66話 喫茶エニシの夏休み 4
その日、恵真はクロに起こされる前に起床した。祖母の家に訪れてから初めてのことで、枕横に座っていたクロも緑の瞳でじっと恵真を見ている。
今朝だけは早く起きねばならないのだ。そう、戦いはすでに始まっている。えいやとばかりにタオルケットを跳ね除けた恵真にみゃうみゃうと鳴きながら、クロは朝ごはんの催促をするのであった。
夏休みと縁日をイメージした料理をビュッフェ形式で気軽に食べて貰う。その用意は全て恵真だけで行うことになる。本来であればアッシャーとテオがいつも手伝ってくれているのだが、それでは2人を労うことにならない。今日は恵真1人なため、冷めても問題ないものから順番に計算して作らなければならないのだ。
準備を始めて早数時間、恵真は既に勝利宣言を心の中でしていた。かき氷は後で構わないし、きゅうりの1本漬けの代わりのピクルスも冷えている。ベビーカステラはホットプレートのたこ焼き用で焼いてあるし、クレープも何十枚も焼いた。
温かいものは来る間際に計算して用意しなければその味を楽しめない。そういったものは午後の部に持ち越す。
冷蔵庫を開けた恵真は麦茶を取り出す。冷蔵庫の中にはスイカを冷やしてあるし冷凍庫には氷と、スムージー用にこの前買っておいた桃やメロンが入っている。焼きそば用の麺に、バゲットサンド用のフランクフルトは割り箸を刺しておいたので後で焼く予定だ。少しラフかもしれないが、市場にも屋台があるようだし、たまにはいいだろう。もちろん、抵抗があるなら皿やカトラリーもすぐに用意できるのだ。
飲み物もさまざまなものを用意して冷やしている。幾つかのジュースに麦茶、紅茶、緑茶、そしてサワー用の焼酎、喫茶エニシでは今後も扱う予定はないが今日は親しい間柄の者だけなので特別である。そしてオリヴィエがこの前、飲んでくれたコーンポタージュも冷やして置いた。
麦茶を飲んで、一息入れた恵真はまた頭で計算し始める。料理を順序良く作っていくには逆算が必要なのだ。今回、縁日という事でくじを用意した。1つは近所のスーパーにあった飴玉の市販の物、紐を引っ張ると大きい飴や小さい飴が出てくる昔ながらのくじだ。そしてもう1つは恵真手製のものになる。招待状を書いたときに、こちらのくじも作っておいたのだ。
その景品というにはささやかだと恵真は思うが、手製の菓子を焼くつもりである。マドレーヌ用の生地は冷蔵庫で寝かせてあるし、アイスボックスクッキーの生地は冷凍庫にある。これから、そのお菓子を中心に焼き上げ、その後にメインを調理していく。今日の恵真は多忙を極めているのである。
「まったく猫の手も借りたいくらいだね」
「みゃう」
ソファーの上に香箱座りをして恵真を見たクロが同意をするように鳴く。そのタイミングの良さに笑うと恵真は時計を見る。まだまだ時間には余裕がある。麦茶を飲み干すと恵真は伸びをして再び、キッチンへと向かうのだった。
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「素敵!とても魅力的です!こんな形で他国の文化に触れることが出来て、私、今日とても幸せです!」
長い黒髪を結い上げた恵真は、他国の衣装なのだろうか、袖の長く足元まで覆われた衣装を着ている。幾重にも重なった布を腰で結い上げたその服は、紫を基調として花柄で彩られている。夏の装いなのか、涼し気で同時に艶やかさも持ち合わせた不思議な趣きがあり美しい。
そう、日本の夏の装い、浴衣である。かつて祖母が着ていたものだ。
リリアが賛辞する声に、にっこりと笑顔を浮かべた恵真はその意見に賛同する。
「そうなの!アッシャー君もテオ君も似合ってるでしょう!」
「…え、えぇ!本当に!とても可愛いですよね」
