56話 夏野菜のラタトゥイユ 3
「では、女神。失礼いたします。本日、私のために手間をかけた素晴らしい薬草料理をご用意してくださったこと!私、決して忘れは致しません!」
「…いえ、せっかくお客様がおっしゃって下さったので…」
「いえ!私の事はどうぞ『サイモン』そうお呼びください」
「え、えぇ、サイモンさん」
「いえ!サイモンと…!何をするんだい?リアム君!」
強張る恵真の表情を見たリアムが半ば強引にサイモンを引き離す。サイモンと距離が空いた恵真は少し安心した様子だ。サイモンの過剰な信仰は女神と慕う恵真を戸惑わせるには十分なものだ。アッシャーとテオは恵真を守ろうとサイモンを注視しているし、ナタリアに至ってはげんなりした表情を隠そうともしない。
だが、当の本人は気にした様子もなく爽やかで紳士的な笑顔を向けて恵真に近日中の再来を誓っている。そんなサイモンを初対面にも関わらず、ナタリアは追い払うようにドアへと連れていく。
「じゃあな、エマ!また明日来るからな!」
「あなたは明日こちらに来れるのですか!なんと羨ましい…!女神、私も必ず、近いうちにこちらに参りますので!」
「え、えぇ、2人とも気を付けて」
「あぁ!ありがとうございます!」
「いいから行くぞ!」
半ば無理やりナタリアがサイモンを連れ去る形で、ようやく喫茶エニシには平穏な時間が訪れる。だが、恵真はどこか遠くを見つめて何かを考えているようだ。リアムが気遣うようにそっと恵真に声を掛ける。
「トーノ様、大丈夫ですか。驚かれたでしょう?」
「い、いえ。ちょっと色々考えてしまって…。あ、後片付けをしてしまいますね!リアムさんはゆっくりなさってください」
そう言うと恵真はパタパタと食器を片付け出す。その姿や表情から、何かいつもと違う様子を感じるリアムであったが、それ以上追及するのも憚られ、その日は喫茶エニシを後にするのであった。
_____
最近、喫茶エニシには少しずつ昼時を中心に客が増えつつある。始めは恵真の姿に過剰に反応していた人々であったが料理の確かな味、価格以上に価値がある体験を一度した者達が再び足を運ぶようになったからだ。
無論、恵真の風貌はこの国の者からすれば特別なものであり、緊張する面もあるのだが、魔道具のある上質な空間や手間のかけられた料理を楽しむことを更に非日常的なものにする存在となっていた。そしてそんな彼女は見た目から受ける印象よりずっと柔和な人柄で、喫茶エニシの価値を引き上げていた。
「トーノ様、失礼するっす!」
「トーノ様、昨日はご迷惑をおかけしました」
「え!リアムさん、来てたんすか!いいっすね、何食べたんすか?」
「…いや、昨日はそれどころじゃなかったな…」
「へ?何かあったんすか?」
昨日はその場にいた皆がサイモンのペースに吞まれてしまった。飄々としてどうにも掴みどころのないサイモンだが、その一方で彼の言葉に嘘はないと感じる。リアムは昨日彼が言った薬師としての使命感、薬草への情熱、何より現在の薬草では十分に薬草の力を引き出せていない、そんな言葉が頭から離れなかった。
この国では薬草は庶民にまで広く行き渡っているものではない。庶民が飲む薬草茶もあるが、それは病気を治療するものではなく日本でいうと健康補助食品に近いものだ。庶民が病やケガに倒れたときには治療院や薬屋もあるが、そこで配布される薬は携帯食と同程度かそれ以下のものである。でなければ庶民には手が出ないのだ。あるいは魔法使いがいる場合もあるが、力が弱い者であり、治癒ではなく痛みを一時的に取るだけになる。
貴族であれば薬草や魔法使いの治療を受けられるがどちらも供給が万全とは言い難い。そのため、薬草の輸入は国にとっても重要事項だ。国防の要である兵士や冒険者に十分に行き渡るように、質より量を重視しなければならないのだ。
そのため、恵真が行っているバゲットサンドの販売は今後を変えるかもしれない試みである。薬草の販売も薬師ギルドだけでなく、冒険者ギルドも強く望んでいるだろう。その気持ちは剣を握るリアムにも痛いほどわかる。
だが、リアムはつい恵真の心を案じてしまう。
「紅茶でよろしいですか?」
「そっすね!アイスティーでハチミツたっぷりで!リアムさんは?」
「あ、あぁ…俺もアイスティーを…」
「はい!わかりました」
カウンター側の椅子にリアムとバートは座る。いつの間にか2人が座る席もここが定位置になってしまった。恵真と会話しやすいのが理由の1つであろう。アイスティーの準備をしながら恵真が嬉しそうに2人に話しかけてくる。
「今日は煮込み料理が完売しちゃって…早めに看板を下げたんですよ」
「完売!それは良かったですね。トーノ様の作られる料理やアッシャー達の丁寧な接客、そういったこの店の良さが通じたのでしょう」
「ふふ、ありがとうございます」
「今日もね、お客さんが『おいしかった』『がんばってるねぇ』って言ってくれたんだよ!」
「アッシャー君もテオ君も頑張ってるもんね」
「あ、ありがとうございます…」
接客中に見る客の笑顔や掛けられる声はアッシャーとテオにとっても、嬉しいものらしい。誇らし気なテオも少し照れ、恥ずかし気なアッシャーも恵真からすると可愛らしく微笑ましい。そして何より、喫茶エニシを続けていく中では頼りになる存在なのだ。
そんな和やかな雰囲気の中で1人悲し気な表情をする男がいる、バートである。
「完売…つまりオレが持ち帰れるものは…」
「ないに決まってるだろ?」
「うん。全部お客様に食べて貰えたんだもんね!よかったねぇ」
