30話 香草チキンのバゲットサンド
喫茶エニシはついに開店の日を迎えた。
恵真は緊張と高揚のあまり眠れず、アッシャーとテオが訪れるのを待っていた。時間より早めに訪れたアッシャーとテオは仕事服に着替え、スカーフを巻く。恵真は白いシャツにエプロンを着けた。リアムが贈ってくれた看板をアッシャーとテオが裏庭のドアの向こうへと持っていくのを、恵真は静かに見つめる。
いよいよこの日が来たのだ。どんなお客さんが訪れるのだろう。仕込みは万全だ。すぐに提供できるようになっている。食器もカトラリーも清潔で、テーブルには真っ白なクロスが掛けられている。アッシャーとテオも緊張してはいるが気合十分である。きちんと準備を整えて、三人は喫茶エニシ初めてとなるお客様を待った。
だが結局、誰一人としてドアを開ける者が訪れないまま、その日の営業時間が終了したのだった。
そして誰も訪れないまま、3日目を迎えた。
「おかしいっすね。場所が場所なら銀貨取れる料理っすよ!うん、旨いっす」
そう言いながらバートは恵真の料理を食べる。恵真としても、きちんと作った料理であり味は問題ないと思うのだが、残念ながら食べて貰わなければそれも伝わらないのだ。
「前もそう言ってくれましたけど…でもお客さんには繋がらないみたいで。何が悪いんですかね?入りにくいのかな?あ、お客さんが入りやすいようにドアを開けっぱなしにして中の様子が見えるようにするのはどうでしょう?」
「そしたら防衛魔法の意味がなくなるじゃないっすか。みーんな、その黒髪と黒い瞳をまじまじ見てくるっすよ?何よりリアムさんに出るなって言われてるっすよね」
「…はい、そうでした…すみません」
そう言いつつ、バートはもぐもぐと口を動かす。毎日、きちんと仕込みをしている煮込み料理だが客が来ないため、アッシャー達兄弟、そして兄弟が帰る頃に顔を出すバートに持ち帰ってもらっている。
始めはアッシャーとテオは仕事をしていないのだから貰えないと断るため、恵真はその説得をするのが大変であった。二人に持たせても余る料理はバートとお隣の岩間さんにお裾分けしている。バートはともかく3日続けて岩間さんにお裾分けをするわけにもいかないだろう。
しかしなぜ店に客が入らないのか、恵真は頭を悩ませていた。
「うーん。いや、客…というか人は集まってるんすよね」
「え?」
「この店の周りにちょいちょい様子を窺ってる人達が結構いるんすよね…あ、服装や雰囲気からしても普通の街の人っすよ」
「え!じゃあ、どうしてその人達は入ってこないんでしょう…」
「…気になるが値段もわからず、入りにくいのでは?」
そう言って入ってきたのはリアムだ。仕事を終えたリアムは気にかけて様子を見に来てくれたのだろう。恵真は椅子に座るように促しリアムの分の紅茶をカップに注ぐ。恵真に礼を言い、リアムはバートの隣へと腰掛けた。そんなリアムにバートが尋ねる。
「んー、それなら金持ってる連中は来てもおかしくないんじゃないんすか?」
「…黒髪の女性がいるという噂を聞いて来るような者の考えは利己的なものだろう。そもそもドアが開けられないだろうな」
「あぁ、それはそうっすね。それ安全ではあるんすけど難しいとこっすねー」
「まぁ、安全であることに越したことはないよ」
なんなら幻影魔法までかかっているドアである。それゆえ、利己的な思いからここへ来ようとする者は店に辿り着けないのだ。コンラッドからリアムはそう報告を受けていたが、幻影魔法に関してはまだ恵真達にも伏せている。
防衛魔法と幻影魔法の重ね掛け、今ではその技術を持つ魔術師はいないのが現状だ。そんな中で、必要以上に情報を知ることが良い結果を生むとは限らない。
彼らの安全のためにも自身がきちんと状況を把握するまで、その事実を知らせるつもりはないリアムであった。
「あの、リアムさん、アッシャー君達のことなんですが…」
