SS ハンナと息子たち

 

 ぎしぎしと鈍い音を立てる古い木製の階段を上り終え、ハンナは自宅へと戻る。階下の小さな中庭が住民達の洗濯場となっている。ハンナはそこでアッシャーとテオの仕事着を洗ってきた。

 ハンナは先程洗った息子たちの仕事着を見る。子ども用とは思えない丁寧な造りのシャツ、素材は木綿のようだが柔らかく肌触りが良い。これを外に干すのは悪目立ちするだろうと部屋に持ってきた。それだけきちんとした品である。これに息子達が袖を通すと思うとハンナは不思議な心持ちになる。

 ここ10日程、ハンナの体調は安定している。以前はこの階段の上り下りもひどく疲れ、息が上がった。そのため、洗濯後に部屋に戻ると休む必要があったのだが。


 「こんなに体が楽な事があるなんて…」


 今日も洗濯を終え、階段を上がってきたが以前のような疲労感があまりない。そのことにハンナ自身が一番驚いていた。その理由にはいくつか心当たりがある。


 一つはこのところ食事を十分に摂れるようになったのだ。今までは十分ではない量を三人で分けつつ、ハンナ自身の量を息子たちにわからぬように減らしていた。一日中を部屋で過ごすハンナより、外で働く育ち盛りの息子たちの方が栄養が必要だからである。だが、今はそれぞれが十分な量を食べることが出来ている。


 もう一つは心労が減ったためであろう。以前は息子たちが無事戻るまで、不安な思いでその帰りを待っていた。息子たちが無事に帰ってきても、その表情が優れないこともある。どのようなことがあったか尋ねても、けっして息子たちは言わない。そのことから良くない扱いを受けていることが察せられ、そのような状況にした自分の無力さを痛感し、身を切られるような思いに駆られていた。


 だが、今はそのどちらもがないのだ。

 全てはアッシャーとテオが、黒髪黒目の女性トーノ・エマと出会ってから。



 その日、アッシャーとテオはまだ陽が明るいうちに帰ってきた。帰ってきた息子たちは何やら荷物を抱えている。仕事を持って帰ってきたのだろうかとハンナは思う。まだ店は開店に向け動いている段階だが、研修という名目で二人は通うことが多い。その内容を二人に尋ねるとハンナには理解できない言葉が返ってきた。


 「うん、エマさんの作ったご飯食べたり、挨拶の練習してるだけだよ」

 「あと、仕事の服を着てみて、スカーフ選んだりもしたよ」

 「…他には?」


 研修中というのだから当然、仕事を手伝うのだろうとハンナは考えていた。息子二人が説明したものはその一部だろう。今回はまだ開店前なので、その準備を手伝ったのだろうか。だが、その割には二人には衣服の汚れもなく疲労の様子も見られない。むしろ帰ってきた二人は楽しげな様子さえ見える。


 「うーん、あ!街の人や食べてるものとかそんな話をしたよな」

 「うん、色々お話して楽しかったよね!」


 どうやら本当に楽しかったらしい。そんな二人の様子にハンナは驚きを隠せない。研修中という言葉を使っているが、いわば見習い期間のようなもの。どんな様子で帰ってくるのかとハンナはいつものように気を揉んでいたのだ。

 そんなハンナにアッシャーが袋を渡す。四角い容器が入っているのが形からわかる袋をハンナは受け取る。それはずっしりとした重さと温もりを感じるものであるが、ハンナには心当たりがない。


 「今日、エマさんがくれたんだよ。しさくひんなんだって」

 「試作品?」


 聞きなれない言葉にハンナが聞き返すがアッシャーは詳しくは話さない。代わりに、テオと共に期待する様子でハンナを見つめる。


 「うん!ねぇねぇお母さん、開けてみて」

 「うん、きっとまたビックリするよな!」


 そんな二人の言葉にハンナが袋の中身を見ると四角い容器とこの前のバケットサンドのパンの部分が入っていた。まだ温かいその四角い容器を開けると、ふたを開けた瞬間に食欲をそそる香りが広がる。それは豆と野菜を煮たもので、よく見るとひき肉まで入っている。


