58話 夏野菜のラタトゥイユ 5
「トーノ様、失礼します。少しお時間をよろしいでしょうか?」
「え、えぇ、大丈夫ですよ」
「待てリアム!お前、何を考えている!」
バゲットサンドを販売終了した直後の時間はあまり人が来ない。そのためリアムの話を聞く時間をとる事は出来るのだが、セドリックまで共に訪れるとはどんな事情であろう。
そう思う恵真の前でリアムは右腕に持ったバケツを持ち上げる。中には水とぐったりした様子のタコが浮かんでいる。一体、どうしたことだろうと思う恵真にリアムが言う。
「これで薬草の力を試しては見ませんか?」
そうリアムはこの衰弱したタコを使い、恵真の目の前で薬草の力を試そうというのだ。突然の申し出に恵真は目を瞬かせるが、リアムの言葉を聞いたセドリックはハッとし、縋るように恵真を見つめる。
「この生物は未だ謎が多い。我々では対処の仕様がないのです。ですが、ただこのまま見ているのはしのびないとセドリックは考えているはずです」
「そ、そうです!その通りです!」
「もし何かあってもこのまま放置するよりマシ、そうだよな?セドリック」
「えぇ!そうです!どうか少しでもセドナに何かしてやりたいんです!お願いします!」
「…セドナ?」
「これの名前だそうです」
必死なセドリックと冷静に説明をしてくれるリアム、そしてバケツの中に浮かぶタコ。良く状況はわからないが、このまま何もしないのではセドリックも辛いであろうことは恵真にもわかる。薬草を使う事には未だ戸惑いはあるが、セドリックが納得しているのだ。恵真はリアムに尋ねる。
「どういった香草を使えばいいんでしょうか」
「この場合、どんな状態か不明です。沈痛・殺菌効果のあると言われたバジルにしてみましょう」
キッチンから粉末状のバジルの瓶を恵真が持ってくるとリアムがそれを受け取る。そして、遠慮なくたこの入ったバケツの水に少量振りかけた。だが、些か雑なその対応にセドリックは憤る。
「おい!リアム!もう少し方法があるだろう!口にそっと入れてやるとか、足に丁寧に塗ってやるとか…とにかくやり方が乱暴だろう!」
「薬草を使ってやってるんだ、文句を言うな。そもそも、これの口がどこなのかも俺にはわからんし、足にいたっては8本もあるんだぞ?…どうしろというんだ、一体」
「いいからセドナに優しくしろ!」
大きな男たちが子どものような言い合いをする中、恵真はバケツに注視する。水に振りかけたバジルは水面に浮かんでいるだけだ。だが、その水はじんわりとほのかに発光してきた。すると、ぐったりと浮かんでいたタコの足がゆるやかに動き出す。
相変わらず言い合いを続ける2人に恵真は慌てて話しかける。
「見てください!動きました!タコ!…セドナが動いてます!」
「な…!本当だ…セドナ…セドナが動いている!…あぁ、ありがとうございます!」
バケツに駆け寄ったセドリックは、再び滑らかな動きを見せるセドナの様子に興奮したように感謝を述べる。恵真はというと初めて見た薬草の効果に驚き、セドリックと同じようにバケツの中を見つめている。
そう、薬草の効果を恵真は初めてその目で見たのだ。不安と葛藤を抱えていた恵真だが、それらがゆっくりと解れていくのを感じる。セドリックもセドナの回復には驚いた様子だが、薬草自体の効能を驚くことなく受け入れている。つまりこの国の人々にとって香草が薬草である事には間違いがないのだ。
「…回復しましたね。少しお気持ちが楽になっていれば良いのですが」
「リアムさん…」
「セドリックはああ見えても冒険者として経験も豊富です。その男が薬草の力を疑うことなく使用を認め、その結果、あの生き物は回復しました。この国や周辺国ではあちらは薬草、そして間違いなくそれには力がある。どうか、お力を貸しては頂けませんか?」
恵真が迷いを持った理由が目の前で消えた今、リアムの申し出を断る理由は何もない。以前もリアム達の前で口にしたことがあるが、恵真はその外見から特別視される。だが、今の自分に特別な力がない事は恵真自身が良く知っている。だからといって、今の自分にも出来る事をしないのはまた別問題だ。
リアムの瞳をまっすぐ見つめた恵真は答えを告げる。
「はい、私に出来る事ならぜひ」
「ありがとうございます…」
「いえ、急に私が躊躇しだしてしまって…」
「それは当然の事です。命がかかる事に慎重になるのは悪い事ではありません」
恵真には母国での価値観や常識がある。それがこの国の考えと異なり、戸惑う事もあるだろう。逆に言えば恵真の知識や料理もリアム達を驚かせるものであったのだ。だが、それが今、街の人々には受け入れられつつある。
薬草が入手しやすくなったとして、助かる者は多くとも困る者は多くはない。薬師ギルドもこの判断を受け入れるだろう。中央支部のギルド長サイモンがいるため、話も早く済むだろう。目の前の冒険者ギルド長セドリックも古くから知る信頼のおける男である。薬草もそして恵真の事も悪用する者ではない。
