一年前
一年前(1)
2022年。7月6日午後3時。その日は、うんざりするほどの晴天だった。吉原里佳は、新宿駅の改札を降り、人混みを縫うように歩く。駅前に出ると、強い日差しが照りつけていた。そのくせ、昨日雨が降ったからか、ひどく蒸し暑い。
そう言えば、5年前。あの夏も焼けるよう灼熱だった。吉原は日差しに顔をしかめながら、タクシーを拾った。
新宿警察署。フロアの案内図を見て総務6課を探す。
「ん?」
吉原は、思わず首を傾げた。総務課の第1係から第4係までが同じフロアなのに、第5係のフロアはなぜか、刑事課強行犯係と同じだった。そのいびつな構成に若干の不穏を感じながらも、吉原は階段を上る。
中は、活気でごった返していた。取調べ室から聞こえる怒号。暴れる酔っ払いをなだめるゴリラのような警察官。いかにも、所轄署に来たという空気感で、現場肌の吉原は嫌いではない。
しかし、並んでいる机の割に、空席が目立つ。それすなわち、捜査に出ている刑事が多いということだ。
最近は、どこもかしこも人手不足で回ってはいない。
なんせ、事件を解決するスピードより事件発生のスピードの方が早いのだ。どうやったって追いつきようがない。直近では、所轄の応援要請も断る場合が出て来た。そのしわ寄せが、ここにも来ていると言うことだろう。
――まあ、こっちのが忙しいけど、と吉原は勝ち誇ったように自身の仕事量を誇る。
「あの、ちょっとお伺いしたいんですけど」
吉原は、忙しそうに立ち回っている女性に声をかけた。
「なに? 勝手に入って来ちゃ駄目じゃない」
「いえ。関係者なんです」
「本当? 手帳は?」
吉原はすぐに警察手帳をかざす。
「東京都警察庁捜査一課の吉原と言います。すみません、突然」
「えっ、警視庁本部の? なんで、また」
女性は、目をまん丸くして驚く。
「総務課第5係の松下さんって、こちらにいらっしゃいますか?」
「ああ。アレなら、そこ」
指さした先は、部屋の端っこの、まるで離れ小島のような場所だった。資料でごった返した机たちと異なり、部屋の端に整頓された机がポツンと二つ。固定電話が一つ。あまりにも対照的だった。それに、彼女のぞんざいな扱い。吉原は、さすがに心が痛んだ。
――典型的な窓際左遷じゃない。
「でも、わざわざ、こんな所まで会いに来なくても。電話くれれば、あんなもん、いっくらでも繋いだのに」
女性はカラカラと笑う。
「連絡が取れないから、会いに来たんです」
「まさか。警視庁本部様の電話、私たちが繋げない訳ないじゃありませんか。あんなもん、仕事ないんだから、いっくらでも繋ぎますよ。と言うか、繋ぎましたよね?」
「繋いでもらいました。でも、速攻で切られたんです」
「まっ。そうなの……もしかして、痴情のもつれ?」
「断じて違います」
「あはは。そうよね。あなたみたいなキャリアの美人さんが、あんなヤツと」
「……」
結構、グイグイ来るなと吉原は思った。いいおばちゃんという感じで距離感の詰め方も上手い。きっと、この職場のムードメーカーなんだろう。ただ、松下の扱いが悲惨過ぎて、これ以上聞くのはしのびなくなってくる。
「多分トイレに行ってるだけだから、そこで座ってれば、いつか戻ってくるわよ」
「わかりました。ありがとうございます」
深々とお辞儀をして、吉原は椅子に座る。すると、5分後くらいに、中年の男性が戻ってきた。吉原の存在には気づいたが、なにも言わずに座って、パソコンを開く。歳は50代と言ったところだろうか。表情に覇気がなく、瞳に生気も感じない。
「あの……松下さんが戻ってきたら、どきますから」
「……彼女?」
「断じて違います」
「そう。よかった」
中年の男性は、にやぁと口元を緩ませた。じろじろとこちらの顔と身体をなめ回してくる。鬱陶しい。なんだか顔もイヤらしく見えてきて、不快だ。