「ご安心ください。以前お約束した通りです。詳細は伏せますが、彼らの安全は保障致します」
「ありがとうございます…!」
アッシャーとテオにはコンラッドに頼み、密かに護衛を付けている。兄弟を案じる恵真のためでもあり、リアムとしても彼らの安全が気がかりなためだ。不満を溢していたコンラッドではあるが、リアムの命には忠実である。アッシャーとテオの安全は確かだといえる。
「そういえば、以前こちらにご関心があったようでしたので持ってまいりました」
「あぁー、それっすか…」
リアムがショルダーバッグから取り出したのは小さな袋だ。それに見覚えがあるのかバートは何やらしかめっ面になる。なんだろうとリアムの手元の袋を恵真は見つめる。リアムから手渡された袋は思っているより軽くその手触りは良くない。一体何が入ってるのだろうと恵真はリアムから許可を取り、中を覗く。
「…これは、クラッカーですか?」
「以前、トーノ様が気になさっていた携帯食です」
「わぁ!食べてみてもいいですか?」
「…ええ。ですが大丈夫ですか?正直、私としてはあまりお勧めはしませんが…」
「うーん、でもせっかくですし、食べてみたいです」
前にリアム達にクラッカーを出したときに、携帯食の話になった。軍や冒険者で野営の際などに栄養補給として食されるらしいが、その味はかなり不評らしい。似ているが全く味が違うという彼らの話に恵真は興味を抱いたのだ。
その見た目は厚さのあるクラッカーといった様子だ。茶色い生地に何か練り込まれているのだろう。ところどころに緑色が混じっている。見た目は乾パンに少し似ているが、一見しただけでは普通の栄養補助食品に見える。袋に数枚入ってるその1枚を恵真はぱくっと口に入れた。
その瞬間、ゴリッっという音がする。
「硬い!なにこれ、硬い!あ、エグっ!エグみが後からぶわっって来る!うわっ…ま…」
「そうなんすよ。まっずいんすよねー、これ」
恵真は水をごくごくと飲み干す。あまり上品な行為ではないが、そんな事は言っていられないほどの味だ。それを見たバートが笑いながら呆れたように言う。
「トーノ様、一口でいくからっすよ。味が悪いし硬いんで、ちびちび食べるのがコツっすね。あとは水を飲みつつ食べる事っすかねー」
「…確かにこの味は厳しいですね」
「えぇ…ですが薬草が数種類ほど練り込まれており、栄養補給や回復には良いと聞きます。そのため値は多少張るものの、兵士や冒険者にとっては安全に任務を終えるためにも欠かせないものなのです」
「そうなんですね…」
仕事とはいえ、こんな食事を摂らなければならないなんて兵士も冒険者もなんて大変な仕事なのだろう。未だ口中に広がるエグみと苦みに恵真はそう思いつつ、再び水を口にする。
そのとき、恵真はそのエグみと苦みの奥に覚えのある風味を感じた。鼻に抜ける香りなど、どこかで口にしたことがある。そんな気がしたのだ。
「どうしたんっすか?」
「大丈夫ですか?もしや、この味でご気分が悪くなったのでは…」
「いえ!違います違います!」
「では、何か気になる事でも?」
急に動きを止めた恵真の様子を不安に思ったのだろう。案じるリアムからの問いに恵真は小首を傾げながら答える。こんな強い風味を忘れる事はないとも思うのだが、どこで口にしたのか思い出せない。水を飲んだ後に気付くという事は、ここまで強い風味ではないのだろうか。
「…でも確かに、どこかで似たような味を食べた気がするんですよね…」
「え…これに似たものですか…」
「他にこんな不味いものあるんすか…世界って広いんすね」
そう言いながらバートはハチミツを紅茶に落とす。
この独特の風味には覚えがあるような気のする恵真だったが、今は何よりもこの味から逃れたい。恵真は口直しのため、自分のカップに普段より多めにハチミツを入れて飲むのだった。
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