「そっすね、良かったんすよね…で、その手に持ってるのはなんすか?」
帰り支度をしているアッシャーの手には恵真が『えこばっぐ』と呼んでいる袋がある。それは四角い形に形を変えている。バートの予想ではそう、あの便利な容器『たっぱー』であろう。
「あれは2人へのお給金の一部ですよ。はじめに決めましたから」
「え!この間、賃金を渡す事にしたんすよね?」
「はい、だから夜ご飯の分だけに減ったんです!」
「そっすか…。なんか、オレもここで働きたくなってきたっす…」
2日続けて似たような事を言う男が隣に座っているなと、リアムは思いつつ恵真が用意したアイスティーを見つめる。薄いグラスには綺麗な色のアイスティー、そこには夏というのに氷が入っている。この暑い時期に、ひんやりと冷やされた飲み物が提供される喫茶エニシは特別な店と言っていい。
リアムからすればやっとこの店に正当な評価がされつつあるというところである。
「ありがとうございます、どうぞアイスティーです。あと、ちょっとおまけです」
「おまけ、ですか?」
恵真はアイスティーの横にバゲットに赤い野菜のソースのようなものが乗せられた皿を置く。少し厚めに切られたバゲットの上に乗るのは、昨日リアム達が食べたラタトゥイユであろうか。
「昨日のラタトゥイユを煮込んで、水分を飛ばしたんです。バゲットに乗せて食べると美味しいんですよ。どうぞ、召し上がってください。サービスです」
「トーノ様!流石っすね…優しさが疲れた心に沁みるっす…」
昨日、少し残ったラタトゥイユの水分を飛ばしたものをバゲットに乗せて、上にはオリーブオイルをかけている。夏野菜のラタトゥイユを使った夏野菜のブルスケッタである。昨日は、バゲットに沁み込ませ食べたが、水分を飛ばしソースにしたため、味もさらに濃厚だ。エールにも合うが冷たいアイスティーも十分に合うだろう。
「なんかこう、この油っすかね。香りがあるんすけど…」
「オリーブオイルを上に少しかけているんです。風味が増しますよね」
「それっすか!さっぱりして甘みがあるソースにコクが出てるのはこれなんすね!」
「えぇ、昨日のとはまた違う風味がありますね」
「うわっ、昨日のも食べたかったっす…」
確かにラタトゥイユは美味であったが、自由気ままなサイモンによって皆が戸惑っていた。だがリアムとしては薬師ギルドの中央区域の支部長という立場にあるサイモンの内面に少しでも触れられたことは、今後を考えると良かったとも言える。少なくとも彼は恵真達に危害を加える人物ではないだろう。
「エマさん、ありがとうございました!また明日お願いします」
「エマさん、また明日来るね!」
「2人ともありがとう。気を付けて帰ってね」
「はい!」
「みゃおん」
ドアへと向かう2人の後をテトテトと歩くクロはまるで見送っているかのようだ。2人もクロに帰る挨拶をしてドアを出ていく。初めはクロの姿を恐れていたアッシャーとテオもすっかりクロを可愛がっている。そんな光景は恵真から見ても微笑ましく癒しとなっていた。
来る客にとってはクロは魔獣であり、神聖で尊い存在に映るようだ。そっと姿を見つめては感嘆の声を漏らす人が多い。だが当のクロは気にした様子もなく、いつも通り自由気ままに過ごしている。人など小さい存在を気に留めることない姿がまた魔獣らしいとの声が上がるのだが、恵真からしたら猫はそういう生き物であるので答えには困る。
だが恵真の店、喫茶エニシがこの街の人々に受け入れられつつあるのは事実だ。そんな中、恵真はまた新たな選択に迫られている。それをリアムとバートに相談したいと考えていたのだ。そう恵真が思っているのは昨日のサイモンの事が大きい。
ふと、恵真が顔を上げるとリアムと目が合う。恵真にはリアムが自身を案じているように感じられた。実際、昨日サイモンに会ってから恵真は1人考えていることがあるのだ。
「…リアムさん、バートさん。私、今考えていることがあって…でも、上手く自分の中でも形になっていないんです。ですから、きちんと伝えられないかもしれない。それでも、お話してもいいでしょうか…」
今、考えを聞きたいと思っている事は2人に伝えた通り、自分の中でもしっかりとした形にはなっていない。だからこそ、2人の考えを聞き、判断したいと思っているのだ。
恵真は胸元に手を置き、その手を緊張のせいかぎゅっと握る。
そんな恵真の問いにリアムは少し微笑み、バートはきょとんとした顔をする。
「何かお考えがあるのですね。ぜひお聞かせください。誰かに話す事で御自身の中で考えが形になる事もあるかと思います」
「そうっすよ!今更っすよ。今までだって話をしてくれてたじゃないっすか」
「…ありがとうございます」
少し安堵したのだろうか、恵真の表情も少し柔らかくなる。リアムとバートは静かに恵真が話し出すのを待つ。自分の中で言葉を選ぶように恵真は話し出した。
「昨日、サイモンさんの話が聞こえました」
「……」
サイモンが誰なのか、バートは知らないがそれを尋ねる事はない。話し出した恵真の気持ちを遮る事がないようにだ。2人はじっと恵真が話すのを見つめている。恵真が胸元の手をぎゅっと握った。
「私、怖いんです」
「香草を、ギルドに卸すのが怖いって思ってしまうんです」
予想していなかった言葉にリアムとバートは驚き、息を吞む。恵真が打ち明けた薬草への心境、その理由がどこにあるのか、2人は恵真が話し出すのをただ見つめるのだった。
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