第16話
実際、病院で横たわる私は生きていて、死んでいないからこそ死神にもなれない中途半端な存在だ。
亜美の言葉が足りないところは、勇さんの補足を入れながらも説明してくれた。
曰く、私はあの日、予定通りに見事歩道橋から身を投げるんだそうだが、まだそこでは生きていて、突然の落下物に対応出来なかった車に轢かれて命を落とすというのが本来私が進む決められた寿命であり未来だったのだと言う。
それを、亜美が死神の法に反して魂をとって助けたそうだ。魂を取り出しやすくする為に歩道橋の階段で滑らせたと……つまり、それがなければ私は見事に身を投げていたわけだ。
今聞くと、その時とは全く違う価値観と視野で私は自分の事を見る事が出来ている気がする。助かったと思う反面、死んでいたならば勇さんと一緒に居られたのに、という思いは勿論ある。
今みたいな中途半端な存在だからこそ、戻らなくてはいけなくて。記憶も消えて……。
「こんな事になると思わなかったの」
そう言う亜美の目には涙が浮かんでいた。
落ち着いてもらったら生きてもらうつもりで。姉妹の慣れあいをしてしまったら自分が寂しさに襲われそうだから勇さんに私の世話を頼んだと。
まさか勇さんとの事で、戻らない覚悟を決めてしまうと思わなかったと。
「普通に……死んでいたならば……」
私のその呟きに、ビクリと亜美の肩が揺れる。
恨みはないとは言い切れない。死んでいたら……死んでいたら私は勇さんと一緒に居る道があったのだ。でも……あのまま死んでいたら……?
私は勇さんと一緒に居たいと思っていただろうか……?
死神になれる程の未練が私にあったのだろうか……?
結局、今この状態だからこそ思うのであって、当時そのまま、その道を選んでいたら今あるこの感情が生まれているかどうか分からないのだ。
「死んでほしくなかったの!助けるつもりで魂を抜いたの!」
私のそんな思いを知るわけではない亜美は、そう叫ぶ。
そのまま寿命を迎えて死んでしまうのではなく、魂を一時的に抜いて死から免れるようにしたと。
「お願い……悪霊にならないで……」
涙を流しながら懇願する亜美は、昔の面影があって、なつかしさに胸が締め付けられる。
どんな思いで亜美は法を犯したのだろう。
どんな思いで私を助けたのだろう。
どんな思いで…………。
そこで私は気が付いた。
死神は未練のある魂がなるものだと。だとしたならば、亜美の未練は……。
……この七年、亜美はどんな思いで残してきた家族を見ていたのだろう……。
私は溢れてきた涙を拭う事なく、亜美を力強く抱きしめた。
七年という年月を埋めるような抱擁を――。
生身のような温かさはないにしても、その心にある隙間を埋め、心を寄り添いあわせるように……。
まだ幼かった妹は、どんな思いで死神をしていたのだろうと、それを思うと私も胸が痛んだ。
水鏡のようなものの前に立ち、私は覚悟を決めた。
水面に映るのは病室で横たわる私、そして私に寄り添う両親だ。
抱擁を終え、私は亜美に懇願されるまま、ここへ来た。記憶をなくしたくない、勇さんと一緒にいたい。その思いはあるけれど、亜美の涙と叫びにより、それを我儘のように駄々をこねるように貫き通す事に疑問を抱いたのだ。
目の前で亜美が死んだ時の私を考えると、亜美に同じ事をさせるという選択肢は私にはない。しかも私の場合は身体ではなく幽体が終わるのだ。そして幽体にしたのが亜美ならば、その心にどれだけの傷を負わせるのか考えただけでゾッとする。
「……記憶が消えるのが、何よりも幸いなのかもしれない」
思わず口から出た言葉に、亜美も唇を噛みしめる。
亜美の事を忘れるのは辛い。辛いけれど、勇さんの事も忘れられるのだ。
忘れたくない。
忘れたくなんかない。
だけれど、覚えていたところで認識できず、話す事も見る事もできない、幽霊のような相手を思っているのは、どれだけのものなんだろうと思う。
きっと、寿命を迎える事を恋焦がれてしまうだろう。
一日が凄く長く感じるだろう。
そう思えば、忘却は救いなのかもしれない。
「……幸せに生きて」
勇さんは、真っすぐ私を見てそう言った。
幸せ……って一体何なのだろうか、なんて思うけれど、きっとそれは自分の心が決めるものなんだろう。
ここでの記憶を無くした私が、いつそれに気が付くかは分からないけれど。嘆いて不幸だと思う事も簡単ならば、感謝して幸せだと思う事も簡単な筈だ。
すぐ不幸を感じる事は出来るのに幸せに気が付かないなんて、もったいないんだ。
もったいぶってる時間もないけれど、どうしても戻る為の一歩が踏み出せない。
この水面に飛び込むだけなのに……別れがたい私に、更に勇さんは言った。
「寿命を全うし、幸せに生きたと言って笑顔を見せる奈美さんを迎えに行くよ」
――たとえ記憶になくても――
そうだ。
そうだ……。
忘れる方は楽じゃないか。
辛いのは……忘れられる方だ。
残される方が辛いんだ。
私は分かっていた筈なのに……どうしても自分の事しか見えてなくて……そんな自分に自己嫌悪する。
「そうだね……」
見ているしかないというのも、どれだけ辛いんだろう。
本当、私は一体何をしていたというのか。
辛いも苦しいも自分が決める事で、死ぬまでは何か行動を起こす事もできて……ただの傍観者に成り下がるのは、また別の話なのだ。
だって、認識されるのだから。
だって、生きている人間なのだから。
「幸せになるよ」
今度こそしっかり笑えている。
そんな自信がこみ上げる程に、しっかりと口角が上がっている事に、自分でもはっきりわかる。
私を見て、亜美も勇さんも笑顔を見せて頷いてくれた。
「しっかり生きてこい」
「お母さんとお父さんを頼むからね」
そんな言葉を餞別に、私は水面へ飛び込む。
――そうだよね、亜美は親孝行も出来なかったよね。
勇さんもだ。賽の河原……死んだ子どもの魂……
そうして、私の意識は遠のいていった…………
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