第10話

「なーみーさん?」

「うひゃあ?!」


 どれだけの時間が流れたのだろうか、ふいに眼前に現れたのは勇さんの顔で、その近さに思わず悲鳴のような声をあげ、その勢いのまま急降下した。


「えっ!?奈美さん!?」


 思わず逃げるかのように、そこからつい海の方へ猛スピードで逃げだしてしまう。

 バクバクと心臓が早く鼓動を打っているのは、驚きからだろうか。顔が火照っているのを自分でも自覚するものの、思わず頭を横に振って、その可能性を打ち消そうとする。

 先ほどまで、ずっと勇さんの事を考えていたせいか、何故か今、まともに顔を見るのも照れくさいだけだ。


「奈美さん!ダメだ!!!」


 後方で勇さんが声を張り上げるのが聞こえる。その大きな声で周囲が薄暗くなっている事に気が付く。


 ――逢魔が時――


「奈美さん!!」


 気が付いた時には、海上から伸びた黒い影に足を掴まれて、引きずり込まれてしまっていた。


 ――クルシイ

 ――ツライ

 ――ウランデヤル

 ――タスケテ


 ドロドロした暗い感情が流れ込んでくるようで、その思念で私の心まで蝕まれそうだ。幽体だから痛みがない筈なのに、引き裂かれそうな感覚と痛みに陥る。

 呼吸だってしていない筈なのに、海の中だと分かっているからだろうか、それともこの黒い影のようなものが纏わりついているからか、とても苦しくて喉が引きつる。


「奈美さん!!」


 勇さんの声が聞こえて目を開けると、夕日の光が差し込む水面を背に勇さんがこちらに手を伸ばしているのが見えた。


 嫌だ

 嫌だ

 苦しい

 嫌だ

 助けて!!


 生きたいと、本能で叫ぶかのように必死で勇さんに手を伸ばす。


「奈美さん!」

「勇さん!!」


 お互いが必死に繋いだ手。

 だけれど黒い影のようなものは勇さんにも少しだけ纏わりつき、勇さんの顔も苦悶に歪む。

 主に私に纏わりついているソレを何とか振り払おうと必死のようだけど、勇さん自身も黒い影に触れるのは辛そうだ。


「こっち!!」


 ふいに隣から声が聞こえたかと思ったら、そこには白い空間へと続く扉があって、アキが手を伸ばしている。

 勇さんは私をアキへと渡すように押しこむと、黒い影を少しでも引き離そうと必死に手を振ってから自分も入り込み、空間を閉じた。

 私の身体に残ってた影は、苦痛めいた声を残して消えていったが、あまりの事に私は震えたまま声を発する事も出来ないし、勇さんは肩で息をするかのように地面に手をつけて項垂れている。


「っのバカ!!!」


 そんな中、アキが大声で私に向かって言葉を放った。


「えーっと……アキ……さん?」


 私が何かしでかしたのだろうけれど、まず第一声にそれを言われても自分の中で消化出来ない。

 心の中では何故かアキと呼び捨てにしてしまっているし、実際年齢は私より下かもしれないから良いのかもしれないけれど、流石に面と向かっていきなり呼び捨ては、と思いながら敬称をつけて声をかける。

 私の声にハッとしたかのように、勇さんへと向き直ったアキは、そのまま勇さんと一言二言何か話したかと思うと落ち着くのを待ってから勇さんの半歩後ろに隠れるように下がった。

 ……江戸時代の女は三歩下がると言うよな。あれは隠れるとか言う意味や夫を立てろとかじゃなくて、男が女を守る的な意味があったような気がするけど。

 ていうか女なのかな?男?女だったら……なんて、少しモヤモヤする心でそんな事を考えながら勇さんを見て、言葉を待つ。

 きっとアキと何か話した事を私に話すんじゃないだろうか、なんて思ったからだ。


「……消滅に関わるって言ったよね」


 低く、怒気を孕んだ声に、ビクリと肩が揺れる。

 悪霊が活発になる時間帯。悪霊にとって幽体は絶好の獲物。

 その時は深く考えていなかった。というか、消えても良いとさえ思えていた……思っていたけれど。

 今更ながら恐怖が這い上がってきて、がくがくと震える。そんな私を見て、勇さんは鋭い目つきを和らげて、頭をポンポンと撫でてくれた。


「なんで……あんなものが……」

「…………聞いてなかったって事?」


 ふいに漏れた私の言葉に、今度は呆れたように勇さんが言った。

 勇さん、結構表情がコロコロ変わるな~なんて思って見ていたら、アキが隠すことなく盛大に溜息を吐いていた。


「あんたも悪霊みたいなもんだよ」

「え?」


 ぶっきらぼうに言うアキの言葉に、思わず目を見開いて聞き返してしまう。

 というか、納得できないというか、理解できないというか、脳が理解したくないというか……。

 やっぱ聞いてなかったか……と勇さんはボソリと呟くと、今の状態で居られるのは一週間だけだと言ったよね?と念押しするかのように聞いてきた。

 確か、そう言っていた気はするけど、戻る気がなかった私は全くと言っていい程に聞いていなかった事を思い出しつつ、コクコクと頷く。


「浮遊霊みたいな中途半端な存在で一週間過ごすと、悪霊化するんだ」


 サラリと、とんでもない爆弾発言を落とされた気がする。

 こちらもあまりに衝撃的で、脳が理解するのに時間がかかったようで、しばらく私は唖然としてしまった。

 つまり、本来ならば冥府に届けられ浄化されるべき魂が、未練の塊として留まる事で、中にある悪感情が溢れ出し悪霊になってしまうという。

 悪霊になっても未練は消えず、かと言ってどうしようもできない苦悩の中、悠久の時を過ごす事になる為、そこから何とか這い出ようとする為か、浮遊霊を脅かす存在になってしまうのだとか。

 そして、そんな悪霊を増やさない為にも、むしろ作らない為にも、死神である勇さん達はきちんと魂を冥府に届ける役目があるわけだ。

 死後の世界にも色々あるんだな、と思いながらも、自分が本当に危ない状態なのだと、身震いした。


 ――じゃあ私も、あぁなるの?と。

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