ、しつけや門限など女性である瑠璃子にだけ厳しい。兄である輝一はそのように言われている姿を見ないのだ。

 居間で過ごしているだろう兄と父の姿を思い出し、また瑠璃子はむくれる。

 はたきをかけて、それをほうきで掃いていく。あまり使わぬこの部屋ではあるが、年末ということもあり丁寧に瑠璃子は片付ける。

 かけられた暦と干支の置物、それは来年のものではない。小さな干支の虎は首を振る地方の土産物であろう。指先でちょんと突くとこくりこくりと首を振る。

 その愛らしさに瑠璃子はくすくすと笑う。実際の虎を瑠璃子は動物園で見た事があるが、その姿とはまるで異なるものだ。


 そのとき、がさり、と後ろから音がした。

 この部屋には誰もいないはずだ。

 思わず瑠璃子が後ろを振り向くと、そこにはありえないものがいた。

 瑠璃子が今、頭で思い描いたものと寸分たがわぬ姿の虎だ。息遣いもハッキリと聞こえる。その後ろには半開きとなった扉がある。茶色の細工が入った扉、壁であった場所からなぜか扉が現れ、虎がその半身をこちらへと身を乗り出しているのだ。

 虎は深い緑色の瞳でこちらをじっと見つめている。

 瑠璃子は叫び、部屋を飛び出した。


 廊下を全速力で走り、台所にいる母の元に行き、瑠璃子は母へと抱きついた。

台所には鍋からコトコトと蒸気が漂い、醬油や出汁の香りが満ちている。母に抱きついた瑠璃子はその温もりと香りを感じながら、泣きながら訴える。部屋の中に大きな虎が出たのだと。

 その話を聞いた母はきょとんとしてその後、笑いながら娘を抱きしめる。大きくなったと思ってはいたが、まだまだ子どもなのだ。暗い部屋で怖くなったか、居眠りをして夢でも見たのだろう。

 落ち着かせるように背中を叩き、もう大丈夫だと繰り返し伝えると少しずつ涙も納まる。瑠璃子自身も恥ずかしそうに「気のせいであろう」そう呟いた。


 そんな娘に笑いながら、母は隠しておいたいくらの醤油漬けを取り出す。炊き立てのごはんをちょこんと小鉢によそい、その上にいくらをこんもりとかけて瑠璃子へと差し出した。そして自分の分もよそい、台所のテーブルで2人で食べることになった。

 これは働く者だけが得られるご褒美だと言う母に瑠璃子は涙を滲ませながら笑う。

 不平等さに憤っていたことは母にはお見通しだったのだ。

 瑠璃子は思う。やはり、まだまだ自分は子どもであるのだと。


 年明け、その部屋におそるおそる足を踏み入れたがそんな扉はどこにもなかった。同じように古い暦と民芸品の虎は変わらずあるが、ただの小さな古い部屋である。

 やはり、疲れた自分が見た幻か夢であったのだろうと瑠璃子はそう思う。

 だが、一方でその扉への思いは尽きなかった。

 あれが遠野家に伝わる「神隠し」の真実ではないだろうか。「神隠し」で姿を消した女性たちはまだ見ぬ世界へと足を踏み入れたのではないか。

 もし、あの扉の向こうへと行っていたら自分はどうなっていただろうかと。

 大きな虎がいたため恐れていたが、扉のみであったならば、その向こうへと自分は行けたのであろうか。

 いやおそらく、行けなかったであろうと瑠璃子は思う。

 父や母、優秀な兄、瑠璃子は大きな不満もなく生きてきた。周囲から見れば、恵まれた環境であろうことも理解している。だからこそ、家族に自分の意見も言えないのだ。

 そんな自分が見知らぬ世界へと飛び込む勇気など持っているわけない。

 それは事実であるが、そんな自分自身に瑠璃子は激しい苛立ちを覚えた。

 可能性があるのに挑戦する事もない。それで現状に不満を抱く自分を許せなかったのだ。


 足を踏み入れることがなかった夢か幻かもわからぬ扉が瑠璃子を変えた。

 もし扉の向こう側に行っていたら、そんな思いが常に心に芽生えた。

 学校を出たら、誰かの紹介で結婚するのであろうと漠然と考えていた瑠璃子は父母に進学の思いを伝えた。まだ、女子の大学への進学は少数であった。そのため瑠璃子は伝える事もなく諦めていたのだ。

 だが、その意思を伝えると父も母も娘を案じたが、強く反対はしなかった。瑠璃子の成績は優秀であったし、結婚もまだ急ぐ必要はないと2人は思っていたのだ。

 その答えに、瑠璃子は拍子抜けした。壁を作り、自分の意思を伝えずにいたのは瑠璃子の方だったのだ。

 自分自身を顧みた瑠璃子はそれから変わった。

 あの扉の向こうへ足を踏み入れる思いで何事にも挑戦してきたのだ。

 


 それから数十年経つ。可愛い孫の世話を頼まれた瑠璃子はキッチンの下の棚で探し物をしていた。息子は出張中で孫の啓太が少し熱があるため、1人では大変だろうと土日の2日間恵真を一時的に預かっているのだ。

 恵真は機嫌よく1人で遊んでいる。

 そんな恵真から瑠璃子に声がかかる。


 「ねぇ!ばぁば!見て!猫ちゃんだよ!裏庭のドアから猫ちゃんが来たの!」


 可愛らしい孫の声に瑠璃子は相好を崩す。この家には裏庭に続くドアなどない。おそらく、ごっこ遊びの一環だろう。付き合ってあげようと顔を上げた瑠璃子はひゅっと息を呑む。

 そこには恵真に抱かれた緑色の瞳の黒猫と、そこにはなかったドアがあった。


 それは数十年前、瑠璃子が見た扉と全く同じもの。

 その扉が再び、瑠璃子の前に現れたのだった。

 

 

 

 



 

 





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