 「これは…」

 「エマさんが『研修中でも仕事のイッカンなのよ』ってくれたんだ」


 研修中、その間の労働に対価が出るとしても正式な雇用条件とは程遠い。そう思っていたハンナには衝撃だった。この料理も様々な野菜が入り、おまけに肉まで入っている。店で出すものと遜色がないだろう。それをまだ見習いとも言える子ども達に与えてくれるとは。

 驚きのあまり、言葉を失うハンナにテオは大きな袋を見せる。これは大きく膨らんでいて、形状がわからない。そんなハンナにどこか誇らし気にテオが言う。


 「ぼくら、お店の人になるんだ。見て、お母さん。格好いいんだよ」


 そう言ってテオが取り出したのは子ども向けの真っ白いシャツである。リアムから聞いていたアッシャー達用の仕事着だという事に、ハンナはすぐには気付かなかった。それは古着というには状態も質も良い数枚のシャツである。それが二人の仕事着になるという。


 息子たちの雇用主となる黒髪の女性から提供された、温かい料理と質の良い仕事着をハンナは見る。その表情は驚きと戸惑いに染まっている。そんな母の様子にアッシャーがテオをチラリと見て、持っていた服を持ち上げる。


 「格好良い姿、母さんにみせてやろう」

 「うん!」


 そう言って二人は着ていたシャツを脱ぎ、持って帰った白いシャツに袖を通す。柔らかそうな厚手のシャツはアッシャーにはちょうど良く、テオには少し大きいものだ。よく見ると女性用なのだろうか。だが素材の良さや丁寧な造りからも品の良さが伝わる。


 「これにね、スカーフを巻くんだ。オレは赤でテオは青にしたんだ」

 「お母さん、どう?ぼくたち格好いい?」


 確かに仕事着と聞いていたが、汚れてもいいように着させる作業着とハンナは捉えていたのだ。だが、実際に見た子ども達の姿は違っていた。白のシャツを着た二人の息子たちの姿は、どこかの商家の子どものようにすら見える。


 「…お父さんみたい?」

 「え?」


 久しぶりにテオの口から「お父さん」という言葉が出た事にハンナは少しドキリとする


 「お母さん、前に言ってたでしょ。お父さんは料理人だったって。お父さんもこんな感じだった?」

 「…えぇ、そうね。お父さんも白い調理服を汚して、一生懸命働いていたわ」

 「そっかぁ、一緒だね」


 そう言ってテオは嬉しそうに笑う。そんなテオの頭をアッシャーが撫でる。

 かつて夫ゲイルは男爵家の料理人をしていた。ハンナもまたそこで働くメイドであり、二人はそこで知り合った。数年後、事情があってそこを離れることになったのだが。


 「これからは今までより早く帰れるだろ?だから、母さんに頼みがあって…」

 「…なぁに?」


 アッシャーの言葉は珍しいものだ。やんちゃそうな印象を受けるアッシャーだが、滅多なことでは頼み事をしない。それは生活やハンナの体調を思いやっての事であろう。そうわかっていても、実際にしてやれぬことが多く歯がゆい思いをハンナは抱えていた。


 「勉強を教えて欲しいんだ。オレ、計算は出来るけど文字は全部読めるわけじゃないしわからない言葉も沢山ある。きっと働いたときに困ると思うんだ」

 「アッシャー…」

 「もちろん、母さんの体調の良いときでいいんだ。これからもっと早く帰って来れるし、そしたら時間もあるから勉強する時間も持てるだろ?」

 「…えぇ、もちろん。教えるわ、これからいくらでも」


 アッシャーの頼みにハンナは胸が詰まる。本来、ハンナは計算も読み書きもきちんと二人に教えるつもりでいたのだ。だが夫ゲイルが亡き後、生活のために働く時間が増え、その時間を取れずにいた。その後ハンナ自身が体調を崩し、今の生活になったのだ。


 「ぼくは?お兄ちゃんだけじゃなくってぼくにも教えて」

 「そうね、テオも一緒。アッシャーとテオにお母さんが教えるわ」

 「よかったな、テオ」

 「うん!」


 汚れのない白いシャツに身を包む二人の姿が、ハンナには目に沁みるように眩しい。

 夫ゲイルと共に夢見た将来、失われたと思った希望、何よりアッシャーとテオの笑い声が部屋に響く日常。それが今再び、ハンナの元にある。

 その幸福を手放さないように、強く強くハンナはアッシャーとテオを抱きしめた。

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