バケツを抱え込むようにして嬉し泣きをするセドリックを見たリアムは困ったように微笑み、恵真は薬草の効果に安堵するのであった。
_____
「言ってないのですか?」
「何をだい?」
薬師ギルドのギルド長室でゆったりと一人掛けのチェアーに腰掛ける男に、ソファーに座る男が驚いたように声を上げる。まるで部屋の主であるかのように振る舞う男がサイモン、冒険者ギルドの中央支部長であり、ソファーに座った男がこの部屋の主マルティアの薬師ギルド長である。
「薬師ギルドの事ですよ!あなたはあの店に通われてるんですよね?黒髪の聖女と懇意になるチャンスではないですか!」
「…そんなんだから、未だに君はあの店を見付けられないんだよ。女神を守るためにあの店が君を拒絶したのかもしれないね」
「そんな…!」
実際は幻影魔法と防衛魔法の重ね掛けであり、害意がある者や黒髪に極度に固執する者は拒まれているのではとサイモンは推測している。だが、サイモンにとってはあのドアもギルド長もどうでもよいのだ。大切なのはあの店に行けば女神と薬草がそこにいる。信仰を得たサイモンはただその神聖な場所が守られればそれでいい。
薬草の普及、サイモンとてそれを望まないわけではない。だが物事には順序がある。何より薬草を提供するか、それは女神の判断に委ねられるべきだとサイモンは考える。薬草を自ら採取し、その希少さを知るサイモンは価値あるものが冒険者や兵士はさておき、貴族階級のみに使用されることを良く思ってはいない。そういった現状を考えると、女神が店舗を設け、広く民に薬草を振舞っている事に深い敬意と尊敬の念を抱いている。
そのうえで更なる提供を願う事はおこがましいとサイモンは思うのだ。喫茶エニシ、あるいは冒険者ギルドで薬草サンドが入手できる。その現在の状況に自分達はまず感謝をすべきだと。
喫茶エニシに訪れる度にサイモンは新しい発見をし、刺激を貰う。安価で新鮮で貴重な薬草を振舞う薬草の女神、その素晴らしさと御心の深さにサイモンは感謝をしている。そう、薬師ギルドに所属する薬師だからこそ我々はひれ伏すべきであろうとサイモンは思う。
「女神との謁見、薬草との新たな出会い、そこに無粋な話は挟みたくないんだ。わかるかい?」
「無粋…あ、あなたにはギルド幹部としての誇りはないのですか!」
「僕はね、ギルドという形式やそこでの役職に誇りを持ったことはないよ。これからもないだろうね」
「…そんな…」
衝撃を受けるマルティアのギルド長を見る事もなく、サイモンはギルド長室を出ていこうとしている。そんな姿をこの部屋の主である男はただ見つめている。
「大事なのは立場ではなく自らが何を行うか、だからね」
ギルド長にその言葉が届いたかはわからない。去っていくサイモンの姿をギルド長は言葉を失い、見送る事しか出来なかった。
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「そ、それは本当ですか…?」
「えぇ、薬師ギルドにはリアムさんやセドリックさんが報告してくださるそうです。でも、その前にサイモンさんには先に話してもいいってリアムさんも言ってくれて…サイモンさん、薬師ギルドの方なんですね。それで香草にお詳しいんですね!」
「…本当に、本当に薬師ギルドにこちらの薬草を卸してくださるのですか…?」
「はい、私で力になれる事であれば…ぜひ」
そう言って笑う恵真だが、サイモンにとってはまたとない吉報を敬愛する薬草の女神から告げられ、その感動に打ち震えている。こちらから乞い願わずとも、薬草の女神は小さな我々の望みに御心を砕き、叶えてくださるのだとサイモンはギルド長には言ってやりたい気持ちになる。
だが、その思いも一瞬で消える。今この時間、彼が考えていたいのは薬草とその女神の事なのだ。
そんなサイモンに薬草の女神恵真が注文されていた紅茶を差し出す。薬草はもちろんだが、ここで扱う品は全てにおいて質が良い。薫り高い紅茶を楽しむサイモンに恵真がもう一品を差し出す。
「焼いたバゲットにハチミツとシナモンがかかっています。よかったらこちらもどうぞ」
「素晴らしい…ありがとうございます…!」
女神の優しさは留まる事を知らないらしい。香りの良い上質な紅茶は素晴らしい。だが、サイモンにとってそれ以上に素晴らしいのは薬草とその女神である。
日差しの強いこの季節、涼やかな部屋で女神から告げられた吉報、上質な紅茶と薬草を使った美味なパンを楽しむサイモンはかつてないほどの充実した時間を過ごすのだった。
喫茶エニシの店主トーノ・エマはサイモン以外の薬師からも「薬草の女神」そう呼ばれるようになる。その日がそう遠くないことを今はまだ誰も知らない。
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