冗談のつもりだろうが、昨今はセクハラにも厳しい社会である。もしかしたら、そう言う類いで飛ばされたのだろうかと暇つぶしがてら、推察する。
それから、5分が経過した。
「……」
10分が経過した。
来ない。
――来ない、じゃねーか。
「あの、松下さんてどこか行かれたんですか?」
「ああ、行ったよ。だから、今いないんでしょ?」
「そうじゃなくて。さきほど、トイレに行ったって聞きましたけど」
「知らないよ。四六時中、監視している訳じゃないし」
「……」
そんなだから、左遷されるんだよ、と言葉が喉まで出かかった。しかし、なんの得もない。相手するだけ損だ。このままずっと、ここで朽ち果てていろ。吉原は心の中でそう言い捨て、さっきの女性の方を向く。
「あの、全然待っても来ないんですけど」
「あー、トイレでスマホ弄ってるかもしれないですね」
「トイレで……スマホ?」
聞き間違えだろうか。いや、聞き間違いであって欲しい。
「開かずの間ってヤツ。時々、いないなーと思ったら絶対に一室開いてないんだって」
「……いいんですか?」
「よくないわよ。そもそも、そのための電話番だってのに。まあ、でも、仕事ないんで。雑用だけじゃ定時まで仕事ないし。相手するだけ損」
女性は大口をあけて笑うが、吉原は思わず額に指をあてる。なんだか、頭が痛くなってきた。
「そこのトイレ。どこですか?」
「入り口を出て突き当たりの右端だけど。座って待ってなさいよ。他に居場所ないんだから、いつか戻ってくるわよ」
「そんな暇ないんです」
そう言い捨てて、吉原は早足で歩き出す。月に残業200時間越え。くたくたの毎日の中、溜まる一方の仕事を放り出して来たのだ。これ以上、あんな席にいたら、ストレスで、あの中年男をはっ倒してしまいそうだ。
「お取り込み中失礼します! 松下さん。総務課第5係の松下さん、いますか?」
吉原はトイレの前で大声を張りあげる。
「……誰かいますか?」
返事がない。それから、3分ほど待って、誰も出てこないことを確認すると、吉原は息を止めて突入した。小便器には、誰もいない。左端の大便室に一つだけ扉が開いてないところを確認して、ガンガンと叩く。
「松下さん! いますよね。吉原です! いるなら、出て来てください」
「……人違いです」
「嘘つけ! めちゃくちゃ鼻声じゃないですか。明らかに声色変えてるじゃないですか!」
「こんな声です」
「……っ」
こんの野郎。
吉原は大きくジャンプして、扉の角を掴んで身を乗り出す。すると、鼻をつまみながらスマホをいじっていた
「う、うわああああああっ、お前何やってんだ」
「こっちの台詞ですよ!」
「犯罪だろ! 男女平等。明らかな痴漢行為だぞ」
「お互い様でしょ! 職務怠慢! 仕事中にスマホ弄っていいと思ってるんですか!」
ことさらに大きな声で。不満と幻滅を吉原はぶつける。いったい、誰なんだこいつは。腐ってやがる。ゴリッゴリに腐って。
「ホス
「……」
ヘラヘラとした笑顔が、酷く痛々しい。
「呆れた。捜査一課の元エースが、堕ちるところまで堕ちましたね」
もはや、かつて追いかけた姿はどこにもない。
「体型は特に前と変わってないけど。ゲームやってると腹減らないんだわ」
「……っ」
出てくる発言が、いちいち鬱陶しい。カンに触る。さっきのジジイの、一億倍腹が立つ。
「それで。俺になんか用事?」
「とりあえず、出て来てくださいよ。外で話しましょう」
吉原は扉から飛び降りて、入念に手を洗ってトイレの外へと出る。入口で通行人と鉢合わせて、『なんで』という表情をされたが、そこは澄ました顔をきめた(真っ赤だったかもしれないが)。
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