恵真の前には上だけ甚平に着替えたアッシャーとテオがいる。2人が着ているのは恵真の兄が小さい頃に着ていた甚平だ。浴衣もあったのだが流石に着付けるわけにもいかず、上着だけ自分で変えて貰った。
2人とも少し照れくさそうだが、恵真の想像以上に似合っているし何よりハンナがひどく喜んでいる。写真館などで子どもにさまざまな衣装を着せて写真を撮る機会が日本ではあるが、マルティアにはない文化なのだろう。角度を変えて2人を見ながら、小さな声で「なんて可愛いの」と何度となく呟いている。
そんなハンナにアッシャーは恥ずかし気に笑い、テオは得意そうに袖を広げてくるりと回る。
「三者三様、それぞれの良さが引き立っておりますね。アッシャーとテオは少年らしい溌溂とした健康さが、またトーノ様は上品で繊細なその美しさが母国の装いで今日は殊更、際立っております。見ているこちらまで涼を感じられます。招いてくださったこと、母国の装いで出迎えてくださったことを光栄に思います」
「あ、ありがとうございます…」
リアムの3人を褒める挨拶を兼ねた言葉にそれまで黙っていたバートとセドリックがハッとしたように話し出す。
「…!そうっすね!ちょうど今、オレもそう思ってたとこっす!」
「そうだな!奇遇にも俺もそう思ってたとこだ!」
「いやぁ、3人とも考える事は一緒っすね!」
「…思いつかないからって誉め言葉に便乗する大人ってどうなんだろうね」
既に1人、ソファーに座るオリヴィエが2人の発言に肩を竦める。
「美しいものは美しいで良いではないか」
「いえ、ナタリア。真に心を打つ美しさというのはどんな言葉でも表現は出来ないものなのよ…今、私はそれを実感しているわ……今日、ここに来てよかったわ、本当に」
「あぁ、そうだな。恵真の料理は旨いからな」
率直に言うナタリアになぜか恵真への思いを呟くリリア、だが2人とも今日ここへ来て良かったという思いは共通している。
恵真が用意した様々な料理はテーブルやカウンターに並べられ、その香りと鮮やかな彩りは食欲を刺激する。部屋の飾りも普段と変わり、どこか異国情緒を感じられるものとなっている。極め付きは恵真の装いであろう。スタンテールの服装とも近隣国の服装とも異なる装いは、普段は決して縁のないものでこの催しが特別なのだと感じさせるものである。
その恵真は訪れた人々を見回すと、胸に手を当てその手をぎゅっと握って話し出す。
「え、えっと。今日は皆さん、来ていただいてありがとうございます。『夏休み』は私の国で様々なお祭りや行事が行われる特別な休暇です。今回、こういった会を開こうと思ったのは、いつもお世話になっている皆さんへの私からのお礼なんです」
こういった機会に不慣れな恵真は、皆の顔を見回しながらゆっくりと話す。恵真の緊張が伝わっているのか温かく見守るその瞳に恵真の緊張も少しずつほぐれていく。
「私がこうやって喫茶エニシを開けたのも助けてくれる皆さんのおかげです。その、いつもありがとうございます! そして、これからもよろしくお願いします。…今日は縁日をイメージして料理や飾り付けを用意してみました。縁日で並ぶのは庶民的な気軽なものなので、皆さんもそのように気兼ねなくお過ごしください」
恵真からかけられた感謝の言葉には少し驚いたが、この催しを自分達のために開いてくれたことはここにいる者全てが感じていることだ。少したどたどしい恵真の挨拶を見守っていた皆から温かい拍手が集まる。すると、恵真が慌てたように言葉を付け足す。
「…あ、以上です!どうそ皆さんご歓談ください!食事もご自由にお楽しみくださいね」
司会のような挨拶ではあったが、空気を和やかにする効果はあったらしい。皆、それぞれ興味深そうにテーブルの料理の元へと進む。
「エマさん、これはなぁに」
「これはベビーカステラっていって、味はホットケーキに似てるかな。甘いお菓子だよ」
「ほっとけーき!お母さん、食べてみよう!」
