20話 アッシャー家と小さな希望
街外れのディグル地域、逆境に置かれた人々がこの周辺には多く住む。木造の集合住宅は、以前は安宿であった。老朽化のため、宿としても使えなくなった場所、そこに今はさまざまな理由を持つ者達が暮らしている。
小さな窓が一つあるその部屋は簡素で古びてはいるが清潔である。その部屋の隅に置かれたベッドには華奢な体の女性がいた。アッシャーとテオの母、ハンナである。
彼女の手には紙袋がある。見た目より重さがあるそれはアッシャーが帰り際に恵真から受け取ったものだ。
「エヴァンス様、息子たちがご迷惑をおかけしました。本来であれば、私が先方に伺わなければならないところを申し訳なく思っております」
ハンナにそう声を掛けられたエヴァンス、冒険者リアム・エヴァンスはアッシャー達に声を掛ける。
「少し話があるから、二人は先に食事を摂るといい。夕食を貰って来たんだろう」
「うん!ありがとう。リアムさん!」
「テオ、一緒に準備しよう」
そう言ったアッシャーはハンナの手から紙袋を受け取り、食事の支度をするためテオと共同の炊事場へ向かう。そんな二人を見送ると、ハンナはリアムを不安気に見つめた。
「エヴァンス様、彼女はどのような方でしたか?」
「…難しい質問だな」
リアムの返答にハンナは慌てたように言葉を重ねる。
「いえ、私のようなものがその方の背景を探るつもりはございません。ですが…」
「いや、出会ったこともないのだ。親として危惧するのは当然の事だ。…実はあちらはここに伺って話をするつもりだったらしいんだ」
「え、こちらにですか!」
「あぁ、どうしても仕事に関しての説明を親であるあなたにしたかったらしい。説得するのに苦労したよ。代わりに俺が説明して許可を貰うと約束してなんとか納得したけど」
そのときの様子を思い出したのか笑いながらリアムは答える。一方、ハンナの表情は驚きに染まった。
ハンナがリアムから聞いたアッシャー達の雇用条件は破格のものであった。体を壊し、長時間働けないようになったハンナは内職をしている。だがそれだけでは到底暮らしていけない。そんな家計を支えてくれているのが息子二人である。この状況はハンナの心を深く苛んでいた。
「対価として食事を提供するのは話したな。時間に関しては10時から5時、必ず日が暮れる前には帰宅することが条件だそうだ。あと古いものでよければ衣類が何着か用意できるので、それを仕事着にしてはどうかと提案された。どうだ、何か気になる点はあるか?」
「そのお話は本当なのでしょうか。いえ決して、エヴァンス様を疑うわけではございません。ですが、あちらからすれば息子たちを雇う利がないように思えるのです」
ハンナが気になる点といえば、条件が良すぎることだ。ギルドに加入できない年齢の子どもをこんな良い条件で雇ってくれることは他にはないであろう。だが相手側にアッシャー達をその条件で雇う、それだけの利点がない事がハンナは気がかりであった。
「…風変わりだな」
「え?」
「さっき、聞いただろう。どのような人物かと。勿論、俺も会ったばかりで確実なことは言えないが」
ハンナの不安は顔に出ていたのだろう。リアムが雇用主となる女性、その人物像について語りだした。
「風変わりで世間知らず、おまけに人が好い。ここでの生活に疎いところはあるが、当面の生活に困るような暮らし振りではなかった。アッシャーやテオを気に入っている事や、この土地に明るくない事が二人の雇用のきっかけだろう。それ以外の意図は感じられなかったよ」
そんなリアムの言葉にハンナは胸を撫でおろす。そうであるならば、一家にとってまたとはない良い話である。ベッドの横に小さな窓が一つある。ハンナは毎日、その部屋のベッドの中から暮れていく空と共に兄弟の帰りを待つ。それはハンナにとって気が気でない心持ちで過ごす時間である。無事、二人が戻ってくるときには安堵と共に不甲斐なさに打ちひしがれる。
「それは…私達にとっては願ってもないお話です。まさか、そんな良いお話を頂けるなんて思っておりませんでした」
そう言ってハンナはそっと目尻を拭う。
「二人は言葉遣いや所作も整っているから、ある程度の年齢になれば今よりも安定した生活になるだろう。そういったものが身に付いている者は意外と少ないんだ。出会いは偶然のものだが、それを活かせたのは二人への教育だろう」
思いもかけぬリアムの言葉にハンナはほろほろと涙を溢した。至らぬ自分を責め、子ども達に心の中で幾度となく謝罪してきた。せめてとかつて自らが受けた教育の一部を彼らにも身に付けさせた。それが実際にあの子達の身を助ける事となるとは。
ハンナは涙を拭き、リアムへの謝罪の言葉を口にする。
「みっともないところをお見せ致しました。エヴァンス様にもなんとお礼を言っていいかわかりません」
そう言ってベッドの上で居住まいを正すハンナを、リアムは片手を上げる仕草で止める。
「気にすることはないよ、これも縁だ」
鷹揚に笑いながら、リアムは立っている兄弟に声を掛ける。
「そろそろ入っていいぞ、二人とも」
そんなリアムの言葉に、そっと扉が開きアッシャーとテオが顔を覗かせる。どうやら、部屋に入るタイミングを失っていたらしい。テオが扉を押さえて、アッシャーが両手に皿を持って入ってくる。皿の上にはパンに何か挟んだものが乗っている。
「これね!バゲットサンドっていうんだよ」
「バゲットサンド?」
初めて聞く響きにテオの言葉をハンナは繰り返す。そんな母にアッシャーは得意げに言う。
「そう、エマさんが作った。凄いだろ!でっかいパンに野菜や肉が挟んであるんだ!で、こっちはハチミツが塗ってるから明日の朝に食べればいいって…オレもちょっと手伝ったんだ」
「うん、野菜ちぎってたね!」
「テオ!でも、エマさんは上手だって言ってくれてたろ!」
そんな二人の姿は今は亡き夫ゲイルがいた頃のようで、それを見たハンナは再び涙を溢すのだった。
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