4話 大事なのは冷静な判断
「みゃーお」
リビング兼ダイニングキッチンで朝を迎えた恵真の足元をクロはくるくると回り催促する。
恵真の心境も体調も、クロには関係がない。起きて腹が減ったからエサを催促する、それだけである。
「みゃーお みゃーお みゃーお」
「はい、はい、はい」
疲労の残る体を起こした恵真は、フラフラと健康的な生活を行うクロの朝食を用意する。
目の前に置かれた器を確認し、フンと鼻を鳴らしてクロは食べ始める。
本当に昨日は大変だった。
――――――
恵真が兄弟を追いかけ裏庭へと続くドアを開けると、そこには見知らぬ景色があった。舗装されていない道路を歩く人々は西洋の童話に出てくるようなクラシカルな装いをし、金や赤、緑の髪を持つ者もいる。馬の嘶き、乾いた風が運ぶ土埃の香り、全てが覚えている祖母の裏庭とは違う。
(ここはどこだ)
「みゃ」
しばらくそのまま立ち尽くしていた恵真であったがクロの鳴き声でハッとする。まだ、誰もこちらにいる恵真には気付いてはいないようだ。慌てて足元にいるクロを抱き上げ、裏庭のドア(おそらくは)を閉め、ガチャリと鍵もかけその場にしゃがみ込む。ドッドッと鳴る心臓の鼓動は自分の耳にまで聞こえてきそうだ。
「みゃあ」
きつく抱きしめてしまったのだろう。抗議するような鳴き声をあげたクロが腕から降りる。そのまま何事もないようにスタスタと歩き、窓側のソファーに飛び乗ったクロはごろんと丸くなり目を瞑る。
「え!今の何?見た?見たよね!?」
クロは横目でちらりとを見て、面倒くさそうな表情をしてまた目を瞑る。
部屋には先程と変わらず、柔らかい日差しが差し込み、その光を浴びて気持ちよさそうなクロがいる。
恵真はしゃがみ込んだまま考えた。そうだ、私は疲れているのでは。
そうだ、疲れだ。心身の疲れから仕事を辞めたのだ。それゆえに見た幻覚や幻聴だ。そう思った恵真は立ち上がり、勢いよく窓のレースのカーテンを開けた。
「……」
窓の外には先程見た景色と同じものがあった。いや、正確には先程とは少し距離は違うが。
「あああッ!」
開けた勢いより素早くカーテンを閉めた恵真は、裏庭のドアの前に重石替わりに一人分のソファーを引き摺ってきた。そのうえに家の中にある重そうなもの、しまい忘れた扇風機や米袋に料理本の束などをとりあえず置く。即席の簡易バリケードである。
レースのカーテンではこちらの様子が見えるかもしれないので、祖母のタンスから色とりどりの鮮やかなストールを取り出してきて窓に掛ける。薄暗くなったがこれで向こうから見えることはないだろう。代わりに部屋の明かりを灯す。
あとは武器が必要だ。そう考えた恵真は玄関に行き、スリッパから靴に履き替える。安全に逃げるためにもスリッパではまずい。
そしてテーブルの上にフライパンとペットボトル飲料、缶詰を用意する。まずフライパンを両手で持ち、ブンブンと振ってみる。納得したようにうんうんと頷くと左手でフライパンを持つ。
今度は右手にペットボトル飲料の飲み口を持ち握る。そしてダーツを投げるように裏庭のドアに向かってシュっと素振りをしては再び納得したようにうんうんと頷く。
「これで一応は戦えるわね」
左手にフライパン、右手にペットボトルを握り、恵真はまだ見ぬ敵に備えたのだった。
――――――
そして、気付けば朝であった。
キッチン入り口側のメインテーブル上にはフライパンとペットボトルと缶詰がある。椅子に座り、テーブルに突っ伏した形で目覚めた恵真は昨日の事を思い出す。
はじめこそ緊張で窓の外の様子を窺いながら過ごしていたが、特に何も起こらないため段々と気が緩み、お腹も減った恵真はカップラーメンを準備した。それを食べると段々と瞼が重くなり、そして…気付けば朝だったのだ。
(なんだかんだ言って私もおばあちゃんの血が流れてるな)
ため息をついた恵真は、足を忍ばせて窓に近付き、そっと鮮やかなストールをめくって外を確認する。昨日と変わらぬ景色がそこにあり、恵真は再び深いため息をついた。
「裏庭のドアが不思議な世界に繋がっている…」
夢見がちだった少女時代にも言ったことのない言葉を恵真は29歳にして口に出した。
「いや、待って…なんでよ…」
「みゃ」
そんな恵真の疑問に誰かが答えてくれるわけがなく、チロチロと皿を舐めながらクロが朝食の追加を催促する。
寝起きで働きの悪い頭をフル回転させて恵真は考える。とりあえず家の中は今のところ安全である。食料はある。武器(のようなもの)もある。裏庭のドアは鍵をかけ簡易なバリケードで塞いでいる。では、何をすべきか。そこで恵真はふと疑問が浮かんだ。
『裏口のドアが不思議な世界に繋がっている』 ―—-先程、自分の口から出た言葉だが本当にそうなのだろうか。家の外は裏庭側しか確認していないのだ。この家ごと、あるいは町ごとどこかに飛ばされてるそんな可能性もあるのでは。
非現実的な想像なのだが、現在、恵真は非現実的な状況の真っ只中にいる。
「よし、見てこよう!クロはここで待っててね!」
「みゃおん!」
朝食の追加を貰えず、強く抗議するように鳴くクロを置いたまま、フライパンを握りしめて玄関へと向かう。
白い朝の光が差し込む玄関。時間帯はおそらく変わらないだろう。肝心なのはその光景だ。鍵を開け、何があっても対応できるようゆっくりじわじわと恵真はドアを開けた。
———————
ドアの向こうは恵真の良く知る祖母の家の玄関先だった。
沈丁花の甘い香りが漂う、昨日までと何も変わらない祖母の家の風景。
これで家、あるいは町全体がどこか知らない世界に飛ばされたわけではないことがほぼ確定した。
「これって…裏庭はどうなってるのかな」
こちらも誰かが答えてくれるわけもなく、フライパンを握りしめた恵真は覚悟を決め、裏庭へと向かった。やはり周りの風景は今までと変わらない。そして、庭は―――
「凄い…」
裏庭は畑があった。よく見ると後ろのほうには少し花も咲いているが、庭の多くは畑となっている。トマトやキュウリといった夏の野菜の苗が植えられ、ラディッシュやシソやハーブなどはプランターや鉢植えに植えられている。
恵真が小さい頃は畑ではなかったのだが、ここ数年で始めたのだろうか。
プランターのちょうど食べ頃の苺に恵真は手を伸ばす。
「これは…これは良い!」
夏になったら、ここで育った野菜を使って料理をしよう。新しくここでの生活の楽しみが出来た。持ってきたフライパンに苺やハーブを入れて、ホクホクして恵真は部屋へと戻るのだった。
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