三上玲子(2)


「俺の名前、覚えてたのか?」

「忘れるわけ、ありませんよ」


 思えば、玲子の社会人の青春時代は松下という男とともにあった。事件が起きた時、最前線には常にこの刑事がいた。


「ラーメン。食べに行きません?」


 玲子は笑顔を浮かべて言う。


「変わったもんだ。前は、どれだけ誘っても来やしなかったのに」

「本気で誘われたら行ってましたよ。その気ないのわかってましたから」

「激しく勘違いだと思うが」


 大きくため息をついて、松下は歩き出す。玲子は、懐かしげなその背中を眺めながら、ついて行った。


 屋台のラーメン屋に座って。二人はそれぞれ注文する。


「ビールでいいですか?」

「ああ」

「大将、生二つ」

「あれ? カシスオレンジしか飲めないって、言ってなかったっけ?」

「今ではビールしか飲めません」

「大人になったもんだ」


 松下は苦笑いを浮かべながらビールの入ったジョッキを合わせた。玲子の喉に液体が流し込まれる。瞬間、スカッとした感触が身体中を支配する。


 この、一杯の充足感のために日々頑張っていると言っても過言ではない。今日も、全力で働いた。明日も。明後日も。


「大将、もう一杯」

「早っ! 大丈夫か?」

「平気です。もう三杯は軽くいけますよ」

「お前……言っとくが、歩いて帰れる程度にしとけよ」

「あれ? 送ってくれないんですか?」


玲子は、悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「週刊誌に載るのはごめんだ。今や人気絶頂の女性キャスター様だもんな」

「……運がよかったんですよ」

「じゃ、俺は運が悪かったのか」

「さあ。私は、あなたの5年間を知りませんから」


 出てきたラーメンのチャーシューを齧りながら答える。巡り合わせは悪かったんだとは、思う。刑事と報道記者。基本的には、ほぼ敵と味方。正義と悪ではない。それぞれの正義が違っているが故に、ぶつかり合う運命にあった。


「……東條敬吾」

「……」


 松下の言葉に、麺を掴んだ箸が止まる。


「その後は、追ったのか?」

「しばらくは。刑事たちが張り込むのを、防ぐ役割もありました」

「そうか」


 松下はグッとビールを飲み干した。


 有罪を立件する証拠がありながら、無罪。未成年容疑者暴行のニュースは瞬く間に、衝撃として駆け巡った。検察は担当責任者の松下の提出した証拠を、信頼足りうる物証とは見なさなかった。


「三上。一つ、聞いていいか?」

「はい。なんですか?」

「なんで、あの時、私有地に侵入した」


 松下は真っ直ぐに玲子を見つめた。すべてを見透かすような瞳。責めている様子ではなく、純粋に問いかけているのがわかった。


「どう言う意味ですか?」

「お前は優秀な記者だった。何度も話しているうちに、頑固だけど、骨があって、情熱があって」

「だった……ですか」


 玲子は皮肉めいた笑みを浮かべる。


「言葉のあやだ、気にするな。だから、あの暴走があった時、驚いた。とてもじゃないが、そんなことをするタイプには思えなかったからだ」

「……私、そんなに強くないですよ」


 麺をすべて食べ終え。鶏ガラの透き通ったスープ越しに、あの時の記憶が蘇ってきた。

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