第12話

「……あ……」


 たった、一言呟いた言葉。思いを発するのに、何を言うのかも分からない中で、でもただ一言だけ口から洩れた。

 部屋のベッドに寝かされ、管を繋がれている私は、かろうじて生きているのが心電図でわかる。

 ベッドサイドには母が椅子に座って泣き崩れた様子だ。浮気相手と会うのに、いつも小奇麗にしていた母も今は髪が乱れ、目の下には隈を作っている。

 もうずっと家に帰っていないだろ、と言う父の言葉から、母がずっと私に付いていてくれたんだろう事が読み取れた。

 そんな父もスーツを着ている事から仕事に行っているのだろう。今日は仕事を切り上げるからと言う言葉からも理解したが、その顔は暗く疲れきっている様子だ。


「あなた……っ!」


 そう言って父の胸に顔を埋める母と、母の背に手をまわし優しく抱きしめる父を見て、これは幻かと思うのに、私の頬には涙が次から次へと流れてきた。


 私が死んでも変わらないと思っていた。

 どうせ私なんて要らないと思っていた。


 だから、目の前で起こっている事が、頭の中で現実だと理解するのに時間がかかる反面、心は正直なのか喜びだろう思いに溢れている。


 望んだ愛情

 私を必要としてほしかった

 要らないと思われたくなかった


 それが今、ここで証明されている。


「お……そい……」

「遅くはないよ、戻れるんだから」


 私の呟いた言葉に、勇さんはそう返す。

 もっと早く気が付いてくれれば、私は死のうなんて思わなかった。否、家を飛び出す事すらなかっただろう。

 十五歳の誕生日だって、笑顔で溢れて過ごせていた筈だ。

 そして今、両親からの愛を目の当たりにしても戻りたいと切望するまではいかないのだ。

 他に道がないとしても、躊躇ってしまうのは、やはり今この瞬間が代えがたいものだから。




 ――こんな奇跡があるのなら、他の奇跡だってあるかもしれない――




 脳裏にそんな言葉が思い浮かんで、ハッとした。

 だって、目の前に広がる光景は、自分にとってもはや奇跡としか言いようがない程に幼い頃からの七年は長かったのだ。

 歪んだ心は、たかが自分が死の淵に居るだけで両親の仲が良くなるわけではないとか、周りへのパフォーマンスだろうとか、時間が経てば経つだけ、そんな思いが出てきてしまう。

 そんな自分が嫌になる。どうしてここまで捻くれて歪んで、ネガティブな事しか思い浮かばないんだろうって。こんな自分が存在している事にも嫌気がさしてきそうになる。


 だけど

 だから


「……どうせ記憶がなくなるなら、もう少し今を堪能したいな」


 最初から期限は一週間だ、もう半分程しか残っていない。

 少しでも多く、今この時間を過ごしたい。それは叶えられるだろう願いだ。


「あと二日だよ」

「人込みに邪魔されない初詣をしてみたい」


 残った期限を口にする勇さんに、そんな事を言えば、優しい微笑みを返されて、胸がドキッとした。


「幽体になって神様に祈るって、したことなかったな~」


 現世では年末年始か、なんて笑いながら勇さんが言う。

 死んでから何かに縋るように祈る事なんてなかったのだろう。それは私がまだ中途半端な存在だから言葉にした事なのか。

 かと言って、私も初詣なんて家族で行った昔の記憶しかないのだけれど……。



 思い出が欲しい。

 例えどんな選択をして、どんな結末が待っていようと。

 ただただ”今”を大切にしたいんだ。

 今を積み重ねて。

 選択を積み重ねて。

 未来が作られているのなら、大切なのは“今この瞬間”でしかなくて。

 どうなるか分からない未来より、確実に今この手にしている幸せの方が大切で。



 ――ただ、それが続くものではないだけ――

 ――記憶にすら残らないだけ――



 幽体だからこそ、ずっと海の中で遊んでいられる。息苦しさもなければ、衣服が海水を吸って肌に張り付く事も、重さをもって溺れる事もなく、続くサンゴ礁を眺めながら思考は動く。

 生きている時に来る事があるのだろうか、否、来れるのだろうか。

 生きる為に働くのに、働いているからこそ動けない事もある。

 お金と時間と……バランスがなかなか取れないというのはネットでもよく見る情報だった。ならば自分はどうなるのだろうかという不安に襲われた事もある。

 実際、働けないからこそ家から出る事も叶わなかったから、色々情報を集めたものだ。働いていたら遊ぶ時間がなくなろうとも、そんなの関係ないとすら思っていた。


「綺麗だね」


 穏やかに、のんびりと勇さんは色とりどりの魚を近くで眺めながらそう言った。

 今日は勇さんが私に付いていてくれて、アキがまた一人で仕事をしているらしい。

 幻の大陸と呼ばれる巨大なサンゴ礁群。

 勇さんは何を思い、見ているんだろう。焼野原、戦争。死が身近にあった時代とは裏腹に、こんなにも綺麗な自然が目の前に広がるのだ。


「勇さんは、死神になって後悔はなかったの?」


 ふと、そんな言葉が口についた。今に産まれていたら、なんて思わなかったのかな、なんて単純な考えでしかないけれど、それでも疑問だったのだ。終戦から平和な時代へ、その移り変わりを見ていて何も思わなかったのかと。


「ないかな」


 ハッキリと勇さんは口にした。優しい微笑みで、海中から水面を見上げる。


「あの時代があったからこそ、今この時代があると思ってる」


 しっかりと、力強く言われた言葉に、時代も生き方も同じなのかもしれないと思える。

 それこそ、時の政治が左右する時代になるけれど、色んな選択が積み重なり、結果を生み、それが未来に繋がっていく。

 政治に関しても、成人すれば選挙権を得て、私達には選択という責任がついてくるのだ。選択に責任があるなんて、それこそ学校に行ってるだけだったら何も気が付かなかっただろう。

 世の中は広く、知らない事が多く、自分の生きている小さな世界で、少ない視野で、凝り固まった価値観で、全てを判断していたら何てもったいない事なのだろう。

 批判する事は簡単で、だけどその善悪も正否も、自分の中だけで決めてしまえば、本質は見極める事が出来ないだろう。

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