SS ハンナと刺繍入りのハンカチ


 喫茶エニシの休業日、アッシャーとテオはハンナに勉強を見て貰う事が増えた。アッシャーは文字や言葉遣いを、テオは文字と計算をそれぞれ学んでいる。


 「うん、じゃあここにある豆粒が3個でしょう?そこに5個足したら?」

 「8個だよ!」

 「えぇ、そうね。正解よ」

 「凄いな、テオ。答えがすぐ出るようになったな」

 「ふふ、凄いでしょう」


 得意げな様子に目を細めつつ、ハンナはハンカチの刺繍を進めていく。一針ずつ丁寧に思いを込めつつ刺していく。

 そんなハンナの様子を見ていたテオが尋ねる。


 「お母さんは髪を伸ばすの?」


 ハンナの薄茶の髪は肩程につくほどの長さである。これでも少しは伸びたのだ。

元々ハンナの髪は長く、腰まであった。だが、働けなくなった際に髪を売ったのだ。

 この国の感覚では成人女性の髪は長いのが一般的である。そのため、髪を短く切ったハンナの姿を見た近隣の住民には驚かれた。

だが、ハンナにとって周囲の目もこの国の常識もどうでもよかった。

 それ以上に価値のあり、大切なものが彼女にはあるのだ。


 「どうかしら? テオは長い方が好き?」

 「うーん、わかんない」


 自分自身はどう見られても構わない。だが、子ども達がハンナの髪型で肩身の狭い思いをするのであれば、それはまた別問題になる。

 答えを気にするハンナにテオがのんびりとした口調で言う。


 「ぼくはね、どっちのお母さんも好き」

 「そうだよな」


 ハンナの不安を察知したのだろう。アッシャーがハンナを見て笑いながら、テオに同意を示す。

 テオは2人のそんな様子に気付かず、豆粒を摘まみながらまったく違う話をし出す。


 「今ね、甘くないほっとけーきをパン屋さんで売ってるんだよ」

 「甘くないほっとけーき?」

 「あぁ、クランペットサンドの事だよな」

 「うん、そう。豆のちりこんかんみたいなのが入ってるんだよ」


 豆粒を見て、パン屋のクランペットサンドを思い出したのだろう。ハンナもそのクランペットサンドの事は耳にしている。最近、一軒のパン屋で売り出したもので店外で販売するスタイルが少しバゲットサンドにも似ている。値段は豆を使っている事もあり、安価で気軽に買えるのも好評の要因らしい。


 「聞いたことがあるわ。パン屋さんで今、評判よね」

 「あれもね、エマさんなんだよ」

 「え?」

 「あぁ、ナタリアさんって人がバゲットサンドを冒険者ギルドに届けてくれてて、 その知り合いがパン屋のリリアさんなんだ」

 「でね、エマさんがクランペットサンドを教えてあげたの」


 その答えにハンナは納得する。豆を煮込んでスープではなくメインの具材にするという発想もそれをパンにはさむという発想も今までなかったものだ。他国から来た恵真の考えであれば、そんな自由な発想に繋がるのだろう。


 「で、お兄ちゃんが外で販売してもいいよって言ったんだよ」

 「テオ!…言うなよ」

 「でも、お母さんにもエマさんが言ってたでしょう?バゲットサンドを外で売るのはお兄ちゃんが考えたって」


 テオに言われて、恵真に会ったときに言われた言葉をハンナも思い出す。店主である恵真が外で売る発想を思いついたのはアッシャーであり、その事を褒めてくれたのだ。その後、慌てたように「テオ君も!」とテオの働きを褒める言葉を口にし、テオも誇らし気にしていた。


 従業員の考えを受け入れ、その上でそのままその従業員の力と評価する。これはなかなか出来る事ではない。多くの場合、自らの成果とするだろう。それは庶民だけの話ではなく、貴族社会においてもそうと言える。


「だからね、クランペットサンドを同じように売ってもいい?ってリリアさんはエマさんに聞いて、エマさんはお兄ちゃんにいいかって聞いたんだよ。お兄ちゃんは『いいですよ』って許可を出したんだよ。だからね、お兄ちゃんも凄いんだよ!」


 最近、屋台ではなく店舗を持つ店で流行り出したのが店外での販売である。人気のあるバゲットサンドにあやかっての方法だと思ってはいたが、それもアッシャーの発案に基づいているのだ。


 照れくさそうなアッシャーだが、そんな兄を誇らし気にテオが見つめている。2人の息子の働く姿を観た時もそうであったが、どんどん成長していく姿にハンナは愛おしさが込み上げる。



 「ねぇ、お母さん。それは誰の刺繍?お仕事の?」

 「え、いえ、これは違うわ」

 「じゃあ、俺達の?」


 ハンナの手元の刺繍枠を見てテオが尋ねてくる。

 確かにハンナは刺繍をする内職を行ってはいるが、これは違う。ハンナの私的なものである。

 だが、なぜかハンナは答えにくそうに視線を動かす。


 「これは……その……」

 「あ!クロさまだ!」


ハンナの刺繍枠の中には、黒い小さな猫がいた。真っ黒な毛並みに赤い首輪、そして深い緑色の瞳は喫茶エニシのクロであろう。

 以前、喫茶エニシを訪ねた際に見たクロを刺繍したハンカチである。


 「こ、こんな手製の物は却って失礼になるかもしれないのだけれど……他にお世話になっているお返しなんて思いつかなくって……やっぱり不敬かしら」


 貴族女性にとって刺繍もたしなみの1つである。不得手なご令嬢は侍女やメイドにやらせるのだが、そこでも得手不得手はあるものでハンナの内職にも繋がっている。

 そのため、腕にはそれなりに自負のあるハンナではあるが、問題は恵真がもし刺繍が達者であった場合である。そんな方に渡してしまったら却って無礼なのではと刺繍を刺しながら気付いたのだ。


 「そんなことないよ」

 「うん、エマさんはそんな風には思わないんじゃないかな」

 「そ、そうかしら。えぇ、確かに寛大な方でしょうけれど……」


 ハンナの手の中にある刺繍枠を見たテオが頷く。


 「うん、クロさまにも見せよう」

 「く、クロ様にも?」

 「そうだな、クロさまもきっと喜ぶよな」


 ハンナの不安をよそに、このハンカチを非常に気に入った恵真とクロ。

 その喜んだ様子と「もったいなくて使えない」と口にしたのを2人の息子達から聞かされたハンナは今度は安心して、一針一針思いを込めて2枚目のハンカチに刺繍を刺していくのだった。

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