ベビーカステラは懐かしい甘さのコロコロとした可愛い形と甘い香りの菓子である。昔から屋台ではよくある。他にもクレープやらくがきせんべいなど、自分で作る菓子を並べている。子どもにとって自分で作って食べるのは魅力的なものだ。
恵真が買ったチョコスプレーや色付きのザラメはこれらに使うために用意した。以前作った果実のジャムも各種並べている。
「こちらの丸い似たものも甘いのですか?」
セドリックが近くに置かれた丸い形の料理について尋ねる。それは縁日では必ず見かける人気の一品である。恵真は笑顔でセドリックに説明をする。
「あぁ、これはタコ焼きです」
「…へ!? タ、タコというとあのセドナと同じ愛らしい生き物ですよね!ま、まさか、こちらも…」
「あ、あ!違いますよ!あ、あの形が丸くってタコに似てるからタコ焼きって!そう、その愛らしい形を真似したことからそう呼ばれています!」
驚愕したセドリックに慌てた恵真が思いついた嘘を咄嗟に口にする。すると、バートが皿にとってぱくりと口に放り込み、もぐもぐと口を動かしながら頷く。
「うん、旨いっすね。あ、中身は肉なんすね」
「えぇ!そうです!冒険者用のバゲットサンド用のお肉を刻んだものが入っています!」
「そ、そうですか!そうですよね!いや、それは楽しみです!愛らしい形を模しているとは、トーノ様のお国の方は感性が優れていますね!」
予定ではタコを入れるつもりだったがセドリックの参加も決まり、中身を変更したのだ。どうやら、拙い恵真の嘘をセドリックは信じたようで、タコ焼きの形を褒めながら皿にのせている。恵真の言葉を嘘だと見抜いたバートが無言でこちらを見て頷き、恵真も頷き返し他の皆の様子をさりげなく確認する。
用意した食事の中にはバゲットサンドを食べやすく切ったものやベイクドポテトにコールスローサラダ、きゅうりのピクルスなども並ぶ。氷入れと共に置かれた飲み物はアイスティーに麦茶、果実のシロップなどと焼酎を置き、サワーも好みで作れるようにしてある。
「初めてここで頂いたのがこれをワンプレートにしたものとバゲットサンドでしたね。そのときの感動は今でも忘れられません!ホロッホ亭でしか頂けないと思っていましたし、サワーも子どもの私にはまだまだ味わえないものだと思ってましたから」
「喜んで貰えて嬉しい…私にとっても思い入れが深いから」
マルティアの人々に合わせて作った料理、それは恵真にとっても思い入れのある料理となっている。栄養の考え方の違いを知ったコールスローサラダ、喫茶エニシが注目されるきっかけとなったバゲットサンド、じゃがいもの価値を変えようと悩みながら作ったベイクドポテト、水分補給への抵抗を薄くしたきゅうりのピクルスと麦茶、エール離れをきっかけに作ったサワーは風の魔法使いにも喜ばれている。
祖母の家に住むことで家族の気遣いに恵真は気付いた。アッシャーとテオとの出会いで忙しさで好きだったことすら忘れていた料理を再び好きになれた。リアム達と出会い、誰かに相談し頼る事を知った。裏庭のドアをきっかけに始まったこの日々は恵真にとっていつの間にか、かけがえのないものとなっていた。
「…エマ様?」
「え?」
戸惑ったようにそして恵真を気遣うように声をかけてくるリリアを恵真は不思議に思う。だが、その視線はリリアだけのものではなくなっていく。なぜか皆が恵真の方を心配そうに見つめているのだ。
「エマさん…」
そう小声で言って駆け寄ってきたアッシャーに白いハンカチを手渡され、恵真は気付く。自身の瞳からいつの間にかポロポロと大粒の涙が零れている事に。
この場に相応しくないと思うが、皆の視線から感じる想いにやはり涙が止まらぬ恵真であった。
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