遠藤栞子(1)


 下北沢にある小劇場へと到着した。簡易的な受付ブースでチケットを見せ、中へと入る。組み立て式の椅子が60脚ほど並んでいたので、中里はできるだけ前の方に座る。客の入りはチラホラ。

 顔見知りの若い客が多い中、自分だけがかなり年上なので、気恥ずかしい気持ちになる。

 劇が始まった。若い演者、若い脚本、拙い機材。青く未熟なそれを見せられていると、なんだかこちらも若く思えてくるのだから不思議だ。

 幕が降り、舞台の演者が一斉に出てきてお辞儀をする。そんな中に、他の人よりも一際小さな美女が中里に気づき笑いかける。フィナーレ後、彼女は、嬉しそうに小走りで駆け寄る。

「来てくれたんですか、中里さん」

「……おう、栞子ちゃん」

 中里は照れながら手をあげる。遠藤栞子は、それを、ふわっとした笑顔で返す。

「嬉しい。でも、いいんですか? まだ、お仕事中でしょう?」

「いいんだよ。被害者への経過報告も立派な業務だ」

「そうですか……そう。もう、海斗君が死んで、3年になるんですね」

 少しだけ寂しげに、栞子は微笑む。それを見て、中里はギュッと心臓が締めつけられる。


 2019年12月24日。クリスマス・イブ。ここから3キロほど離れた下北沢のアパートで、腕のない死体が発見された。死亡者は、芦谷海斗。21歳の大学生。当時、彼と交際していたのが遠藤栞子だった。

「ごめんな。あれから、事件は進展がないんだ」

「いえ。本当に中里さんにはよくしてもらって。こうして、たまに舞台も見に来てくださるし」

「……実は、密かに楽しみなんだよ。仕事の息抜きにもなるし。これ、内緒な?」

「あは。悪い刑事さんですね」

 栞子は弾けるように笑う。その様子を見て、中里はフッと安堵の表情を浮かべた。ああ、もう大丈夫だ。3年前は、このまま自殺してしまうのではないかと思ったくらい、弱々しい笑顔だった。

 その時。中里の後ろから気配がした。振り向くと、そこには、今一番会いたくない顔があった。

「すいません、警視庁捜査一課第六係の松下と言います。少し、お話お伺いしてもいいでしょうか?」


           *


「えっ?」

 栞子は、思わず中里の顔をうかがう。小太り中年は、反射的に彼女を守ろうと前に立つ。

「松下……お前、何してる?」

「ども。いや、案件を一通り洗えって指示されまして。偶然ですね」

「これは、俺が担当してる事件ヤマだ。お前みたいなヤツに用はねえ」

「そんなことは、吉原に言ってくださいよ。こっちは、業務命令で来てるんですから。あっ、新堂君、こっちこっち」

「わ、私もいるんですけど!?」

「相沢……ちょうどよかった。コーヒー2本、買ってこい」

「ひどっ!」

 これみよがしに騒がしい。鬱陶しい。ウザったい。こんな、空気も読めない輩に、繊細な栞子を渡すわけにはいかない。

「なに考えてるんだ、あの小娘」

 ギリっと歯を食いしばって、すぐに中里は電話をかける。

「おい吉原、どういう事だよ? この事件ヤマは第四のもんだぞ?」

 こちらの怒気を示すため、あえて、職位を言わずに怒鳴る。しかし、鋼鉄の心臓を持つと言われる係長は、まったく怯む様子はない。

「聞いてなかったんですか? 第六は猟奇犯罪特化の係だって。これから一通りの案件を回らせるつもりです」

「ふざけんな! 越権行為もいいとこだろ。ウチの係長は、それ了承してんのか?」

「当たり前じゃないですか。むしろ、辻係長は助かるって言ってましたよ? 中里さん、この件に時間かけすぎて、他が回ってないって」

「くっ……」

 あの野郎。中里は顔をタコのように真っ赤にする。

「事件は腰を据えてじっくりやるもんだ。そうやって、適当に複数の事件を回ってたら解決するものも、解決しなくなっちまわぁ!」

「とにかく。まだ、その事件の担当をやるなら止めませんけど、現場では松下さんにしたがってください。これは、上司命令です。逆らったら、わかってますよね?」

「くっ……」

 こんの性悪女! と中里は心の中で怒鳴り散らす。しかし、吉原が捜査一課の人事権を掌握しているのは間違いない。なんせ、あれだけの失態を犯した松下を呼び戻したのだから。裏にいるコネクションも相当に強いと推察できる。

 すぐさま、中里は小走りで松下まで近づこうとするが、その間に新堂が割って立つ。

「なんですか?」

「どけよ」

「駄目ですよ。あんた、すぐ松下さんに絡むから、気をつけてくれって吉原係長に言われてます」

「……あの女」

 なにからなにまで、全て自分の邪魔をしてくる。中里は、吉原に明確な殺意を抱く。

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